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技 術 (河野真太郎)

――ナウシカ、フーコー、ハイデッガーの隘路

技術と自然

 技術(technology)の対義語は何だろうか。まずは「自然」であろう。いきなり古代ギリシャ哲学の用語を参照するならば、テクネー(technē)とピュシス/フュシス(physis)の対立ということになる。だがここでは難しそうな哲学的議論には深入りせず、常識的に考えてもらえばいい。技術のもっとも広い意味は、現代的な科学技術や工業技術だけではなく、自然を人間の力で、何らかの形に加工すること全般なのである。このように考えれば非常に簡単で自明に思える技術と自然の関係であるが、それについて少し考えてみると、この区分はさまざまな問題を抱えていることがわかる。

 もっとも端的な例を考えてみよう。人間の社会は自然であるのか、それとも技術によって作られたものであるのか? たしかに、社会はさまざまな法や制度、物質的なインフラストラクチャーなどによって出来上がっており、それは技術の産物であるようにも思える。しかし、人間は動物である。動物である人間が作った社会というものも、例えばアリが作ったアリ塚のように、自然のものとして見ることも可能ではないか? いや、それを言ったら、逆にアリ塚も技術の産物だと言えもするのではないか?

 または株式市場などを考えてもらいたい。これも、人間のさまざまな技術によって作り上げられた制度であることは確かだ。しかし、いざあなたが株を買って儲けようとするとして、株式市場は巨大で予測不可能な自然のように見えるかもしれない。

 これはおそらく単純であるか複雑であるかという問題ではない。つまり単純で操作できるのが技術で、複雑すぎて操作できないのが自然であるという問題ではない。技術と自然の区分とその不可能性は、私たちの生の本質的な部分にかかわっているのだ。が、それと同時に、またそれゆえにこそ、技術と自然の区分をどう考えるかということには、私たちが生きる歴史性が深く刻印されているだろう。

『風の谷のナウシカ』、または自然と技術の脱構築

 宮崎駿の作品『風の谷のナウシカ』は、技術と自然との関係を深く考察する作品でもある。物語はおそらく遠い未来に設定されており、「火の七日間」という、核戦争を彷彿とさせる全面戦争の千年後を舞台としている。世界は、「腐海」と呼ばれる、毒の障気を吐く森に浸食されており、残された土地で人間たちは細々と暮らしている。人間は防毒マスクなしでこの森に入ると、たちまちに肺を冒されて死んでしまう。だがこの森は生命のない森ではなく、多くの異形の「蟲」たちの暮らす森であり、その蟲たちの王とでもいうべき存在が、巨大なダンゴムシのような見た目の「王蟲」である。主人公のナウシカは辺境の「風の谷」に暮らす王族の少女であるが、大国トルメキアと土鬼(ドルク)諸侯連合との戦争に巻きこまれ、トルメキア側について参戦することになる。

 この作品は、まずは自然と技術とを対立項として設定する。ナウシカは腐海の奥底に入り、蟲たちと交流した経験から、この森の「真実」に気づいている。つまり、この森は人間が汚染した土壌を浄化するために生まれたものなのである。つまり、人間の技術がもたらした汚染(放射能による汚染を連想させる)を、自然が、文字通りの自然治癒力を発揮して浄化しようとしているのだ。

 この作品の映画版(1984年)は、この技術と自然の対立を保持したまま終わっている。もしくは、ナウシカという、技術と自然の対立を仲立ちする英雄の自己犠牲的な行為によって、当面その対立が緩和されて(しかし本質的には解決されることなく)、映画は幕を下ろしている。

