アホ

 田中を見ていると、どうも人間ってアホだなあって思ったりする。
 なんか伝えようという気がまるでない喋り方をしているっていうか、なんだか最初っからコミュニケーションを放棄していますって雰囲気が表情に表れている。なんも伝えないのに、なんで喋ってんだろ? 黙ればいいのに。
「ねえ、田中」しおりは言った。「どうしてそんな感じなの?」
「ブブ――、ブ、ブ、ベ……」
「まあなんでもいいや」
 静かな喫茶店の中で、口から発せられた田中の羽音だけが無様に響く。マスターはどうやらまた、ガールズバーへと営業中にもかかわらず出かけてしまったらしい。しおりは立ち上がって厨房へと飲み終わったコーヒーカップを運び、赤いスポンジを用いてコーヒーの滓を丁寧にこすり落とした後、すすいでからまた、ポットに残っていたコーヒーを静かに淹れた。ボーナスタイムだ。きっとマスターは気がつかない。しおりはこれまで、三十六杯ものコーヒーをこの一か月でちょろまかしてきた。彼女は細やかなこの犯罪を終えるたびに、自分が用意したスタンプカードにサインを施した。人生のしおりだ。
「ブビ、ブビ……」
 スタンプカードを財布にしまって、しおりがテーブルに戻ろうとしたとき、彼女の犯罪の一部始終を田中が座ったままじっと見ていたことに気がついた。しおりはムッとして頬を膨らまし、田中の脳天を殴る。しかし田中はびくともしない。
「ブビ……」
 依然として田中は羽音を立てていた。まるで着信を伝える携帯電話のように。しおりはコーヒーカップにそっと唇を乗せて、静かに液体を啜った。口の中に、芳醇なコーヒーの香りがふわりと広がってゆく。
「今月のガス代、そういえば払い忘れてたなあ」
「でもさ、仕方ないじゃん。だって高いんだもん、たかだかさ、シャワーを浴びてるくらいで何千円も取るなんて、おかしいと思わない? また明日から冷たい水を頭からかぶる羽目になるのよ」
 しおりはこれからくる極寒を想像して、身震いした。両腕を硬く組んで唸る彼女を、田中はじっと見守っていた。木枯らしが窓をしつこく叩いている。部屋の隅で一人、バーボンを飲んでいた客はいつの間にかいなくなって、店の中は田中としおりの二人だけになった。
 しおりは、目の前で揺れるコーヒーを見つめていた。
 あれは三年前のことだった。他人のポストを開けることに夢中になっていた私は、いつものように鎌倉駅の周辺を散歩していた。今考えれば、なんてバカな習慣だったろうと思う。でも確かに、他人に届くダイレクトメールの中身を見るのが楽しかった。不動産の広告を見ては、この家に分譲マンションなんか契約できる金なんかないだろうと小馬鹿にし、サプリメントの広告を見ては、もう手遅れなデブを頭の中で想像して笑っていた。粗大ゴミの回収業者のチラシを見たときには、そのアパートのゴミ捨て場に回って、世間一般的な夫の虚像を生み出し、その夫が妻によってゴミ捨て場に捨てられている場面を思い浮かべた。しかし、その日ばかりは上手くいかなかった。マンションの契約ができないのは紛れもなく私だったし、たるんだお腹を揺らしていたのは私だったし、捨てられていたのも私だった。何度考え直そうとも、結局バカにされているのは私。そうして私は反省したのだった。他人のポストを無闇に開けてはいけない、ということを自ら学んだのだった。
 だけど――しおりは考えた。だけどどうして、あの日突然、そんなことになってしまったのだろう。しおりには分からなかった、自分に湧き上がる道徳心の所在が。アイデンティティの連絡口はとうに閉じている。スマートフォンの契約はすでに切れていた。
「ブブ、ブ、ブ、ブブ――」
 田中はやはり、静かにしおりを見つめていた。マスターのいない喫茶店の中で、田中ができることはしおりを見つめるくらいしかないのだった。コーヒーを頼みたくても頼めない。かと言ってしおりに相談すれば、彼女は必ず法を破る方法を提案してくるだろう。田中にとって、それは不本意な結末であった。目の前で何かに怯えながら震える彼女をただ見守ることだけが、田中の幸せであった。
「ブ、ブブ、ベブー、ベブー」
「田中ってさあ」しおりは言った。「何考えて生きてるってわけ?」
「ブビビ、ブブブ、ブ、ブブブ」
 私、一度でいいから田中とちゃんと話してみたいと思ってんだよね。なんかわかんないけれどさあ、私、これまで無事に生きてこられたのって、なんだか田中がいたからなような気がする。まあ、田中以外にもそういう存在って色々あるよ。コーヒーとかさ、自転車とか、本とかね、多分ないと私、生きてこられなかったと思う。歴史の授業とかでさあ、そういうのが高価だった時代とか、なかった時代のことを言われるときがあるけれど、私、生きた心地しないもん。どうやって楽しいことを見つけていたんだろうかとか、どうやって時間を潰していたんだろうかとか、次から次へと疑問が湧いてくる。田中はさ、多分今二十歳くらいでしょ、田中が生まれる前の時代の人ってきっと大変だっただろうね、って思う。具体的に何が大変だったのかとかは、全然分からないけれど――でも、私の想像できないことが、その当時はきっと起きていた、そんな気がする。例えば、いつのまにか留置所にいるとか――
 ――ブ、ブ、ブブブベブ
 ドアの開く音がした。蝶番の軋む音だ。マスターが帰ってきたのだろう、彼はへべれけになってカウンター席に倒れ込んだ。しおりは素知らぬ顔でまたコーヒーを淹れにキッチンへ入る。田中は、マスターの愚痴を聞きながら、相変わらず半開きの口から羽音を立てていた。

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