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エドンマーティヌの墓④

 駅を降りて歩くことわずか一分足らず、目の前には見上げれば首が痛くなるほど高く聳え立ったビルがあった。アスカは、ここに自分の部屋があると妄言を吐いている。帰りたい、いや、大手町っていうからなんとなくは想像していたけれど、帰りたい。っていうか、これ、人が住む建物だったの? オフィスかとばかり――
「なにしてるの? 行こうよ」アスカは無邪気に言った。ふざけんな、こんなところ、指の先でも入ったら蒸発するわ。
「そういえば今日、祖父が危篤で――」
「おじいさん、死んでんでしょ!」
「ちっ――!」
「ほらほら、はやく」
 と、アスカは私の背中をぐいぐいと押した。こうなったら腹をくくっていくしかない。これでも私、トレジャーハンターの孫なんだから! どんな死地でも潜り抜けてやる。
 自動ドアが開く。今まで見たどの自動ドアよりも大きかったが、気にしないことにする。目の前には、だだっ広いロビーが――え、待って、ソファが二つしかない? こんなに広いのに? 体育館くらいあるでしょ。それは言い過ぎか。――って向こうには成城石井がある……え、いや、気にしない。まあ、世間ではそれくらい普通だよね。カップラーメンとか、買わなきゃいけないし。まあでも、わ、悪くないんじゃない?
 私は澄ました顔でエレベーターに向かった。ボタンを押すと同時に、扉が開く。一階待機なのだ。私は逃げるようにエレベーターに飛び乗った。――はぁ、狭い空間、癒される……なんでこんなに癒されるんだろう――と考えて後悔した。そうか、この広さ、私のアパートと同じ広さだ……。
「イリアさん、ボタン押して」
「え? な、何階?」
「十七階」
「……」
 私はおとなしくボタンを押そうとした――が、なんか、ボタンがアコーディオンの横にびっしりついてるあの和音出すボタンみたいな感じになってて、どれが十七階か分からなかった。私がしばらく立ち尽くしていると、アスカが「どうしたの?」と聞いてきた。い、いや、ね、ほら――
「あー、そっか、こういうエレベーターは初めて?」アスカは私の代わりにボタンを押した。ぐんと重量を感じた。どうやらエレベーターが動き始めたらしい。
「逃げられない……」
「え?」
「もしも、マンション内で襲われたら、私、逃げられないわ!」
「え、誰から逃げるの?」
「不審者」
「ああ! 不審者なんか早々出ないよ! イリアさん、自動ドアとか成城石井に気を取られてて気づかなかったかもだけど、ちゃんとここまで来るのに二回別の暗証番号を入力してるんだよ」アスカは得意げにしゃべる。
「暗証番号!? え、じゃあ私がここ来るときどうすんの!?」
「え? 来るの?」
「え? ……あ」
 チーンという音が鳴って扉が開いた。十七階に着いたらしい。私は黙ってアスカの後ろについて歩いた。ああ……あ、ああ……
「着いたよ」
「そ、そっかあ、着いたか~」
「どうしたの? イリアさん。顔、真っ赤だよ?」アスカがニヤニヤしてこちらを見てきた。「ま、いいや、さてとスマホスマホ……」
 アスカはスマートフォンを取り出し、ドアノブに押し当てた。カチリ――と音が鳴る。私は驚いてつい尋ねてしまった。
「え? 今鍵開けた?」
「ふっふ~ん、すごいよね。スマートフォンが鍵なんて、進化してるよね。さ、入って入って!」
 ここは本当に私の知ってる日本なのだろうか。特に日本の大学生は毎日貧困に飢えながら、奨学金を借り、家賃を切り詰め、もやし一本も無駄にしないような生活を強いられている。――が、これはなんだ。鍵くらい自分で回せッ――! こんな家に、私が住めるはずがない。私は、もっと普通でいたい。人並みの生活で満足していたい。天井に着いたシミで星座を作って、天然プラネタリウムの下で生を送るんだ!

「――うわあ、なんだこれ。何万?」
「家賃のこと? 六十万」
「……」
 部屋に入った私は愕然としていた。まざまざと差を見せつけられた。3LDKくらいありそう。間取りはちょっと大きな部屋と、寝る場所と、ソファのある部屋と、ええと部屋と、後台所って感じか。
 しかし――意外なことに、全体的にシックにまとまったハウスメイキングだった。黒っぽい家具が多く、どこかよそよそしさを感じさせるような――言ってしまえば全くかわいくない部屋だった。洋服はいつも地雷女子みたいなフリフリな服ばっか選んでいるくせに。どういうことだろう。
「不思議そうな顔をしてるね」アスカが聞いてきた。
「いやだってこれ――」
「まあ、これは私の趣味じゃないかな。なんか、一番無難なのを選んでったらこれだっただけ。……かと言って洋服は趣味なのかって聞かれたらそれも違うけど」
「へえ……」
 それ以上は聞かなかった。なぜなら、一瞬だけアスカが寂しそうな顔をしたからだった。

 しばらく部屋を見渡した後、私は一人用の手ごろなソファに座った。
「なんでそこ!? 広いとこ座ればいいのに」キッチンで紅茶を入れて戻ってきたアスカが、驚いて言った。
「なんとなく、狭いところが居心地いいから……」
「ハムスターみたいだね」
 クツクツ――とアスカが笑う。ハムスターか。もっと長生きしたいわ。
「――そういえば、あなたはなんでお金が欲しいのよ?」私は紅茶をゆっくりと入れるアスカに尋ねた。ぶわっとフレッシュな茶葉の香りが部屋に広がる。
「え? なんでって、お金は誰だってほしいもんでしょ」
「普通はね。でも、こんな金持ちならいいんじゃないかしら? こんなとこ住んでいるわけなんだから……」
「いやいや、こういうとこに住んでるからだよ」アスカはさらっと答える。「だって、家賃六十万だよ。お金がなきゃ生活できないよ」
「引っ越すだけでお金がっぽがっぽ入ってくるわ……」
 私が言うと、アスカはチッチッチと指を横に振る。
「それに関しては、話すと長くなるから、まずはそれ飲んでよ。あ、でも、イリアさん。やりたいことあるんでしょ? 先それ消化しよ」
「えっ――」
「ほらだって、私との約束をすっぽかして帰ろうとしてたじゃん!」
「……でも、ここじゃできないし……」ユグドラは、パソコンでやるオンラインゲームだ。だが、アスカはクックック――と笑い始めた。なんだ、もしかして?
「そのもしかしてだよ。ほら、その部屋、覗いてみ」
「え、嘘――」
 私はアスカに促され、先ほど唯一覗いていなかった部屋の扉を開けた。プライベートルームかなんかだと思っていたが――この家にしてはこじんまりとした部屋に、一台の大きなパソコンが置かれていた。
「高性能のゲーミングパソコン……うわ、ちょっとまってこのマウス、人気実況者が使ってたすごく高い奴じゃない! モニターもこれ……32インチ? テレビなの!? え? 待って? ユグドラ!? ユグドラインストールされてんじゃん! え、やってる?」
「いや、実は他のことに集中しててやれてないんだよね。ただ、おもしろそうだなあって思っていれてただけ」アスカは得意げな顔をしていった。「でも、ちょうどよかった! これで、ここでユグドラできるでしょ。さ、やっていいよ」
「うん、やる」
 私はショートカットキーをクリックした。普段よりも三倍速い速度で、ユグドラは起動した。

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