 しかしここで参照したいのは、この物語の原作(漫画版、連載1982~1994年)である。原作は、驚くべきひねりを加えることで技術と自然の対立を「脱構築」しているのだ。原作の最後に明らかにされる「真実」は以下のようなものである。(予備知識なしに原作を楽しみたい方はここで読むのをやめて、先に原作を読んでいただきたい。)つまり、「腐海」やそこに住む「蟲」たちは、じつは自然の産物ではなかった。「火の七日間」の後に、科学者たちが地球を浄化するためにつくり出した浄化装置だったのだ。さらに衝撃的なことに、ナウシカたち「人間」も、汚染された地球で暮らすことができるように改造された人間だったのである。その人造人間たちは、汚染に適応しているため、浄化後の世界では生きていくことができない。浄化後の世界に生きるべき、操作されて攻撃性を除去された人間たちは、「墓所」と呼ばれる、人間の科学知識のつまった神殿(もしくはノアの方舟というべきか)に、胎児の形で保存されている。

 巨神兵(「火の七日間」で世界を滅亡させた人造巨人兵器)を従えたナウシカは、その「墓所」を破壊し、真実を胸の内にしまったまま人々と共に生きていく決意をする。その決意の根拠とは、「人造人間たちもまた生命である」というものだ。ナウシカの感動的な台詞を引用するなら、「私達の身体が人工で作り変えられていても私達の生命は私達のものだ/生命は生命の力で生きている/その朝〔世界の浄化の日〕が来るなら私達はその朝にむかって生きよう/私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!」(第七巻、198)ということだ。技術によって作られた生命もまた自然である。この宣言によって、技術と自然との区分は「脱構築」される。[注1]

 2011 年 3 月 11 日の東日本大震災によって引き起こされた原発のメルトダウンと、それにともなう放射能汚染の中を生きる私たちにとって、この「脱構築」は非常に身近なものに感じられるようになっただろう。それどころか、宮崎駿が脱原発の意見を明確にし、スタジオの屋上に「原発ぬきの電気で映画を作りたい」という横断幕をかかげたことを考えると、歴史の皮肉さえ感じざるを得ない。つまり、ナウシカの宣言は、原子力発電という技術でさえも自然の一部として肯定するものに読めてしまうからだ。

 しかしここではそのような結論に飛びつくのは自重して、『風の谷のナウシカ』における技術と自然の脱構築をもう一段階歴史的に読みこむ努力をしてみたい。じつは、この作品における技術と自然という二項対立とその脱構築は別の次元をもっており、場合によってはこの対立はその別の次元を隠しているのかもしれないのだ。

『ナウシカ』から『寄港地のない船』へ

 『風の谷のナウシカ』は一種の SF であるが、その SF の系譜を見ると、『ナウシカ』のようなタイプのプロットは初めてのものではないことが分かる。例えば、イギリスの SF 作家ブライアン・オールディスの『寄港地のない船』(1958年、イギリス版の題は『ノン・ストップ』、アメリカ版は『スターシップ』)という小説である。この小説は、『ナウシカ』を彷彿とさせる民俗学的な部族社会から始まるのだが、最終的に以下のことが明らかになる。その社会は地球を周回する巨大な宇宙船の内部に存在していたのであり、さらには途中で登場する「巨人族」は人間にほかならず、人間を巨人と見てしまう主人公たちは、疫病によって変態し、宇宙船に閉じ込められたまま小人化してしまった人間の末裔だったのだ(Aldiss)。[注2]

 ここで注目されるのは、フレドリック・ジェイムソンによるこの小説の読解である(『未来の考古学Ⅱ』)。ジェイムソンによれば、この小説は読者の「ジャンル的期待」をどんどん裏切っていく。最初は民族学的世界での冒険もの、つぎにファンタジーに近づくような奇譚、そしてSFといったふうに、この小説はジャンルをつぎつぎに変えていく。この形式面と、最終的に明かされる真実が一致しているというのがジェイムソンの読みである。つまりその真実とは、「人間による人間の操作(manipulation)」にまつわる真実だ。『スターシップ』の主人公たちは、地球人に見捨てられ、またナウシカのような改造人間というわけではないにしても、人工的な環境を「自然」だと思いこんで(思いこまされて)生きている。ジャンルの変更による読者の「操作」と、小説の内容における「操作」というテーマが一致しているのだ。

