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『bone』 第15回木山捷平短編小説賞、最終選考通過作品

小説

 ああそうか。一年ぶりだ。
姉の家の玄関で、靴を揃えながら唐突に思い出した。あの日、おろしたての靴を見て、亜希ちゃんに似合ってる、と笑美子さんは言ったんだ。ひとり頷きながらゆっくり立ち上がると、
「家内の顔を見てやって」
 次郎さんにうながされ、体が硬くなる。
 私は、ご遺体をこの目で見たことがない。
「あ、はい。あの、手を洗ってきてもいいですか」
 とりあえず洗面所に向かう。柔らかいタオルで手を拭くと、少し落ちつく。
「よし。だいじょうぶ」
 鏡の中の私に言った。
 リビングと和室を隔てた障子が外してあって、仏壇の前に布団が敷かれている。テレビドラマのワンシーンのように、艶のある四角い布が顔にかけてある。静かに膝をついて横に座り、布に手をかけようとしたとき、甥っ子のユウキがぱたぱたと走ってきて、
「はいっ!」
 まるで手品師みたいに布をぱあっと上げた。
「!」
 正座したまま、ちょっと膝が浮かんでしまうくらいドキッとした。
 目に飛び込んできた笑美子さんの白い顔。前よりずっと小さく見える。
 仰向けに寝ているせいか、頬骨が際だっている。
 怖い、という感覚はない。ただそれは、本当に笑美子さんが亡くなったのだという実感がないだけなのかもしれない。
 ここは、泣くところなんだろうか。
 でも、悲しいとか、かわいそうとかなにも感情がわかなくて、ただ沈黙してしまう。それを察したように、姉がユウキを抱き上げた。
「ユウキお願い。布はもう少し、そうっとやってね」
「やだぁ」
 大きな声が響いて、部屋の空気が変わった。私もふっと力が抜けた。ちょうど、葬儀の打ち合わせから戻ってきたお義兄さんは、目尻にくっきりと三本のしわを作って、
「亜希ちゃんありがとうな。ユウキの世話、頼むよ」
と、いつもと変わらない人なつっこい笑顔を見せた。かえってそれが痛々しかった。
 姉のお姑さん、笑美子さんが骨髄腫で亡くなった。ご主人の次郎さんが運転する車で病院に向かう途中、眠るように息を引き取ったそうだ。そのとき私は、十日後に迫った本命の大学入試に向けて机にかじりついていた。ひとつの命がたしかにこの世からいなくなったのに、私はそれに気づくことはなかった。
 笑美子さんはまだ六十代半ばで、普段から五歳は若く見える笑顔の明るい人だった。 
 薬の副作用で食欲もなく、おかゆ一杯食べるのに一時間かかるようになっても、病院に行く日は暗いうちから起き、薄く口紅をひいてウイッグをかぶり、毛糸のぼうしを選んで出かけるのだと姉から聞いていた。余命一年と言われてから五年。姉は子育てをしながら、ずっと笑美子さんの介護を続けてきた。

