加藤豪と矢田滋の、美術展を見ての往復書簡

80年代以降のアメリカ西海岸美術について (1)


2020/2/16~18

Y「こんにちは。ボナールとコート―ルドの展覧会の絵について次にやろうという話がすでに出ていますが、個人的には、これも何度か話題に出た「80年代以降のアメリカ西海岸美術」を往復書簡でやるのもいいのではないかと思いました。ちょっと急な提案ですが。ひとつには加藤さんが『工藤哲巳について(2)』で論じていたマイク・ケリーにおける「ギリシャ性」と「シュルレアリスムの病的さ」のアンヴィバレンスの問題をそこでもっと展開できると思ったからです。こう考えるようになったきっかけですが、日本の「ネオ・ポップ」について調べるなかで、村上隆がレントゲン芸術研究所でのグループ展等、日本の「シミュレーショニズム」を連続でやった後に煮詰まって、その後渡米します。それからポール・マッカーシーなどの西海岸アーティストに出会うことで「〔重低音の現代美術〕に出会って軽い気持ちになった」と美術手帖のインタビューで述べています。この「重低音」とは、なんだろうということが引っ掛かりました。これは村上がそれ以降新たな展開をしたり、彼なりのアートの定義から新人を発掘することに留まらず、いろいろ引き出せるポイントになるのではないかと個人的に思いました。」

「西海岸アートというと、マイク・ケリーですが、それだと核心っぽくなりすぎる気がするので、西海岸アートと関係がありそうなことをなるべく幅広く触れて意見交換できればと考えます。自分が実際に見たことのあるのは、ケリー、ポール・マッカーシー、レイモンド・ペディボンです。あとトニー・アウスラ―です。こう挙げていくと、映像インスタレーションとドローイング的な作品の良さと悪さが両方ともありつつ今に影響しているとは思います。」

K「「80年代以降のアメリカ西海岸美術」というテーマいいですね。ボナールよりもこちらの方が流れ的に良いと思います(ボナールは、現物を見ると色彩感覚の豊かさと同時に、共通してある種の暗さがあるなという気づきが私の主な点でした。強調して言うと、コントラストの弱いグレーに還元されて行くような)。」

「ただ、上記のケリー、ポール・マッカーシー、レイモンド・ペディボン、トニー・アウスラ―は私は実物を一つも見ていないんですよ。いわゆる広義の「バッド・テイスト」なものですが、私は90年代半ばに所属した名古屋のギャラリーで、この系統のものを実は浴びるほどに見ていて[1]、この話の流れで想起したのが、ここでの鑑賞体験の一つのエドワード・キーンホルツです。明らかにケリー、マッカーシーには関係がある作家だと私は思いました。」

KIENHOLZ: FIVE CAR STUD ‐Fondazione Prada

[追記1] 当時名古屋市東区東桜にあったGallery HAMのこと。私は1996年以後(’97年、’98年と)ここで連続的に3回個展を開催している。第1回目のタイトルは「À mon maître M.Tetsumi Kudo」。

「村上さんが渡米後ポール・マッカーシーなどの西海岸アートに触れて、「〔重低音の現代美術〕に出会って軽い気持ちになった」と表現した、「重低音」に私も最初に違和感を感じました(それが当てはまるのは、むしろキーンホルツではないか?と)。」