 さて、ジェイムソンは以上のようなオールディスの小説の政治性を「反官僚主義」および「反社会主義」であるとする(51)(実際はこの読解にはさらなるひねりが加えられるが、ここでは割愛する)。つまり一言で言えば、この作品の「人間による人間の大規模な操作」のテーマは、冷戦リベラリズムだということである。『寄港地のない船』が 1958 年の作品であることをもう一度確認しよう。この作品は、大戦における全体主義または同時代ソ連の社会主義をその極端な頂点とするような官僚主義または管理行政制度を批判し、それによって同時に当時の西側の自由主義を肯定するのだ。

 この冷戦リベラリズムのイデオロギーは、50・60 年代の福祉国家のイデオロギーであると同時に、現在の新自由主義を準備したイデオロギーである。新自由主義が「市場の自由」を至上命題とするとして、その陰画は市場を管理統制する国家であり官僚組織であるからだ。ここで、冒頭で株式市場について述べたことを思い出していただきたい。(新)自由主義者にとって市場は「自然」である。それを、国家の介入によって人工的に操作しようとすることは悪なのである。

 『風の谷のナウシカ』が、『寄港地のない船』と同様のプロット構造を持ちつつ、同じく「人間による人間の操作」をテーマとしていることは明白であろう。では、そのイデオロギーの方はどうだろうか。『ナウシカ』もまた、管理統制を嫌うリベラリズムの作品なのだろうか。先に引用したナウシカの台詞の続きを読むと、そのようにも思える。曰く、「生きることは変わることだ/王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう/腐海も共に生きるだろう/だがお前〔「墓所」の主〕は変われない/組みこまれた予定があるだけだ」(第七巻、198)「組みこまれた予定」を否定するナウシカは、もはや「自然」を称揚しているのではなく、官僚主義的な管理や社会主義的な計画を否定しているとは読めないか。つまり、ナウシカのメッセージとは、「自然を技術によって操作しようとすることは官僚的(または社会主義的)でだめだ」ということなのである。そうだとすると、『ナウシカ』における自然と技術の対立(とその脱構築)の意味がずらされることになる。つまり、その場合、技術とは科学技術ではなく管理統制、または官僚制という意味での技術のことになるのだ。

自己のテクノロジー、または知と技術の脱構築

 さて、そのような管理統制としての技術=テクノロジーを問題にし続けた哲学者といえばミシェル・フーコーである。あえて同時代性を強調しておくと、『風の谷のナウシカ』の連載が始まった 1982 年に、フーコーはアメリカのヴァーモント大学で「自己のテクノロジー」という講演を行っており、それは同名の書物に収められることになる。先取りして言うと、フーコーにおいて重要になってくるのは自然と技術の対立ではなく、知と技術の対立(とその脱構築)である。

 フーコーに行く前にレイモンド・ウィリアムズの『キーワード辞典』の technology の項目を確認しておこう。非常に簡潔なこの項目では、technology が science と区別される意味での技芸(art)に属するものだとされている。ラテン語の scientia(知)を語源とする science は、もともとは広い意味での「知」のことであったが、それがやがて専門化された「知=科学」と、その実用的な応用としての「技芸=技術」へと分割されていったのである。

 これをさらに敷衍するなら、知と技術の対立は「知ること」と「行うこと」の対立とも重ね合わされることになる。もっとも分かりやすい例を挙げるなら、理論物理学と、核兵器や原子力発電所の建造との関係を考えればいいだろう。専門化された科学としての知とはその有用性とは関係なく存在する(存在すべき)ものであり、技術はその知を利用して世界に実際に働きかけるものである、という区分だ。

