よかったね

 君はなぜ、ぼくが、いや人がなぜ物語を書くのか、きっと分からないだろう。君はこれまで、物語を書こうと思ったことがない。読むのだって嫌いだ。しかも、君はそんな自分のことをどうしてか気に入っている。パソコンと睨めっこしながら四苦八苦しているぼくを見て、こうならなくてよかったとさえ思っているに違いない。しかし、君はぼくのことが好きだ。君は何かに熱中する人を好きにならないではいられない。本当に理不尽だ、ぼくは君の元を去ることができない。
 君ほど、ぼくを理解できていない人間はこの世にいない。君が、小説は嫌いだとか、動画を見ていた方がいいとか、そう言ったことを口にするたびに傷ついていることに、君はきっと気がつかないはずだ。なぜなら、ぼくは君のその気持ちを決して否定しないからだ。ぼくは君の気持ちが痛いほどによく分かる。ぼくだって小説を読むときに、苦痛が伴わないこともない。この活字が、直接ぼくの頭の中に入り込んでくれればいいと何度思ったことか。誰にも読まれない小説を書くたびに、ぼくはだんだん虚しくなってくる。こんなことに意味はあるのだろうかと。多分、君がいなければ、ぼくだって文章を読んだり書いたりすることが嫌いになっていただろう。
 だけれど、ぼくはやはり、文章が書きたいのだ。書かずにはいられない。ぼくの頭の中はいつだって言葉でいっぱいになって、溢れ出して、吐きそうになって。目の前のことを、文章に書くとしたらどのようにしたらいいのか、気づけば考えてしまう。あの要素、この要素とパーティクルを一粒ずつつまみ取って、いるとかいらないとか、プレパラートの上に優しく並べるように言葉を思い浮かべていく。そうして出来上がったぼくの理想の文章が、ぼくを原稿用紙へと駆り立てる。まあ、そうやってできた文章はいつもダサいんだけど。頭の中にあったときはあんなに輝いていたのに、活字にするとどうしてもっさりとしてしまうんだろうか? きっと、頭に浮かべていたと思った言葉の数々は実は幻想で、実はなにも思い浮かべてなんかいなかったんだろうとぼくは今のところ結論している。「考える」ということにおいて考えていることなど、駄作でしかない。だから、目の前に名文が出来上がったと自分で納得できたときの嬉しさと言ったら、それはもう言葉に言い表せないほどなんだ! どこからこの名文がやってきたのだろうか? 神様が教えてくれたのか。それとも偶然か。――頭の中にあったのだと思う。輝きを伴った駄作が積み上がって、それが原稿用紙の上で再び輝き始める瞬間がある。ぼくは、その瞬間が嬉しくてたまらない。
 君はこの感覚がわかるだろうか? 決して分からないだろう。君はだって、名文と駄文の違いさえ理解できないんだから。いや、理解しようともしていないのか。君はそんなぼくの話をただ笑って、「よかったね」なんて適当な相槌を打つばかり。ほんとに勘弁してほしい。本当にムカつく、イライラする。もっと過激なことでも言ってやろうかと言う気になる。例えば、その喜びがわからない人間など、生きていないのと一緒だとか、何もよくなんかねえだろとか、そういったことをぶつけたくなる。筋肉の緊張が眉間に集まって収縮しようと力が入るが、ぼくは一生懸命それを止める。かつて彼女だった女に、ぼくはこのことを言ったことがある。すると彼女はすこぶるカンカンになった。生きてなくてごめんね、なんてことを言った。ぼくはその声質を憶えている。その感触の気持ち悪さにやるせなくなってくる。上顎からねばねばとした脂が分泌してきて、酸っぱさに唾を飲み込んでしまう。ぼくはだから、言わなかった。「よかったね」という言葉に、ぼくは黙って頷く。悔しいのは、そうすることが一種の安心を呼びこんでいたことだった。その安心が、まるで大学に受かってそれを母に報告したときのものとほとんど同じだったことだ。「よかったね」の受容が、ぼくのマザーコンプレックスを呼び起こしたことに、ぼくは厳しい恥辱を感じたのだった。ぼくは女を、一人の女として見ているつもりになっていたが、結局は女に母を見ていただけだったのかもしれない。そう思うと、ぼくは途端に君から顔を背けたくなる、しかし今ここで背けてしまえば、ぼくは自分のマザーコンプレックスを認めることになってしまうだろう。だからぼくは、そうやって君の笑顔に頷いていたのだった。
 君よ、せめてとぼくは思う。せめて物書きの気持ちをわかってくれないだろうか。物語を書く理由を、君に分かって欲しい。少し、少しだけでいいから、ぼくの心の声に耳を傾けてくれ。ぼくは今日起こった様々のことを話した。電車の車輪の音がいつもより高く聞こえたとか、レジの人がお釣りを間違えて照れ笑いをしていたのが印象的だったとか、そういう些細なことをたくさん話した。それは全て、ぼくが君に物語を書くことの楽しさを伝えるためなのだ。そういう些細なことを文章にできれば、これ以上の素晴らしいことはないだろう? 君はどうだ、美しく微笑むだけではないか。可憐な君は、手を後ろに組んで、ぼくの話を楽しそうに聞くだけだ。君はぼくの意図に全く気付いている様子はない。君は愚かだ。バカで、アホで、愚鈍だ。ぼくが、どんなに我慢しているのか、まったく気付かない。ただぼくはそんな君に、どこかホッとしてしまっているのも事実だ。少し前、君がぼくに「子供みたいだね」と溢したことを忘れない。ぼくは根にもつ性質なのだ。
「小説家は、子供っぽいくらいがちょうどいいのさ」
「あはは、なにそれ。そうかもしれないね」
「うん――

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