「「みずゑ」(1972年12月号)の、彫刻家・飯田善國氏による描写(p.85)。

「1972年6月17日夕刻、カッセル市に着いた私は、その夜アーノルド・ボーデ博士の家の夕食会に招かれ、そこで初めてキーンホルツと夫人のリン、及びカッセルの美術批評家コワルスキー夫妻と知りあった。私が驚いたのは、想像上のキーンホルツと眼の前に立っている実在のキーンホルツとの相異の思いの外の大きさのせいだった。想像のキーンホルツと実際のキーンホルツとは、体軀において大変ちがっていた。実際のキーンホルツは下腹のつき出た肥満した巨大漢で重量級のボクサーのように見えた。顎ひげと口ひげを生やしており、そのひげの中に若干の白髪の混っていること、相手をじっと視つめる碧い眼の静かさと射るような鋭さが強く印象に残る。そして・・・・床にすっくと立っているこの男の重心は見事に重力と釣り合っていて、その重心に垂直に立つ重心線は微動もしない感じである。全身からみなぎり溢れる動物的精気、ある放射線の束、荒野から来た男の生々しい肉体の匂い、そして周囲の空気への威圧。(中略) 彼は皆にカッセル・ドクメンタ以後に彼が計画している作品について説明していたのだが、それはグランド・ピアノの蓋の上を浅い水槽にしつらえて、その中にオタマジャクシを放し飼いにするものらしかった。彼は名刺の裏にそのスケッチを黒マジックで描いて見せたが、ボーデ博士がその覚え書きを所望すると、「イヤ、コレワ駄目デス」と事もなげに言ってポケットに仕舞い込んでしまった。その何気ない用心深さ。巨大な肉体とこの細心な神経との奇妙な対比は人の注意をひくものであった。彼は、「その代りに・・・・」と言って、ブランデー・グラスを手にとると、右手にはめているダイヤの指輪の圭角でグラスの表面にそこに居る人々の名前をぐいぐいと刻んで行った。ダイヤの圭角の尖端で硝子質の表面が破壊される時のあのイラダタシイ激シイ硬質ノ滑走、閃音・・・・。」

Y「テーマ選びに賛成していただきありがとうございます。「重低音の現代美術」と述べているエピソードは、『村上隆完全読本 美術手帖全記事1992~2012』の1994~95年あたりにでてくるものですね[2]。直前の時期に行われた村上隆・ヤノベケンジ・中原浩大の「ネオ・ポップ対談」で、村上は袋小路に感じられる現代美術のフィールドをあえてポップと結びつけて使うのは、新機軸の映画製作のフィールドを求めるようなものと述べてもいます。やはり映画の特殊効果などに携わったことのあるポール・マッカーシーをはじめとした、西海岸の新人アーティスト等のインスタレーションのやり方に、新機軸の映画を見たことにも通じるショックを受けているという感じなのかと思いました。つまり、この時点では、「バッドテイスト」系に関して、そんなに情念的に捉えないからこそ衝撃を受けた、といった感じなのですね。」

「あるいは、ヒップホップのように、非音楽と思われていた重低音を構造感のなかにいれる考え方の転換を、当時の視覚インスタレーションの分野でみたという感じかもしれません。もちろん、そこにはアメリカのギャラリーや美術館ならではの展示のノウハウの蓄積との彼の出会いもあると思います。いくつもの解釈を出してしまいました。つまり「重低音の現代美術」という言い方自体がファジーで、いかにもアーティスト風のどうとでも採れるような用語となっているのかなと思います。ただ、流し読みなので、読み直してもうちょっと話の流れをはっきりさせたいと思います。」

「エドワード・キーンホルツが、西海岸現代アートの諸傾向の元祖あたりにいるというのは、ある意味で事実と思います。彼はアッサンブラージュやポップアートの変種として日本では紹介されてきたのではと思います。ただ当地の文脈でいうと、いわゆる「プロテスト・アート」のはしりで、彼といっしょに言及されやすいブルース・コナーいうアーティスト・詩人は、権力批判のかなりストレートな人ですね。
カリフォルニアにしても長年ヨーロッパの文化の影響からはずっと切り離されているなかで散発的に活動している人がいる感じなので、50~60年代の初期は西海岸の過激なプロテストの散発的な記録と彼らが認識されていたのであって、どこまで「視覚的アート」として受け取られたかったのか分からないところがあります。こういう事情のせいか、「オクトーバー」などの東海岸ポストモダン批評のグループの編纂した『ART SINCE 1900:図鑑 1900年以後の芸術』では、あまりにも情感過多な表現で、告発が社会のスペクタクルに取り込まれているだけだとか簡単に切り捨てられていました。反体制的なものも食い合わせの悪いのがあるんだなと思いました。
ウォーカー・アートセンター工藤哲巳回顧展カタログのケリーのエッセイでも、最初にキーンホルツの作品が登場して工藤のアッサンブラ―ジュと比較されています。ですが、キーンホルツのものはリアリズムの暗い色使いによってメッセージが伝えられるのに、工藤は蛍光色である(のでリアリズム的な提示でない)ということで対比されています。」