 ところが、フーコーの仕事の基本とは、その知(フーコーの場合は science ではなくギリシャ語で「知」を意味するエピステーメー)と技術が一体化したところにこそ、近代的な統治がある、というものだ。フーコーの言葉を引用するなら、「実践としての政治と認識としての政治とのあいだの新しい関連」が近代的な統治なのである(『自己のテクノロジー』 218)。より具体的に言えば、この実践と認識、技術と知との合一の典型例は統計である(219)。統計という「技術」は、人口が何人いるとか、そのうちの年齢構成、貧富、平均余命などを単に「知る」ためのものではない。それは近代的な国家が人々を生かして資源とする(場合によっては生かしておいて戦争にかり出す(214))ための、つまり政治的な実践のための知なのだ。[注3]

 現代においては、知と技術が、「知ること」と「行うこと」が再結合している。なぜ再結合なのかと言えば、ウィリアムズが述べるように、かつてそれらは広い意味での「知」に包含されていたからである。

 このような知と技術の分断と結合を、第二次世界大戦の直後に、つまり、ある意味で非常に高度に組織化された官僚組織による人間の大虐殺が起こった後に思考したのが、哲学者のマルティン・ハイデッガーである。(フーコーはハイデッガーに強い影響を受けている。[注4])

 ナチスへの協力で教壇を追われていたハイデッガーは、1953 年(ここで私たちは『スターシップ』の 1950 年代に再び引き戻される)の講演「技術への問い」によって思想家としての復活を果たした。この講演は非常に難解であるものの、この文脈で注目されるのは、ここまで問題にしてきた二つの対立を、ハイデッガーが非常にアンビヴァレントな形ではあるが「再結合」しようとしていることだ。二つの対立とはつまり、自然と技術の対立、そして知と技術の対立である。

 これらの対立を統合するのは、古代ギリシャ哲学におけるテクネーとポイエーシスだ。詳しくは割愛せざるをえないが、この二つはほぼ重なり合うと考えてよい。つまりいずれも、本項目の最初に述べたような、もっとも広い意味での技術、つまり何かをつくり出すこと一般を指していると考えていただきたい。ハイデッガーは次のように述べる。

テクネーという語は、〔ギリシア思想の〕早期よりプラトンの時代に至るまで、エピステーメーという語と密接に関連している、ふたつの語は、もっとも広い意味での熟知のための名称である。それらは、なにかに精通すること、なにかに熟達することを意味する。熟知することは、解明を与える。解明することとして、熟知することは一種の開蔵である。(20-21)

最後の「開蔵」という造語は、隠されていたものを見える形に変えることを意味する。天才的な彫刻作家が、石の中に作品の形を感じ取ってそれを彫り出すといったイメージで考えていただければいいだろう。つまり、石像の理想的な形は前もって与えられており、彫刻家が行うことはそれを実際に形にしてみせることなのだ。テクネーもエピステーメーも、そのような世界への働きかけである。つまりここで、技術の原語としてのテクネーと、「知」を意味するエピステーメーはいずれも広い意味での「技術」(つまり、知と技術が一体になったような「技術」)だ、とハイデッガーは述べているのだ。また、自然と技術について、ハイデッガーはこのように述べる。

もっとも重要なことは、私たちが、〈こちらへと―前へと―もたらすこと〉を、その広がり全体にわたって、そして同時にギリシア人が語る意味において思索することである。〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉、すなわちポイエーシスは、手仕事の製作だけではなく、また芸術的・詩作的に〈輝きに-もたらし、形象へと-もたらすこと〉だけでもない。ピュシス〔自然〕、すなわち〈それ自体-から-立ち現れてくること〉も、一種の〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉であり、ポイエーシスなのである。(17)

〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉とは、さきほどの「開蔵」にほぼ一致すると見てよいだろう。つまり、隠されていた本質に形を与えること一般である。難解に見えるかもしれないが、要するにここでのポイントは、ポイエーシス(≒テクネー=もっとも広い意味での「技術」)とピュシス(自然)は同じだとハイデッガーが述べていることだ。この引用の後で挙げられている例は、花が咲くことである。「花が、咲いていない状態から、咲いているという理想的な状態へと変化する」という意味では、花が咲くというピュシスもポイエーシスと同じだというのだ。例えば、それは「石像を、石材の状態から、石像の理想的な形へと変化させる」ことと変わりはないわけである。これは「人工的に作られた人間もまた生命だ」と宣言するナウシカを想起させる。

 このように、ハイデッガーは、技術という言葉をめぐる二つの対立を、「開蔵」または〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉という概念のもとに統一しようとする。知と技術、自然と技術はいずれも広い意味での「技術」だというのだ。ハイデッガーがこの合一を良いものと考えているのか、それとも悪いものと考えているのかは曖昧であるが。

技術と政治的なものへの願望

 ハイデッガーの態度は曖昧ではあるのだが、ここまでの二つの作品と二人の思想家が、広い意味でのイデオロギー、または感情を共有しているということは言えそうである。つまり、それを評価するか危険だと考えるかは別として、自然と技術、知と技術が一体となったような「技術」を構想しているということである。

 ひょっとするとそこには、フーコーの一部分にもっとも強く表れているような、中央集権的な管理統制を嫌悪する感情があるのかもしれない。そこには、ジェイムソンが『寄港地のない船』に読んだような、社会主義を悪魔化する冷戦リベラリズムがあるのかもしれない。しかし本項目が最後に強調したいことは、「マネジメント」の項目の結論で述べられているように、そこには「よりよき管理統制」への願望があるということだ。

 『風の谷のナウシカ』で考えてみよう。確かにこの作品では、かつての人間たちによる「計画」が否定されている。「墓所」を破壊するナウシカの姿は、「自民党をぶっこわ」して新自由主義革命をなしとげた小泉純一郎の姿に見えなくもない。だが、ナウシカが「墓所」を破壊する動機を、それだけで説明できるだろうか。「あらゆる管理を否定する」という動機のみがそこにあったと言ってはまちがいではないのか。なんといっても、ナウシカは旧人類の「計画」を否定しながらも、その否定は同時に旧人類の技術(つまりそれが生み出した自分たちの生命そのもの)の肯定となっているのだから。さらに言えば、ナウシカは自分たち、そして腐海と蟲たちが人工物であるという真実を隠して生きていくことを決意する。これは民主主義的で自由主義的な決断とはおよそ言えまい。かといってナウシカはどうしようもない全体主義者なわけでもない。誤解を恐れずにいえば、そこには暴走する官僚制に対する、真の政治(作品では「王道」と名づけられる)への願望がある。もちろんこれはこれで危険な願望ではあるが、それは最近の日本で人口に膾炙している「政治主導」というものよりはよりラディカルな「政治」への願望でもあるのだ。

 また同様に、私たちはハイデッガーの(そしてフーコーの)曖昧さを自分たちの問題として受け取る必要があるだろう。あえて整理するなら、ハイデッガーは一方では先に見た「冷戦リベラリズム」に引き寄せられている。ナウシカのごとく、自然と技術の脱構築を行い、管理統制を否定することによって。しかし、まったく同時に、自然と技術、知と行為の脱構築は、ナチスに極まった近代的な統治の基本でもある。ハイデッガーは技術を忌避しつつ、技術に危険な希望を託そうともしているように見えるのだ。この矛盾に見えるものをつきつめることこそ、ナウシカ、フーコー、ハイデッガーが三者三様に行ったことだとは言えまいか。つまり、私たちは「自己のテクノロジー」によってつくり出された人造人間であるのかもしれないが、それがテクノロジーでつくり出されたものである以上、よりよきテクノロジーによって変えられ、独自の生を生きることもできる。

