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初心忘るべからず|新卒者へのエール

四月と言えば新しい生活のスタート、新社会人にとっては大きな人生の節目だろう。初心忘るべからずということで私の社会人生活のスタートを振り返ってみたい。

今となっては昔(笑)となる1987年に早稲田大学の理工学部機械工学科を卒業した。就職先は三菱電機株式会社の赤穂製作所であった。最初に申し上げておくが私はこの会社に三年半しか在職していない。

なぜ三菱電機を選んだのかということについては大した理由は無かった。技術者として航空宇宙という方面にあこがれを抱いていたのでジェットエンジンなどを作っている石川播磨重工、通称IHIと言われている会社を最初は希望していた。

当時の理工学部における就職システムを振り返っておく。まず会社から学校に求人が来る。例えばトヨタから20人、日産から20人、ホンダから10人などと人数枠が来るのである。学科の指定があったかどうかはよく覚えてないがトヨタが建築学科の卒業生を欲しいとは思えないので当然学科の指定はあっただろう。次に学生側の希望を聞く、このときトヨタを希望する学生が20人以内であればほぼ自動的に内定が出る。面接はもちろんあるが形式的なものでよほどのことが無い限りは不合格とされることは無い。これが当時、理系学生の就職で実施されていた学校推薦と言われた就職システムである。ちなみに今はどうなっているのか知らない。

さて私が希望したIHIから求人枠は9名であった。それに対してIHIへの就職希望者は10名以上いた。20人はいなかったと思う。さてどうするか。IHIへの就職希望者が一つの部屋に集まって話し合った。そこで大学院卒業生は優先しようということになった。つまり大学院卒業生でIHIへの就職希望者は全員が枠内に入った。次に残りの枠を学部卒業生で争うのだが成績順だなどと面倒なことを言うやつはいなかった。(私に勝ち目は無い(笑))それでくじ引きで決めることになった。私は無事にくじ引きに外れた。それで良かったと思う、IHIに行ってもやっぱり三年で辞めていただろう。

この一連の話を聞いて皆さんはどう思っただろうか。ちなみに学校側は一切このプロセスに関わっていない。学生同士の話し合いで決めたのである。人の一生を左右するかも知れない就職活動でよく言えば民主的、悪く言えば無原則なやり方だなと思っただろうか。実際にあった話である。

IHIへの就職の道を断たれた私は次の会社を決めないといけないのだが、就職に関しては基本的にノーガード戦法であった。つまり業界研究などはしていないし企業についてもほとんど調べてはいない。思っていたのは会社は入ってみないと分からないということだった。これは今でもある程度そうだと思っている。同じ会社でも配属先によって変わるし、上司によっても変わる。新社会人に対してアドバイスしたいのは自分はここで生きていかなければいけないなどとあまり思い込む必要はないということだ。だが逃げれば良いというわけでもない、人生で負け癖、逃げ癖をつけるのは良くないと思っている。(つづく)

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