 はたから見れば余裕のある受験生に見えてしまう私は、周りの言葉が重くて、しんどくて、しょうがなかった。確かに滑り止めには受かったし、本命の私立大も、模試では良い結果が出ている。でも、
「大丈夫。亜希ならぜったい合格だよ」
 なんて言葉は、もうゼッタイ聞きたくなかった。だいたい、人生を左右するような大事なことに「ぜったい」なんて言葉を軽々しく使って欲しくない。口には出さないけれど私だって、試験当日に熱が出たらどうしよう、電車が事故で止まっちゃったらどうしようと不安でいっぱいなのだ。素直に応援してくれる言葉はまだいいけれど、
「滑り止めがAランク校とか、ありえないでしょ」
「余裕って感じで、なんかムカつく」
とクラスメイトのイライラが透けて見えることも多くて、心底イヤになっていた。
 私は自分にできる努力をしてきただけなのに。いいかげんにしてよ!
 胸の中で毒づきながら、気持ちをうまくコントロールできない自分にも腹が立っていた。誰にも言えなくてぐっとこらえていたら、最近「合格」とか「受験」という言葉を見たり聞いたりするだけで、こめかみがズキンと脈打つようになっていた。
 姉から電話があったのはそんなときのこと。知っている人の死という現実は、よどんでいた私の心に冷たい空気のようにすっと入り込み、凛とした姉の声が響いた。
「それでね、亜希。あなたはこっちに来て、全部見ておいたほうがいいと思うの。親の葬式が初めてだと、ショックが強すぎるって、よく聞くから」
 迷わずに「うん、行く」と答えた。頭で考えるより先に、口が動いたような気がした。
 九歳年上の姉は、さいたま市に住んでいる。片道一時間半だからたいした距離じゃない。でも試験前だし、両親に止められるかなと思ったけれど、驚いたことに、泊まりがけで行くと言っても反対されなかった。それだけ私にとって、姉は特別な存在だと二人ともわかってくれている。中学生だった姉は、共働きの両親のかわりに毎日私を保育園に送ってくれた。遠足のときにはいつも、美味しい玉子サンドを作ってくれた。私が生まれる前、大病をして命が危なかった姉は、将来子どもは望めないかもしれないという困難を乗り越え、若くして結婚、ユウキを授かった。
 強く優しくゆるがない、私の自慢の姉。
 静かに受話器を置いたとき、ものすごく不謹慎なことだけれど、笑美子さんが亡くなったという重大なことを飛び越えて、ただ純粋に姉に会いたいという気持ちが私の中にあった。

 先月四歳になったユウキは、プレゼントにもらったという、スーパーなんとかっていうミニカーを私に見せびらかし、そのすごさを存分に語りつくした。それで満足したかと思いきや、集めたコレクション全部の説明が始まりそうになり、さすがに焦った瞬間、絶妙なタイミングで五時を告げる『夕焼け小焼け』のメロディが、窓の外から流れてきた。お気に入りのテレビ番組が始まり、ようやく私はユウキから解放された。
「お姉ちゃん、何か手伝おうか」
 台所に行くと、姉は、どこにしまっていたのだろうと思うくらい巨大な鍋を洗っていた。
「ありがとう、と言っても特にお願いすることはないかも」
 白いエプロンをつけて髪をひとつに束ねた姉は、サクサクと、大根をリズミカルに刻み、そこに油あげを加えてたっぷり味噌を溶かす。
「とりあえず、味噌汁があればなんとかなるのよね」
 腰に手をあてて、ゆっくりとかき混ぜている。
「なにか作ろうと思うとね、お義母さんの好きな物ばかり浮かんでくるのよ」
 ほんとに? という言葉を飲み込む。
「この味噌汁に玉子を入れて、とろっとした黄身と大根を一緒に食べるのが、お義母さん好きだったの」
 いつもどおりに振る舞う姉。つらくても顔に出さないから、よけいに心配になる。
「お姉ちゃん大丈夫? 寝てないんでしょ? ご飯食べてた? お父さんたち心配してたよ」
 聞きたいことが、いっぺんに口をついてしまう。
「それがね、不思議とお腹はへるのよ。しっかり食べてました」
そっか。良かった。
「お姉ちゃん、落ちついてるね」
「そう?」
「うん。五年間も介護したっていうのが、突然亡くなったのとは、なんか違うのかな」
「そうね、そうかもしれないけど……」
 視線の先には、カウンター越しに見えるユウキとお義兄さん、浩さんの背中。並んでテレビを見ている二人は、首を少し右にかしげ、ユウキはまるで浩さんのミニチュアみたいだ。
「二人の後ろ姿って、ほんとそっくりだね、お姉ちゃん」
そう言いかけて、やめた。二人を見つめる姉の横顔がなんとも優しくて、見ているだけでお腹の辺りがじんわりと温かくなる。私の視線に気づくと、
「お義母さんを看取ってみて、初めて同居する良さがわかったような気がするの。ほんとに長くて……すごくたいへんだったけど、今はこれで良かったと思ってる」
 少し伏し目がちに、まるで味噌汁に映っている自分の姿に言いきかせるように呟いた。
 本当の気持ちを吐き出してもいいんだよ。
 いっぱい泣いちゃってもいいんだよ。
 私はそのために来たんだから。
 投げかけたい言葉はたくさんあったけれど、今は言わないほうがいいような気がした。
 ふたりして、しばらくだまって味噌汁を見つめていた。この家ではきっと、今までずっとそうだったように、姉の本当の気持ちは語られることなく、料理に溶けてしまってきたのだ。そんなことを知らずにみんなが美味しく食べてきたことを思うと、今さらながら悔しい気持ちになる。いっそのこと、姉のつらい気持ちが「苦み」になってみんなに伝わってしまえば、姉はもう少しラクに生きてこられたかもしれないのに。
 姉のおめでたをきっかけに、二世帯に建て替えて同居することが決まったときのことは、私もよく覚えている。みんなの希望を詰め込んだ新しい家の設計図が出来上がって、お腹にいる小さな命がみんなをひとつにしていくんだな、と私まで幸せな気分だった。でも工事の始まる直前、笑美子さんが倒れてしまった。
 家族にだけ知らされた余命一年の診断。その沈んでいた空気を一掃したのは姉だった。「お世話のしやすい一世帯にリフォームして、お母さんに退院してもらいましょうよ」
 私の目には、力を落としていた次郎さんと浩さんより、よっぽど姉のほうが頼もしく見えた。
 リフォームが済んだ家に帰った笑美子さんは本当にうれしそうだったし、ユウキの誕生はみんなに力を与えた。でも仕事の忙しい浩さんはたびたび出張があって、ユウキの世話も笑美子さんの介護も十分にはできないみたいだった。だから体の丈夫でない次郎さんと二人して、しっかり者の姉に甘えてしまっているように見えて、私は勝手に腹を立てていたのだ。私の思いなんて、なんの役にも立たないことはわかっていながら。
 笑美子さんと姉の仲は、年月がたち、病状が悪化するにつれて難しくなっていった。姉はこの家で、ずっと耐えていたのだ。

