日記を書くという行為は、自分の存在が忘れ去られ、蔑ろにされていくことへの抵抗である

「何故日記を書くのか?」

僕はこの問題について何年も悩んでいたのだけど、最近ついに答えが見つかったように思う。

一言で言うと、日記を書くという行為は、
「自分というちっぽけな存在が、忘れ去られていくこと、蔑ろにされていくことへの抵抗」
なのだと思う。


・まず前提として、日記を書く行為にはほとんどメリットが無い。

一般的には、日記(というかブログ)を公開する理由としてよくあるのは、「人に読んで貰うため」(=承認欲求やお金稼ぎ)だろう。

しかし実際問題、無名人のブログはほとんど読まれることはない。
アクセス解析を見れば、毎日検索に引っかかった数十人が閲覧しているように思えるが、実態は、数秒で飽きて「戻る」ボタンを押されたりとか、そんなところだろう。

もちろん、もっと読まれるための工夫(中身を工夫したり、更新頻度を増やしたり)をする手もある。
しかしこれは非常に手間がかかり、時間もかかる。
学生だったりして時間が沢山あるのなら良いが、社会人であれば趣味のブログに毎日何時間も使えないというのが実際のところだろう。

要するに、承認欲求やお金のためなのであれば、匿名でブログなんて書いてないで、本業や家庭に時間を割いた方が良い。

だからつまり、「ブログを書く」という行為には即物的なメリットはないと言える。


・では、日記を書かないとどうなるのか?

 別に普通に暮らせるという人も居るだろう。
 しかし僕の場合、日記を書かないでいると、日々の生活が指の間からサラサラと零れ落ちていくような虚無感がある。
 僕自身の記憶力が低いこともあり、日々が「なかったこと」になるような侘しさがある。

 そして実際、社会から見れば、僕の日々なんてものは「あってもなくても同じ、些細な事」なのだ。
 僕が昼に何を食べようが、何処に行って何を買おうが、何を思い悩もうが、日本社会にはほとんど影響がない。社会全体からすれば、僕は生きていても死んでいても大差のない、塵のような存在だ。


 しかし、そんなの悲しいではないか。悔しいではないか。
 僕はここに居るのだ。確かに今日一日、生きて、物を考えたのだ。
 それを「どうでもいいこと」と処理され、忘れ去られてしまいたくない。

 だから日記を書くのだと思う。
 僕と言うちっぽけな存在が、忘れ去られたり、「どうでもいい」と無視されることへの抵抗――それが日記を書いて公開することなのだ。
 僕は確かにここに居たのだという証明、主張、意思表示。


 ほとんど誰にも読まれないとしても、そうした意地みたいなものを残しておきたくて、僕は日記を書いているのだと思う。