「キーンホルツは映画的な演出の作品はケリーやマッカーシーなどと似たところが実際あると思います。ただどうも文脈が違うと感じるところもあります。これは針生一郎だったかもしれませんが、キーンホルツは名前から分かるようにドイツ系移民で、カリフォルニアを拠点にしているとはいっても、ドイツ語圏の戦前・戦後の実存主義的な美術の影響が強い、と指摘していた思います。マネキンを溶け合わせたやつみたいなシュルレアリズムの変形作品は、ドイツ語圏で戦後はじめ頃にたくさんあったと思います。権力批判的傾向を押し出したハラルド・ゼーマンのドキュメンタで、キーンホルツの大作が出ます。
彼の有名な『ロキシーズ』(1961年)という作品は、初期の展示ではラスベガスの売春宿から実際そのまま調度やカーペットを用いて展示していたそうですが、そこにはアングラ趣味というより、実存主義とユダヤ・キリスト教的な罪告発の意識、社会主義の心情などがまざりあって出ていると思います。あまり本人はバッドテイストのつもりは途中までないのではないでしょうか。加藤さんの提示しているホラー映画の引用的なインスタレーション作品はそういうつもりもあるかもしれないです。もちろん、後に出てくるケリーにも実存主義やキリスト教的なところはありますが、もっとシミュレーション化してバッドテイストについての考察と絡んでくる感じですね。
キーンホルツは、2014年の横浜トリエンナーレで初めて実際の展示を観ましたが、それほど押し付けがましいという風でもなく見ごたえを感じました。ナンシー・レディンとの共作になって以降は少しずつ作風が変化していったのかもしれないとなんとなく思います。」

[追記2] 村上隆のこの発言の正確な情報は以下。『村上隆 完全読本 美術手帖全記事 1992~2012』、「東京がアートの中心になる日」(美術手帖1997年3月)というインタビューにこの言葉が出てくる。関係している部分を引用する。

――NYに行く前は村上さん自身、どういう状態でした?
◎ あの頃は、アートってなんなのか自分のなかで見失っちゃてて、刺激もないしやめようかなーと。でも、NYで「重低音のアート」的なものをたまに見ると「オーやるぞー」って。そういう「ズシン」とくるアートの幅の広さを見ていくと、少し気持ちがラクになってきた。「アートやるか」って。それまでは東京でやってるのがホントにいやでいやでいやでしょうがなかった。まあ、あのときはどっちにしても「既存のアートじゃアカンなあ」と思ってたから、頭を冷やして考え直したかった。

 ――既存のアートがダメだったというのはどういうところが?
◎ うーん、現代美術なのにちっとも「いま」って感じがしなかったところかな。人がぶわ~って動くのってあんましなかったし。マンガ家の岡崎京子さんの展覧会をP-HOUSE(東京/渋谷 94年)で企画したんだけど、オープニングに千人くらい来るんですよ。イヤー、スゴかった。FUMIYART(藤井フミヤの展覧会)なんて初日一万人っていってたし、やっぱ方程式変えないとアカンなあって。アートは絶滅するなって。