 夕飯のお味噌汁はやっぱり、いつもどおり美味しかった。
 お風呂から上がると緊張がとけて、今自分が置かれている受験生の立場とか、初めて体験するお葬式からすうっとはなれてラクになった。布団に横になると、私のために布団を干してくれたのがわかる。お日様の柔らかい匂い。枕に巻いてくれたタオルのわが家とはちがう洗剤の香り。お母さんともお父さんとも違う「お姉ちゃん」の側にいるという久しぶりの安心感を味わう。心地よい眠気が訪れ、うとうとしていると、
 ダンッ、ドンッ。
 小さな怪獣が階段を登ってくる音が床から伝わってきて、バタンと扉が開いた。
「亜希ちゃんと一緒にねるぅ」
 パジャマ姿のユウキ怪獣が、頭からもぞもぞと布団に侵入してきたので、こちらはくすぐり攻撃で迎えうつ。すると小さい枕を抱えた姉が、部屋に入ってきた。
「ということだから、シッターさん、今夜はよろしくね」
「はいはい。おまかせください、奥様」
 ふふっと二人で笑う。
「明日、朝一番の飛行機で、浩さんのお姉さん一家が到着。そのあと葬儀屋さんにお義母さんのおしたくをしてもらって、お昼のあとに自治会館に移動するから」
 うん、と頷いた。
「じゃあねユウキ、おやすみ」
 姉が布団をめくると、ユウキはもう夢の中だった。

