11年前の三沢さん追悼コラム

 プロレスラーの三沢光晴さんが試合中の事故により急逝されたのは2009年6月13日のことでした。翌週の18日、Gスピリッツの携帯サイトに連載していたコラムに書いたのがこの文章です。Gスピリッツは過去の出来事中心のため、当時はプロレス会場に行く回数は少なく、仕事の中心はアイドル雑誌の編集だったんです。今読み返すと、ちょっと青臭い感じがして、小っ恥ずかしさを覚えますが、自分的には思い出深いコラムです。

 三沢さんが亡くなってもう11年も経つんですね。僕も今月でライター生活17年目に入るんですが、昔は「自分が四十路のオッサンになったら、三沢さんの話をゆっくり聞いて本にしたいなあ。他の人にはできないだろうから」なんてぼんやりと考えていました。それはもう叶わない話ですが、改めて自分なりに今の仕事に精進していきたいと思います。


たわいもないエピソード


 僕はファン時代、ずっとアンチ三沢だった。思い返してみれば、三沢コールをした記憶が一度もない。日本武道館の観衆から大・三沢コールが起こっても、僕はまんじりとせず、腕組みをしながら見守っていた。

 当然いつも対戦相手に声援を送っていた。「川田、立て」「小橋、負けるな」「田上、休む時間を与えるな」「ハンセン、早くラリアットを打っちゃえよ」……。そんな声を上げてしまうほど、当時の三沢は強かった。どんな強烈な技を食らっても、悠然と立ち上がり、余裕を感じさせながら、指で額の汗をぬぐう。その様は本当に格好良かったのだ。ムカつくぐらいに。

 僕は当時からひねくれて、意固地なヤツだったから、そんな三沢がまぶしすぎて、真っ直ぐに応援することができなかった。だから、強くて、ポーカーフェイスで、どんな難しい動きもサラリとこなしてしまう三沢ではなく、そんなエースを相手に愚直な戦いを挑む川田たちをずっと応援していたのだ。

 アンチとして過ごしてきた僕が、偶然が重なってプロレス記者となり、NOAHの担当になった。誰から引き継がれるわけでもなく、いきなり現場に放り込まれたから、三沢にちゃんとした挨拶をした記憶がない。向こうから見ても、いつのまにか入ってきて、気が付いたらよく見る記者になっていた、程度の認識しかなかっただろう。僕からしても、一度も声援を送ったことのない三沢を毎日のように取材しているのが不思議でならなかった。

 僕がNOAHに帯同していた2年半。何度も何度も取材をしてきた。取材を申し込んで断られた記憶はないし、どんな質問を飛ばしても答えてもらえなかった記憶もない。三沢はそういう男だ。だが、それだけ一緒にいたのに、なぜか僕は三沢と酒を酌み交わしたことがない。他の記者なら当然のように、酒の席での逸話が1つや2つは出てくるのに。もしかすると、僕は心のどこかでアンチ三沢だったことを引きずっていたのかもしれない。
 だから、僕が覚えているのは、たわいもないエピソードだけだ。

 例えばこんな話。NOAH番になってから数年後、三沢を改めてインタビューすることになった。上司の「相手は社長なんだから、ちゃんとした格好で行け」という命令に従い、スーツ姿でNOAHの事務所に入ると、三沢から「なにそんな格好して来てんの!」と笑われてしまった。僕もつられて笑うしかなかった。その笑顔が今でも目に焼き付いている。

 もう1つ。これはGスピリッツが始動する直前の話だ。清水編集長ほか編集部全員でNOAHの事務所まで雑誌を創刊するという挨拶に行った。みな改めて名刺を取り出し、挨拶をしているので、僕も「改めまして…」と三沢に名刺を渡した。そうすると、三沢は微笑みながら「知ってるよ!!」と突っ込んできた。新しい雑誌に携わることが決定したばかりで不安だった僕にとって、そうやってふざけて絡んできてくれたのはとても嬉しいことだった。

 最後にもう1つ。僕は常に会見などの取材ではICレコーダーを使用している。普段の三沢は声が小さいので、なるべく三沢の目の前にICレコーダーを置くようにしていたのだが、三沢はそれをめざとく見つけると、そのマイクに向かって、誰にも聞こえないようにボソッと「○○○」とシモネタを呟くのだ。会社に帰って音声を文字に起こしている時、僕が爆笑したのは言うまでもない。

 今ならもう話してもいいだろう。記事だけを見たら、悲壮感や重い決意に満ちた会見に感じられても、三沢が出席者の場合、実際の雰囲気は真逆のことが多かった。

 会見の席に登場した三沢はだいたい不機嫌そうな表情を浮かべ、「話すことなんてないよ」「忙しいんだよ」「どうせ記事にならないんだろ」なんて言葉を吐き捨てる。でも、記者たちは一様に笑顔を浮かべる。これが三沢流の冗談だと分かっているのだ。三沢もすぐに表情を崩し、「で?」と質問を求めてくる。

 例えばそれが対抗戦や今後のマッチメイクなんていう微妙な話題だったとしても、三沢の言葉が持つ温かさは変わらない。「それは言えるわけないだろう?」「その質問はないな」「そうきたか」とツッコミを入れつつ、最終的には見出しになりそうな発言もちゃんとしてくれる。

 会見の後半、三沢の口からいつも飛び出すのは、「男と女で言うと…」「恋愛で言うと…」なんていう例え話だ。当然それはシモネタとなり、「こんな話書けないだろ(笑)」なんてオチも付く。そこから、女性記者への逆質問や男性記者の性相談などに発展することも多々あった。会見よりもそっちの話題の方が盛り上がってしまうこともあって、NOAHスタッフが苦笑しながら「そろそろよろしいですか」と割って入り、笑いに包まれながら会見終了となるのがお決まりのパターンだった。

 今にして思えば、真顔で「つらい」「きつい」なんてリアルな言葉を吐くのは恥ずかしいから、馬鹿話で記者を笑わし、場を明るくすることでバランスを取っていたのかもしれない。そういう意味では、弱みを見せない三沢は僕の何十倍も、何百倍も意固地な人だった。でも、僕はそんな三沢光晴が好きだった。ファン時代はアンチだったけど、今は憧れだった。言い方は悪いけど、こういうオッサンになりたいと思っていた。

 未だに三沢が亡くなったということに実感が湧かない。ただ、最前線にいる同年代の記者が書いた文章を読んでいると、胸が締め付けられるような気持ちになる。今すぐにでも現場に飛んでいって、載せる媒体なんてなくても、いろんな選手に話を聞き、みんな気持ちを丁寧にすくい取って、少しでもいいからファンに伝えたい。それが僕のやるべきことじゃないのか。そんな衝動に駆られた。

 でも、僕の今の居場所はそこじゃないから、とにかく目の前にある仕事と向き合った。アイドルに笑顔で話を聞き、AVのレビューを書き、“死”なんて言葉には縁遠いユルい内容のコラムを書いて、この数日を過ごした。そんな僕を見て、三沢はなんて言うだろう?

「キレイな女ばかりと会えるなんて羨ましいよな!!」

 そんな風にあの笑顔で言ってくれたら嬉しい。

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