メディア論

僕は人間を考えるにいたって何が適当なメディアなのかとは考えてて、まあそんな大げさな話でもないけど、本の価値が今やたら下がってて、困ってるというか、ネットで僕自体が売れるわけでもなく。もちろん書くのは自由だけど。これもネットだけど、結局、注目世界の浴びるのはTEDトークみたいな人で、僕じゃないな。って思って、まあ理由はわからないけど、母さんはずっとテレビを見てて、楽しんでるけど。僕は大学院の際に知り合いの人に本より論文を読んだ方がいいって言われて、ここは世界が違うなとは思ったけど。剽窃(ひょうせつ)があれこれ言ってるが、産まれた子供を考えてみなさいよ。何を喋れちゃいないから。それを剽窃だなんのって思ったりはするが、僕はずっとその事を困っていて、聞いたら、教育の際には気にしなくていい。って言ってて、だろうなあとは思って、だってワトソン&クリックなら僕だって知ってて、DNAがどうこう。って誤用だなんだ言う前に使っちゃいけないなら、大変だよなあとは思ってて、でまあ読書術って本の人には連絡してみたけど、よくわからないな。共鳴領域を考えた方がいいみたいな事言ってはいたが。まあええと、ヒソカ対クロロみたいに聖書持ってバトルみたいなわけわからん状況は避けたいわけで、総合格闘技の人をご覧よ。そんな事しちゃいないぜ。あれが正しい格闘だろう。と僕は思うが。一方でよくわからん気象予報士のドラマを親は見てて、受験なら知識よりスケジュールが大事と医者役の人が言ってて、僕はそうじゃないとは思うが。典型すぎる方が舞台映えするし、なんとも言えないが。まあつまり、本の世界は本の世界で面白いけど、四六時中本を読まなくても。と世間一般は思ってるだろう。ネットもそうで、そう言えば危惧している記事はよく見る。ゲーム中毒がブームを去れば、次はスマホ依存症で、空気読め。だの吸え。だの、わからなくもないが、本にしかない世界はあるだろうけど、ネットでも見れなくはないだろう。原理的に。テキストだけなら文字を起こす媒介は紙でも画像でもいいだろう。実際青空文庫はそういう試みで、東大を中心とした文学は復刻してるだろう。翻訳は翻訳者に責任があって完璧ではないし、世界文学の再生はままならないが。いずれにせよ、古典なら。考究で僕が思うには塞翁が馬を調べてて、山中教授のスピーチを見たり、近くの障害児が子供として産まれた記事を読んだり用例を調べたりして、僕が思うにいい事ずくめか悪い事ずくめかさもなくばいい事か悪い事かが起きると思ってはいたんだけど。僕が馴染みのある本を売ってる店は本屋で、ショップだかストアだかわからないが、公共の施設にあるのは図書館で、報告の類(たぐい)は大学はレポジトリがあって、公共機関の場合は統計資料などあるが。まあメディアを分類すると。研究機関としての大学は僕は結局は慣れなかったが、本はよくも悪くもヴォリューム(volume)が見切れるのはいい事だろう。タイプ別にカテゴライズされてて、図書館の中に行儀よくしている事もプラスではあるが。これは好き嫌い別れるかもしれないが。まあいずれにせよ、僕は辞書は広辞苑を使ってたが、ネットだとコトバンクとかで、確かに例文はネットらしく、Wikipediaを引用してて、それからネット系のニコ動系の用語解説はわかりやすくはあるが。これは違うページだが。複雑度に応じて、次のように書けると思う。順に

単語の意味(辞書や百科事典)
よくある使い回し(慣用句、ことわざ)
投稿できる記事(論文や刊行誌)
本(本屋や図書館で手に入るもの)

辞書や百科事典のヴォリュームは大きいとみなすか小さいとみなすかはわからないが。そもそも論としては素粒子論、原子論と同じで、これは最小のマテリアルかという話題は尽きず、素粒子や素因数分解、解像度、なんでもいいが、語りうるものとそうでないもの。そして何を語るか。など。まああんまり基礎的でも面白くないだろうから、応用例を見るのは悪い話じゃないが。まあそれも好き嫌いあって、厳密じゃないもの。細かくうるさいもの。色々あるが。まあこの例で言えば、本は言語の中のことばの結晶のようなもの。言葉の組み合わせで文章を持ち、構造を持つものともみなせるが。

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