――でも、そういう展覧会をやったのは、どういう意図があったからなんでしょう。
◎ マンガやアニメって、僕のリアリティの基礎なんだけど、それを前提にして作品つくっても、そこらへんの共通言語があんましなくって。アートの世界でテキストを書いている人たちがいるでしょ。それとかアーティストで文章も書いているうるさ型。でも、そんな人たちのいってることとやってること、実際の作品なんかを見てもなんか自分の求めているものとは違うなっていつも思ってて。最初にDOB君をギャラリーで発表したときも、「もっとマジメなものをやってほしかった」っていわれたし。でも僕としては最高級のものというか、リスキーなものを含めてすべて出したつもりだったんだけど、「そういう反応しかないのかーっ」ってガックシきた。アート内アートでしか測れないなかでは、DOB君とかは、ポップとかウォーホールとかキース・へリングとかの文脈でしかなくて。でもまあいずれ時代も変わってきて、価値の転倒も起こるだろうと考えたとき、最もいまリアルなヴィジュアル・テキストであるマンガが、アートになる可能性がないことはないっていう前提でやったの。だいたい、なんでレイモンド・ペティボンやジム・ショウ(両者ともLA在住のアーティスト。前号特集参照)はアートで日本のマンガがアートじゃないっていうライン引きとかが、そういう実験をしないとわかんなかったし。とにかく美術評論家のような人たちとマンガの世界との接点がなさすぎたし、自分のやってることのバックボーンや関係性を説明できなかったりして、フラストレーションがたまってた。」  

K「村上さんの「重低音」という表現は、なるほどファジーなんですね。矢田さんのヒップホップの(非音楽的)重低音を入れる発想という表現は面白いですね。村上さんが90年代初頭に渡米し、何か展示を見て衝撃を受けたことを、日本に帰国後語っている場面を、私もどこかで触れて記憶しています。」

「キーンホルツについては、私はあまり「反体制」という見方はしていませんでした。それよりも「消費主義的」かつ、その居直り方の肉体的な(あるいは無骨な)格好良さなんだと。私はそれを過去を鑑み単純に感心したわけではありませんが。しかし、そうなんでしょうね、それを多く見た私が所属したギャラリーが、確かにドイツ系で、反体制でした。工藤さんは「体制」「反体制」という枠組みを馬鹿にしていたところがあるので、これも確かにケリーのその分類的見方は意味があるんでしょうね。」

「先ほどの「みずゑ」から再び引用します。」

キーンホルツ「私は見せること、知らせること、そして望むらくは、将来、私が行なっていることで生きることのシステムに捉われている。」「私が買って家に置いてあるものを使って何かをはじめ、それから、そこから更にそれをもっと役立たせ、それにより、使うべきお金を手に入れ、更にそれが暫くして、古びて価値のないものになることが私を楽しませる。そこで、私は同じがらくたを取り上げ、まとめ、そしてそこから“作品”を作り、誰かが来て、“まあ、なんとすばらしいものを!!”と言い、お金を置いて行く。そして彼らはそれを丘の下まで運び出す。私はがらくたを駆除する必要はない。幾分たのしんでいるのだ。」

「真面目なメッセージ性で自己を覆っていたとしても、欲望のレベルでは「超自我」の「楽しめ」という命令に支配され従っている、それが現実社会では「善き」ことだからという、現在に至るまで繰り返される紋切り型ですね。」

「キーンホルツの場合は、廃物を利用することで、メッセージ性の自己を保っているが、「バッドテイスト」の区切りを入れてそれが新品に置き換わりメッセージ性を廃棄し、あるいはアーティスト自身が生産手段を持つなり、資本家の真似事をするようになったとしても、超自我的には何も変わらず同一だったということではないでしょうか。」

「区切りを入れたいと思うのは、「前世代」を「主人」に仕立て上げたい、つまり生贄にして「次世代」の新生を祝うわけですが、現代ではそれも全く失効していると私は思います。」

「しかし共同体は生き延びなければならないので、その場合は「馬鹿の代表」として、日本人美術家全体が主人に選ばれるのではないかと、私はなんとなく思っています。」

Y「キーンホルツのみずゑでの発言は興味深いです。それなりに「販路」を獲得していくなかで開き直りを生んでいくのは60年代以降のアーティストの性質ですね。欧米の「バッドテイスト」が、そうやって副次的に生み出された面もあると思います。英米ポップアートの出現以来の流れをたどると、新進アーティストが自らを際立出せるために、その前世代の表現を腐すことがそのやり方の一つとして厳然とありますね。前世代の表現の美術的部分をあからさまに真似ているのに、それを自分の見ている(消費社会/技術社会)の現実に対して遅れててダメなものと見ていた、と語るパターンがお決まりになっています。たしかに、そのパターンが今や世界的にも失効しているように思います。」


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