 ここで私たちは、冒頭で述べた問いに舞い戻っている。つまり、人間の社会は自然なのか、それとも技術の産物なのかという問いである。今述べた「政治」への願望とは、人間の社会が人間の意思をこえた自然なのではなく、人間の意思と技術によって作りあげられたものなのであり、したがって人間の意思と技術によって変えうるのだ、という願望にほかならない。『ナウシカ』の「王道」とはよりよき技術なのだ。

 いかに否定的に見えようとも、人間社会は技術によって作り上げられてきたという信。ここから始めるという道もありはしないか。限定的な意味での技術への信が揺らいでいる今だからこそ。

[注1]  このナウシカの決断は突然に生じたものではなく、物語上の伏線がある。物語の後半では、土鬼が生物兵器として作った人工的な粘菌に、それ独自の意思と生命があり、その粘菌をきっかけに引き起こされる「大海嘯」(腐海の蟲たちの大氾濫)は、蟲たちの人間に対する怒りによって起こされたのではなく、粘菌をいたわる心から起こされたのだ、という悟りにナウシカは至る。このようなナウシカの特性を、1980 年代特有の新たな「左翼性」として論じたのは三浦玲一「村上春樹とポストモダン・ジャパン」である。

[注2] このタイプの物語をいくつか挙げておくと、『寄港地のない船』の先行テクストとも言うべきロバート・ハインラインの『宇宙の孤児』、それから日本の漫画では菅原雅雪『暁星記』、弐瓶勉『BLAME!』がある。

[注3] ここで行っているのは、フーコーのいわゆる「生政治(biopolitics)」の部分的な定義である。しかしフーコーは、巨大な権力が人々を管理技術によって支配しているというディストピア的な図式では、当時隆盛しつつあった新自由主義を説明できないと考え、「ガヴァメンタリティ(governmentality)」という概念を導入した。フーコーは『自己のテクノロジー』でテクノロジーを(A)生産のテクノロジー、(B)記号体系のテクノロジー、(C)権力のテクノロジー、(D)自己のテクノロジーに分け、「他者支配のテクノロジーと自己支配のテクノロジーとのあいだの……つながり」(21)、つまり(C)と(D)のあいだのつながりをガヴァメンタリティと呼んでいる。なお、晩期フーコーはこの他者支配のテクノロジーと自己支配のテクノロジーのつながりを、否定的にだけ見ているわけではない。むしろ、「知ること(汝自身を知れ)」と「行うこと」が一体となった「自己への配慮」を徹底することに、最後の政治的可能性が賭けられている。コレージュ・ド・フランス 1981-1982年度講義録へのフレデリック・グロによる解説に引用された、手稿「自己の統治と他者たちの統治」の記述によると、自己への配慮とは「世界を断ち切ったり、自分を絶対的なものとして構成したりすること」ではなく、「世界や、自分が組み込まれている必然性のシステムにおいて、自分が占めている場所をできるだけ正確に測ること」なのである(フーコー『主体の解釈学』600)。フーコーのガヴァメンタリティは、ナウシカに似ている。ナウシカは作られた生命である(テクノロジーの産物である)自分たちの生命を、ここでフーコーの言う「必然性のシステム」の一部として取り返そうとしているのだ。

[注4]これについては Milchman and Rosengerg に収められた諸論考を参照。

参 考 文 献 (リンク先をご覧ください)

出典:『文化と社会を読む 批評キーワード辞典』

 〈著者紹介〉
河野真太郎(こうの しんたろう)
専修大学国際コミュニケーション学部教授。
専門はイギリスの文化と社会、新自由主義と文化。

著書に『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)など、共編著に『終わらないフェミニズム――「働く」女たちの言葉と欲望』(研究社)、『愛と戦いのイギリス文化史――1951-2010年』(慶応義塾大学出版会、2011年)など、訳書に『暗い世界――ウェールズ短編集』(堀之内出版)、(レイモンド・ウィリアムズ『共通文化にむけて――文化研究Ⅰ』(共訳、みすず書房、2013年)『想像力の時制――文化研究Ⅱ』(共訳、みすず書房、2016年)などがある。

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