 やっぱり眠れないな。ユウキ、ちょっとごめん。電気つけさせてもらうよ。
 カバンから『あしながおじさん』の薄いペーパーバックを取り出し、また布団へもぐり込む。本当は、思い切って勉強道具を全部置いてくるつもりだった。でも出がけに靴を履いた瞬間、やっぱり気になって部屋に戻り、この一冊だけカバンに入れてしまった。お気に入りの場面は、何度も開いたから折り目がついている。やっぱり今は、勉強から完全に離れるのが怖い。繰り返し読んだ場面は、声に出して読むと気持ちが落ちつく。
 隣で、ぐっすり眠っているユウキの寝顔に目をやる。
 ちっちゃい子の横顔って好きだな。とくにこのほっぺたのラインって、どうしてこんなにかわいいんだろう。人差し指でそっとなでると、あったかくてすべすべしてる。
 あ。でもこれってもしかして、中学生で本物の叔母さんになってしまった私だけの、特別な感情なのかな。
 ふと、昼間に見た白い頬を思い出し、小さく震える。
笑美子さんはどんな子どもだったんだろう。幼いころはこんな愛らしいほっぺたをして、こうしてだれかに寝顔を見つめられていたのかな。いろいろ考え過ぎてしまいそうで、自分のおでこをユウキのほっぺたにつけて、寝た。

「おはよー亜希ちゃん! あ・き・ちゃんっ!」
 ユウキ目覚まし時計、恐るべし。私のスマホと部屋の時計、アラーム二つ分よりずっと強力だ。
「ね、早く行こ。おばあちゃんのとこ」
「え? なんで?」
「おばあちゃん、起きてるか見に行こ」
 一瞬、ふざけているのかと思った。
 ユウキは最近、下りの階段で派手に落ちてそうとう痛い思いをしたらしく、降りるときは大人と手をつないでゆっくり降りる。リビングから畳の部屋に入ると、ユウキはちょっとおおげさな忍者みたいに、ぬき足さし足、笑美子さんに近づいて、
「ばあっ!」
と白い布をめくり上げた。
「あれぇ、まだ起きてない」
 まゆをよせて首をかしげると、布を右手につかんだまま、今度は顔を洗っているお義兄さんのところにトコトコ走る。
「ねぇパパ。どうしておばあちゃん起きないの? いつ起きるの?」
 ほんの少し沈黙したあと、浩さんはゆっくりと膝をついてユウキの目を見つめ、
「おばあちゃんはね、もう起きないんだよ」
 ユウキの柔らかい髪をなでながら、優しい声で答えた。
 昨日からずっと、こんな光景が繰り返されていた。ユウキが「おばあちゃん死んじゃったの?」と尋ねるたびに、大人たちは穏やかに「死んじゃったんだよ」と繰り返す。私は、ユウキが死というものをどんな風に感じてるのかすごく気になっていた。そんな当人はいたっていつもと変わらないようすで、なにか楽しそうに話しかけながら、笑美子さんの枕元で飽きずに頬をさわっている。
「おばあちゃんのほっぺ、つるつるしてる。ねえ、亜希ちゃんも触ってごらん」
 うんと答えたけれど、触る勇気はなかった。

 浩さんのお姉さん夫婦が到着した。悲しみの対面のあと、浩さんのお姉さんは、姉の両手をしっかり握ってねぎらいの言葉をかけてくれた。姉の苦労をわかってくれていたのだと思うと、少しほっとした。
 ユウキのいとこの小学生二人が加わって、家の中はにぎやかになった。三人は運動会さながらに家中を駆け回る。リビングのフローリングをぐるぐる走っていて、和室の笑美子さんのところに足音が響いてしまうんじゃないかと心配になるくらいだ。
「大丈夫なの? あんなに騒いで」
「へいきよ。孫たちが側にいて、お義母さんもうれしいでしょう」
そんなものかな、と思っている私の気持ちがわかったように、
「それにね、亡くなったお義母さんを、子どもたちが怖がらないのが、私はうれしいの」
 そう言って、子どもたちに声をかけた。
「三人とも、ロウソクが倒れたらいけないから、和室は静かに歩いてね」
「はーい」
 いとこの二人は手をまっすぐ上に、ユウキは足を上げて答えた。
 葬儀屋さんが笑美子さんを棺に納めるために着くと、さすがに小学生たちは静かになったけれど、エンジン全開のユウキは止まらない。笑美子さんのおしたくが整うまで、姉と私と三人で二階の部屋に上がることにした。
「お姉ちゃんは下に行って来たら? ユウキは私ひとりで大丈夫だよ」
「ありがとう。でもね、なんだかお義母さんが、私が見てるのはイヤかもしれないと思ったの。なんとなく、ね」
 お姉ちゃん、やっぱり今でも思ってるのかな? この家で自分だけが他人なんだって。
 胸がチクリとした。

