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エドンマーティヌの墓⑧

 濃いグレーのニットのタートルネックに、シュッとした藍色のロングスカート。うわ、これ、年齢がぐんと上がったなあ。それに――身体のラインがしっかり出てて……ちょっと恥ずかしい。でも――
 私は試着室のカーテンを開けた。
「どう、かしら?」目を輝かせる二人の女を前に、私はもじもじしながら聞いた。
「いいね! うん、すごくいい! 見違えたよ!」アスカはじろじろと眺めながら喜んでいる。
「私も、やればできる人間だったか……」美容師さんは満足げにうなずいた。
「そう? なら良かった。今日からニュー・イリアね。よし、アバターも変えておこう」
「え?」アスカは驚いて言った。「アバターと同じ格好にしてるの?」
「むしろ、それ以外ある?」
「もしや、名前は……本名?」
「え? あれって本名以外入れていいの?」
「……」
 私がそう言うと、アスカは固まってしまった。満足げに片づけを始めていた美容師さんに礼を言って、私たちは店を後にした。

「マジだね、このアバター、まんまイリアさんじゃん。街で見かけたら気が付くレベルだよ……」
 パソコンの前で、アスカはため息をついた。美容室から帰ってきて、アスカが「ちょっとユグドラ見せて!」などと言うので、起動したのだ。
 ――しかし、なにをそんなに焦っているのだろうか。
「みんなそうなんじゃないの……?」
「え?」アスカは目を丸くした。「本気で言ってる? それ」
「本気だけれど……」
「だってほら、この”豚の丸焼き”って人? 存在します? これ」
「ブタノ・マルヤキさんでは……?」
「……」
 アスカは、はぁとため息をついてキッチンに引っ込んでしまった。何かおかしいことでも言っただろうか。と、私はアバターの外見を黙々と変更した。キッチンから、豆板醤の香ばしい香りがする。もしかして今日は麻婆豆腐では!? ――私は料理が全くできないので、アスカにすべて委託していた。数時間前に、彼女に「イリアさんはいったい何ができるの?」と聞かれたときには、ゲームと答えておいた。その質問が「家事」のカテゴリーを指していると気が付いたときには、アスカがすべての家事を終わらせていた。
「ちょっと聞いてみるか……『私、今日引っ越したんだが、家事全部家主にやらせてるのやばい?』っと……お、ノヴァリスエルフェンシュドさんから返信来た」
ノヴァリスエルフェンシュド『イリア嬢、やばw それ、ニートw』
スープ茶漬け『草乙』
夕暮れの十字架『家主じゃなくて、メイドやんけ』
「おーい、イリアさん!」キッチンからアスカの声。「ゲームで、「みんなって本名でやってる?」って聞いちゃダメだからね!」
「え、なんで!?」――もう遅い。
ノヴァリスエルフェンシュド『イリア嬢、それ本名だったのwww』
スープ茶漬け『大草原不可避』
夕暮れの十字架『特定した』
「マジか……イリアさん、ネットマナー皆無なんだね」いつの間にか後ろで見ていたアスカがまた、はぁとため息をついた。「ちょっともう、ユグドラ禁止!」
「待って待って! ユグドラできないなら、私ここ出ていくわ!」
「それもダメ! てか、今更出ていくとかどんだけ」
「ゲームぅ……」
「分かったよ……分かった。禁止は言い過ぎた。でも、特定とか本当怖いからネットマナーだけは守って。とりあえず、名前と外見は変えてね。私は麻婆豆腐作ってくるから」
「はーい」
 ゲーム禁止は嫌だったので、仕方なく言うことを聞くことにした。アバターの名前は――うーん、ミスターエジプトとかでいいか。外見は、チビロリッ子にしよう。――これでよし。
ノバリスエルフェンシュド『これからはエジプト嬢って呼ばせてもらいますね、荘厳な名前ww』
スープ茶漬け『藁藁』
夕暮れの十字架『まあ、俺たちだけの秘密やな』
「変えた?」リビングからアスカが聞いてきた。
「うん、言われた通り変えたよ。ミスターエジプトにした」
「うんうん、いいね! じゃ、麻婆豆腐ができたからこっちにおいで!」
 私はユグドラをログアウトして、リビングに向かった。

 ――夜ごはん。そういえば、ご飯を誰かと一緒に食べるのは久しぶりだ。大学に入ってからは、ほとんど誰とも一緒に遊ばなかったから多分高校卒業以来か。ゼミでは何度かあったけれど、すごく事務的で、おまけにみんな自分の思索のことしか頭にない連中だったからカウントしない。純然たる友達との夜ごはん。――ん? 友達? アスカって友達なのかしら?
「いただきまーす」アスカが手を合わせてお辞儀をしている。聞くなら今だ!
「ねえ、あなたって友達?」
「今!? どういうこと!? 私が手を合わせてからご飯を食べるまでの間の空白を狙ったってこと!? 難しいよ、判断が!」
「確かに――間違えたわ。じゃあ、いただきます」
 私はレンゲを手にとって、麻婆豆腐の餡の部分を掬った。トロトロで硬さもちょうどよく、キラキラと光っている。豆板醤の鮮明な赤さが、芸術的な様相を成している。――そしてこのダイニングキッチン(名称を教えてもらった)、照明にもこだわっているっぽい。オレンジ色の光が、麻婆豆腐を鮮度良く照らし出す。
 口に近づけると、アスカが作っているときから香ってきた豆板醤の香りが一層強く感じられた。その奥に、芳醇なごま油の香りが、鼻の奥をじんわりと刺激する。瞬間、舌から大量の唾液が分泌するのを感じた。これは――絶対においしい。そしてレンゲを口に入れた。――瞬間。強烈な旨味が口の中で炸裂した。スパイスの酸味と辛みが同時に舌を刺激して、私の身体を弄ぶッ! そして、程よく炒められた白菜のこのおいしさよ。噛むたびにじんわりと旨味成分が噴き出してくる。豆腐は――まだちょっと熱いから保留にしておこう。
「イリアさん、随分とおいしそうに食べていますねえ」アスカが恨めしそうな目を向けてこちらを見てくる。いったいどうしたというのか。
「あんな質問食べる前に投げかけておいて……ほんと……人の心を持ってなさすぎる……」
「よく言われる……」
 私は、前にノバリスエルフェンシュドさんに『イリア嬢はサイコパスですねぇw』と言われたことを思い出していた。

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