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エドンマーティヌの墓⑩

「わ、見て見てイリア! すごい、大自然だよ。やっとここまで来たねえ」
「お? うん、おええ……」
 私は電車酔いをしていた。ちらっと腕時計を見る。午前十時。かれこれ三時間は乗っていた。
 にしても、アスカは元気だ。先ほどからずっとハイテンションである。なるほど、友達と遠出するのは初めてだと言っていた。――私も初めてだから分かる。これは――一人で行くよりもずっと楽しい。でも――私は遠出自体生まれて初めてだった。まさか、電車がこんなに酔う乗り物だとは……。
「イリア、大丈夫? 酔い止め全然効いてない?」
「気休めにはなっているわよ――飲んでなかったらアメーバになっていたわ」
「うける、アメーバになったイリアも見てみたいから放置しとこ」
 ひどい、マジかこいつ。
 私はぐったりとして座席にもたれかかった。車内の見飽きた景色。広々としたボックスシートは、既に私が食べ散らかしたお菓子の残骸で溢れている。行き先はアスカに全部任せているのだが、残骸をまだ片付けようとしないところから見ると、まだ目的地の駅は先らしい。
 ハァ――私はため息をついた。まさか、私がこんな遠くまでやってくることになるとは。これなら祖父の墓――エドンマーティヌの墓の方がまだ近場だった。いったい、どこに行くというのだろう。
 ――私は目を瞑り、今朝のことを思い出していた。私は、アスカに叩き起こされた。

「ほら、イリア起きて! もう五時だよ!」
「……うあ、え、ご、五時? 五時って、朝? ……夜?」
「朝に決まってんでしょ! 出かけるんだから。ささ、早く起きなさーい!」
 アスカは馬乗りになってフライパンを叩き始める。劈くような金属音に、耳の穴から直接頭蓋骨を狙い撃ちされたような痛みを感じた。次の瞬間、体中に痺れるような寒さを覚えた。布団をひっぺ替えされたのだ。――あまりの仕打ちに、私は唸った。
「おーいおい、アスカさん? ちょっと、私死んじゃうわよ!」
「だって、五回目だもん……顔に墨汁を浴びせても起きなかったときにはびっくりしたよ……」
「え!?」あまりの暴露に、私は飛び上がって洗面台に駆け込んだ。顔中が真っ黒くなって――ない。
「ウケケ、うっそー! 凄い、イリアでもそんな顔するんだね」
「こいつ……」私は拳を振り上げた。
「まあまあ、これで起きたでしょ? さ、早くシャワー浴びて、着替えて。ご飯もうすぐできるから」
 私はチッ――と舌打ちをすると、言われた通りパジャマを脱ぎ、シャワーを浴びた。シャワーの優しい温水は、起きたての身体にとても染みた。平生、私は家で温水を浴びたことがなかった。ガスを止められていたから、冷水を頭からぶっかける。そのたびに、いつも髪と肌が荒れていくのを感じていた。だがこのシャワーは――そうやって荒れた肌を優しくいたわるように撫でた。気持ちいい――シャワーってすごく大事なんだとこのとき思った。日常の、何気ない道具にも大きな幸せが秘められている。――これは節約生活においては、全く気づけなかったことだ。
 体を洗い終わると、浴室を出て身体を拭いた。タオルがまた――ああ、うふん。なんだこれ。天使の羽毛? いや、触れたことないけれど――この世ならざる触感が私の神経に襲い掛かってくる。やばい、ずっと拭いていたい……って、はっ。こんなことをしている場合じゃない。私は、アスカを殴らなければいけないという使命を仰せつかっているのだ。

 私は下着を身に着け、白く袖の膨らんだブラウスと黒のロングスカートを着用し、シルバーに染めあがったロングヘアーをブロウした。ばっさばっさと髪が暴れまわる。っていうか、髪を切った後のドライヤーって気持ちいいな……明らかに風通しがいい。
 乾いたところに、適当に団子を作って髪の毛を束ねた。美容師さんによれば、このロングから見えるうなじがポイントらしい。合わせ鏡にして、どうにか後頭部を覗いてみる。たくさんの私が前と後ろの交互に映っていた。私は自らのうなじを見た。我ながら、きれいなうなじだ。産毛がいいっぽい。美しい――って、何してんだ、私は。ナルシストか! ……私にはアスカを制裁するという使命がある。ここで立ち止まるわけにはいかない!
「た、たのもー!」
 私はついにリビングで叫んだ。びっくりしてアスカが振り返る。手には、フライパンを持っていた。その中に、いい匂いのする豚の生姜焼きが詰まっていた。いい匂いのする――ああ……おなかすいた。
 私はおとなしく席に着いた。
「……え? な、なに?」アスカが怯えた声で尋ねる。
「食べたい」私はつぶやいた。「食べたいから早くして」
「う、うん……」アスカはフライパンの方に視線を戻して、菜箸を器用に動かし、生姜焼きを焼いた。ツンとする生姜のにおいがリビングを仄かに香った。

「――で、今日なんだけど、エドンマーティヌの墓を目指す前にちょっと寄っておきたいところがあるんだよね」アスカは、豚の生姜焼きにかぶりつく私に話しかけた。タイミングが悪い。咀嚼音でよく聞こえなかった。
「お墓楽しみだなあ」私は適当なことを言った。
「……ごめん、私が悪かった。食事中だもんね……じゃあ、ちょっと先にこれ」
 アスカはそう言うと、そばにあった紙袋の中から大きなタブレット端末を取り出した。アップル社の最新モデルだ。しかも多分、一番高い奴。
「なにそれ!?」
「イリア、PHSしかもってないでしょ。今時それはやばいし、こっちも困るからこれあげる」
「え!?」びっくりして、私は豚の肉を噴き出した。アスカは空中のそれを箸で素早くつかみ、流し場の三角コーナーに投げた。ナイスピッチング。ばっちり豚の肉は捨てられた。
「それ、モバイル通信を契約してるからケータイと同じように使えるはず。大きくて、通話はしにくいかもだけど、即席で用意できるのはそれだけだから我慢してね。その代わり、後でイヤホンもあげるよ」
「即席でこれ――」私は、そろそろ私自身の常識を書き換えるときかもしれないと覚悟した。
 タブレット端末をつけると、ホーム画面ではなくラインのアプリが開いていた。そこにはアスカからメッセージが来ていた。『墓行く前にちょっとよるところがある』。なるほど、私はスタンプで返信した。豚の丸焼きが『OK』と叫んでいる。
「なんで、そんなスタンプ入れた覚えないけど」アスカがぼそっと言った。
「ふふん、今購入した」

 ――そういうわけで、私たちは墓とは別の場所に向かっているというわけである。何度か、どこに向かっているのか聞いたけれど、「どうせ聞いてもわかんないでしょ」と言って教えてくれない。
 本当にわからなさそうなので、私はあきらめてゲームに興じることにした。アングリーバード。不細工でなんか怒った感じの鳥をパチンコ台で飛ばし、これまた不細工な豚をぶっ殺すゲームだ。爽快なアクションで、これがまためちゃくちゃおもしろい。
「ふぎゃー、ふぎゃ、ふぎゃ」
「その鳥、イリアに似てるね……」アスカはわざと聞こえるようにつぶやいた。

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