 したくの整った笑美子さんは、口紅をさして、柔らかく微笑んでいるように見えた。湿った布でそっと拭かせてもらった指先は、驚くほど冷たかった。
 
 お通夜の夜。休むように言われて布団に入った私は、掛け布団を鼻まで引っ張り上げてひとり眠れずにいた。いろんな場面が、今日あったことじゃなくてもっと昔のことが、頭に鮮明に浮かんでは消えていく。
 姉の結婚式の日、小学生だった私は淡い水色のドレスを着せてもらって、すごくはしゃいだのを覚えている。姉はノースリーブのウエディングドレス。ほっそりした腕に長い手袋をして、本物のお姫様みたいにきれいで自慢だった。でも最後の花束贈呈の場面になると、周りの大人たちがしくしくと泣き出したせいか、
「今夜から、おうちにお姉ちゃんがいなくなっちゃう」
と、なぜか急に理解してしまって、姉がものすごく遠くへ行っちゃう気がして、わんわん泣きだした。そんな私に、
「いつでも遊びに来ていいのよ、亜希ちゃん」
 明るい笑顔を向けてくれた、笑美子さん。
「私のこと、笑美子さん、って呼んでくれたらうれしいわ」
 明るくて楽しい人だなと思った。笑顔の感じが、なんだかヒマワリみたいで。
 ときどき遊びに行くうち、姉に会うだけじゃなく、笑美子さんと一緒にクッキーを焼いたりピアノを弾いて遊んだりすることが増えて、笑美子さんは娘がひとり増えたみたいだと喜んでくれた。私が合格した高校は、偶然にも笑美子さんの母校で、
「亜希ちゃんも英語が好きなの? 亜希ちゃんは私と似ているわ」
と、とてもうれしそうだった。
 今日は体調がいいからと、合格祝いに焼いてくれたアップルパイは生地から作ってくれて、格子に重ねたパイ生地に卵黄を塗るのを私にさせてくれた。姉と笑美子さんと三人で囲んだテーブル。大きく切り分けた一切れに添えたバニラアイスとシナモンの香り。たわいもないおしゃべり。笑美子さんの明るい声とあの頃の笑顔が、私は好きだった。
 一年くらい前、珍しく笑美子さんから電話があった。とても不機嫌そうな声で。
「毎日退屈なのよ。亜希ちゃんたまには遊びに来て、学校の話でも聞かせてちょうだいよ」
 介護している姉に悪いから遊びに行くのをひかえていたけれど、私が遊びに行ったほうが笑美子さんの機嫌が良くなるかもしれない、なんてうぬぼれて久しぶりに泊まりに行ったのだ。本当は行くべきではなかったのに。
 その夜、笑美子さんの部屋の前を通ってトイレに向かっていたとき、少し開いているドアから明かりが漏れていた。
 声が聞こえたとたん、足が動かなくなった。
「もう我慢の限界だわ。何度も言ってるでしょ。あなたの料理は私の口には合わないのよ。なのにあなた、私の舌がおかしいとでも言いたいの?」 
 笑美子さんの声だ。いつも私に笑顔を向けているときとは、声のトーンがまったく違う。なんだか怖い。
「あーあ。私の娘だったら、もっと親身になって工夫してくれるでしょうにねぇ」
 もういちど、あーあ、とたっぷり嫌みを含んだため息が聞こえたあと、震える声で、
「私、お義母さんにおいしく食べてもらえるように、毎日工夫しているつもりなんです」
 思い詰めたような、小さな姉の声に私は固まった。
「つもりだからダメなのよ。あの子だったら、もっと心を込めて作ってくれるわ」
 短い沈黙のあと、小さい鈴のような、でも今度は震えていない声が響いた。
「私は……お義姉さんのようにはなれません。私は私です!」
 息を止めて、私は次の言葉を待った。
「そうよ、あんたは私の娘でもなんでもないのよ」
 怒気のこもった声が、私の胸をぐさりと突いた。
 お腹の中に黒くて重いものを抱えながら、私はあの日聞いてしまったことを家に帰っても口にすることができなかった。しばらくたってから、テレビの悩み相談で聞いたどこかの家庭の話なんだけどね、みたいな軽いノリで、夕飯のあと炬燵で話してみた。するとお母さんはこう言った。
「どんなにいい人でも、長く病気をしていて、いつまで生きていられるのかと思い続けていると、周りの人に甘えてしまうものなのよ、きっと」
 確かにそうかもしれないけど、どうしても理不尽に思えてしまう。
「私が、もし末期癌で体中痛くて『余命半年です』なんて言われたら、そりゃあ悲しくて周りの優しくしてくれる人に思い切り当たり散らして、好き勝手してしまうかもよ。ねぇお父さん」
「うん? なんの話だ? 亜希、なにかあったのか」
 いつもはぼんやりしているお父さんが、そのときだけ妙に冴えた目をして私を見たので、どきんとした。核心をついた質問をされないうちに、
「ううん、なんでもない。おやすみ」
と部屋に逃げ込んだ。
 私が笑美子さんに会ったのは、あのときが最後だった。
 だれにも言えないけれど、笑美子さんが亡くなった電話を受けたとき、これで姉は泣かなくてすむ、ラクになると一瞬だけ思ってしまった。私は冷たい人間だ。

