旧い世界観の認知の限界 「部分と全体」
少し古い本になりますが、「出現する未来」ピーター・センゲ、オットー・シャーマー 他著と言う名著があります。その冒頭には、こう書いてあります。
「木が種からできるのは常識だ。
だが、どうやって一粒の小さなタネが巨木になるのだろう。
タネは木が育つのに必要な資源を持っていない。
資源は木が育つ場所の周囲ー環境にある。
だが、種は決定的なものを提供する。
木が形成され始める「場」である。
水や栄養素を取り入れながらタネは成長を生み出すプロセスを組織化する。
ある意味で、タネは、生きた木が出現する未来の可能性の入り口なのだ。」
部分というものは切り出せるのでしょうか?
切り出した時それは、単体として存在できるのでしょうか。
存在できないとしたら、部分のみを指ししめすことは可能でしょうか。
こう言う問いを立ててみましょう。当然、私の答えは、NO。何も、部分としては存在できません。一方で、私たちは、多くの物事が、部分として独立して存在していると認識しています。まさに、認知の歪みです。この認知の歪みに基づいて世界を分析し、分解し、切り刻み、その世界観の中で、多くの人は、苦しみ、怒り、悩んでいます。
私たちの考える問題は、対象である世界においてではなく、私たち自身にあるとも言えるのではないでしょうか。
こう言っては、身もふたもないのですが、多くの人が理想と掲げる「世界に影響力を及ぼす」とは、自己実現的なエゴの中で作り上げた一つの幻想です。あなたが、何かを強く思い、それが仮に実現したとします。それはあなたの力のみによってなされることはありません。多くの人の、顕在意識レベル、潜在意識レベルでの気づきに基づき、また、人のみに限らず、自然、社会、我々がまだ認知していない存在レベルの動きによって、結果的に実現したものです。何もかもが、深いレベルで繋がり、変化し続けているので、それを実現したと認識するのも、あなたの認識レベルに基づいています。何か抽象的なことが実現したか否かは、相対的なものに過ぎず、もはやあなたの思考の中にしかないことかもしれません。
達成思考で世界と向き合う考え方は、あたかも、世界に介入し、自己実現欲求によって世界をコントロールすべき対象として見ることですが、あなたが対象としているもののみが、独立して存在しているものでない以上、全ては、大きな循環、変化の中、一時的に現れた現象にすぎません。だとすれば、私たちは何を学び、どのように世界と対峙して行けば良いのでしょうか。高尚なことを言っても、私たちは、自らの願いも実現したい存在です。自らの幸福を追求することが、他者の幸福を侵害しない範囲で。
先日スタートした、
はたらく意味のアカデミア「WaLaの哲学」
において、こうした問いに対して
「内省」
の重要性を説きました。
小さな者が、大きな対象(社会や世界)のあるべき姿を無視して、その働きかけで動かすことはできません。内省をかけることで、自意識という臨界点の内と外を統合し、意識変容することで、新しい世界への洞察を得て、行動を変容し、そこに偶然(に見える)仲間と出会い、その共創から新しい未来を出現させる。
・新しい世界を作る
・イノベーションを起こす
・オープンイノベーション(自己の外と混じることで、線形の計画では、出現しないものを出現させる手法)
には、こうしたことが必要と考えます。
旧い社会が解けつつある中、私たちに、今求められているのは、世界に効率的に介入するメソッドを学ぶことでなく、内省による自己変容から、世界との関わりあいを変えることで、自ずと出現してくる未来を作り出す力です。つまり、何もかも変容する社会の中で、常に「ここはどこ、私は誰か」を問い続ける力です。
私たちには、新しい
「型」
が求められています。
新しい学び型・新しい働き(働きかけ)型
先日の0期生との初回講義のオープニングは、このような話から始まりました。集まっていただいた皆さんも、ぼんやりと変容始めた意識に戸惑い、どこに行くのだろうと言う不安と興奮を感じつつも楽しんでいただけたように思います。
今後は、心理学、素粒子物理学、生命科学、数学などの視点からも、認知の限界を超える「方法」ではなく、「在り方」「型」について、考えて参りたいと思います。
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