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エドンマーティヌの墓⑦

「よし」アスカは本を閉じて、私に聞こえるように言った。「場所も分かったし、明日お墓行くよ!」
「え!? 明日……? だって明日、金曜日じゃない」
「知ってんだよ、イリアさん。君、金曜日は全休にしてるでしょ。哲学科は、金曜日にいい授業、あんまりないもんね」
 くっそ、こいつには嘘をつけないか。これだから頭のいい奴は。
「そ、それに十一月も終わりに近づいて、こう、すんごく寒いんじゃないかしら……。外出たくない」
「ならなおさら、これからもっと寒くなるでしょ! 行けるとき行っとかないと。――洋服なら貸すよ」
 アスカは親指で寝室を指さした。先ほどの説明では、寝室の中にクローゼットがあるらしい。しかし、人のクローゼットを勝手に開けていいのだろうか。それに、服の好みが――
「大丈夫だよ。ほら、試しに見てみて」
「そこまで言うなら、遠慮なく」
 私も洋服に興味がないわけではない。ゲームをポーズ画面にして、アスカの洋服を見てみることにした。

 私は寝室に入った。寝室も藍色を基調にしてルームメイキングされていた。本当に落ち着いた部屋だ。全然かわいくない。でも、寝心地は良さそう。夜空の色に近いから、きっとぐっすり眠れるだろうな。と、それは置いておいて。
 クローゼットらしき扉に手をかけ少し引っ張ると、カチリ――と音を立ててそれは開いた。
「うわぁ!」中を見て、私は思わず声を出した。これは――
「ね、大丈夫でしょ、ほら、好きなの選んで」リビングからアスカの声がした。そういうことか。アスカは、ほとんどのタイプの洋服を持っている。流行の洋服から、個性的なブランド物まで。――いや、これは金持ちだからってだけじゃない。研究しているのだ――ファッションを。
「ふふ、メラビアンの法則って知ってる?」いつの間に後ろにいたアスカが声をかけてきた。私は洋服を物色しながら「ない」と答えた。
「この法則によれば、話し手が矛盾したメッセージを発している場合、受け手はその人の印象を、ほとんど見た目で決めてしまうらしいんだよね。例えば、笑いながら怒っている人がいるとき、見た目が笑っていれば、人は相手が怒っていると考えなくなりがちってわけ」
「色んなこと知ってるね……」すらすらと知識を披露するアスカに、私は純粋に感心していた。
「で、私は勘違いされるリスクを極力抑えたいから、洋服は取るべき振る舞いによって変えようと思って。それでいろいろ洋服を買ってみてるんだよね。まあ、それが今回、裏目に出てるわけだけど――」
「え? 裏目?」私は首をかしげた。
「あ、いや、別に……ほら、早く選んで」
「こ、これは?」私は、一番楽そうなロングTシャツとジーパンを取り出した。しかし、アスカは顔をしかめる。
「却下。ないでしょ」
「ええ……着やすいと思ったのに」
「てかね、ちょっと墓行く前に美容院行こ。オシャレしなきゃ! せっかくきれいな顔立ちしてるんだから、損だよ。それにその髪」アスカは私の黒髪を指さした。「それ、やっぱ重たいかな。一部の男子にはウケそうだけど……」
「おお、染めてもらえるのかしら?」
 実は、ずっと児童養護施設にいたので、生まれてこの方髪を染めたことがなかった。私も、オシャレには興味がある。でも、何をすればいいか分からないのだ。何がオシャレで、そうでないかが分からない。そもそも、オシャレってなんだろう。――考えれば考えるほど頭が混乱してくる。
「染めよう! このマンションにちょうどいい美容院があるんだよね。多分今行っても大丈夫なんじゃないかな」
「ほんと? それはぜひ行きたいわ」
「よし、じゃあちょっと待っててね」
 アスカはそう言うと、寝室を出て電話をかけ始めた。「あー、もしもし? うん、そうそう、あー、絶対やりがいがあるよ!」やりがいがあるとは。
「じゃあ、今から行くねー!」アスカは電話口で溌溂として言うと、また寝室に戻ってきた。「よし、行こう! 洋服は任せて。美容院で着替えよう」
「おお……おお……」私は、美容院で髪を切るという初めての体験に、自分がとるべきテンションが分からないでいた。

「おお……おお……」
「あのー、何色に染めていきましょうか?」担当の美容師さんが、先ほどから必死に私の好みを聞いている。しかし、私は煌びやかな美容院の雰囲気に圧倒されて、何も答えることができなかった。
「おお……おお……」
「アスカちゃん、さっきからこの子、『おお……おお……』としか言わないんだけど」美容師さんが、後ろで待機していたアスカに助け舟を求めた。すまない、助けて、アスカ。
「いつもは、うるさいほど嫌味を言うんだけどね……ま、ガツンとイメチェンしてあげてよ。シルバーとか、いいんじゃない!?」
「いいわね、シルバー!」美容師さんもノリノリになる。ふわふわのパーマがかわいらしく揺れている。「絶対に怒らないって保証してくれるなら、本気でやっちゃうけど!」
「いいよ! 私が許す!」アスカはグッとサムズアップした。
「おお……おお……」
 そのあとは言われるがまま動くだけだった。頭を前に動かし、後ろに動かし、顎を引き、手を万歳にしたり、そのままじっとしたり……人形として人間にもてあそばれるってこんな感じなんだろうなあって思った。しかし、散髪がめちゃくちゃ気持ちいい。コームで梳いて、ダッカールでまとめて、間伐の要領でいらない部分を一気に切る。こう、風通しがよくなっていくような、スカッとした感じが心地よかった。おまけに 生まれて初めて自分が、頭を触れられるのが好きだと気が付いた。時々触れる指先に、少しエクスタシーを感じてしまった。もっと触れてほしい、もっと叩いてほしい――ああ、お願い……
「先生、イリアさんがヘッドスパをご所望です」アスカが空気を読んだ。ナイス。
「オッケー、じゃあ行くよ!」
「おお……おお……」
 次の瞬間、強烈な衝撃が頭頂部を襲った。美容師さんの親指が、程よい力で皮膚を抑えたのだ。な、なんだこれ、気持ちよすぎる……うっはあ、え、やば、日々のストレスが一つ一つほぐされていくような……
 ぐっぐっとした後、今度はトトトッとリズミカルに頭の上で指が躍った。心地よいテンポが頭蓋骨全体に伝わり、快楽神経を異様なまでに刺激した。ダメだこれ、やばすぎる。ずっとやっててほしい、頭――頭ってすごい。こんなに、気持ちがいいんだ……。
「おお……おお……」
「アスカちゃん、この子さっきと反応が全く変わらないよ」
「でも、明らかに喜んでるよ、この顔は。先生、さすがです」アスカは鏡越しに私の顔を覗きながら言った。
「そう? じゃあこれも――!」
「おお……おお……おお……」

 ――気づけば、私は気を失っていた。
「イリアさーん。起きてください。できましたよー!」
「――!」
 目を開けると、目の前の鏡に別人が移っていた。髪の毛はきれいにシルバーに染め上げられ、編み込みが程よい強さで作られている。前髪はちょうど目線より五ミリ程度高い位置で揃えられていて、少し大人っぽい感じを醸し出していた。
「こ、これが私……」私はまだ、自分が信じられなかった。
「ああ、イリアさん。やっと言葉を発したわね」美容師さんはとても満足気だった。
「まだ終わりじゃないよ、ほら、イリアさん、この服に着替えてきて!」
「そ、そうするわ!」
 私は試着室に入って、洋服を広げた。細身の服だった。入るかな……これ。

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