 告別式の朝。風もなく穏やかで、空は澄み切っていた。
 いよいよ最後のお別れのときがきた。私は父と母と三人で、棺から少し離れた場所に立っていた。
 次郎さんに抱かれたユウキが、小さな窓から見える笑美子さんの頬に触れている。それを見つめた姉が少しきびしい表情になったのがわかった。そして緊張した声で、でもはっきりとユウキを見つめて言った。
「ユウキ。おばあちゃんのほっぺ、もうさよならだから」
「さよなら? どうして? ねぇどうして?」
 その声に、姉は初めて答えようとしなかった。
 棺が銀の扉の向こうにガラガラガラ、と消えていく。
 焼かれてしまうんだ。笑美子さんの体が。
 なぜか手のひらがカッと熱くなり、指先まで脈を打つ。
 すがるように姉を見つめてしまう。
 姉の手にしている数珠が小刻みに震えている。唇がかすかに動き、全身で笑美子さんに祈っているのがわかる。
 ユウキはすごい目をして銀の扉をにらんでいた。口をゆがませ、両手のこぶしをぎゅっと握ったまま。静寂をこわさず、一人でじっとなにかに耐えていた。私はユウキの隣に立って、小さなこぶしを右手でそっと包んだ。震えていた小さなこぶしはふっとゆるんで、私の手を強く、強く握った。
 そのぬくもりに助けられたのは、たぶん私のほうだった。

 待合室の和室で、ユウキは私の膝の上から降りようとしなかった。おまんじゅうを、包みの上からブニブニとつぶして、だまっている。本当はスカートの折り目を直したかったけれど、じっとしていた。ユウキの背中が私のお腹に触れるのが心地いい。
「ユウキ、ジュース飲む?」
 ぶんぶんと首を横に振ったとき、係の人が準備ができたことを告げに来た。
 本当に、人の骨は白いのだとわかった。ずっと前に漢文の授業で、
「白いって漢字の形は、頭蓋骨からきているんだぞ」
と先生が言っていたのを思い出した。
 ユウキは不思議そうに白い骨を見ている。なにかユウキに声をかけてやりたい。でもなんて言ったらいいか、わからない。
姉はもう、震えてはいなかった。
「ユウキ。これはね、おばあちゃんの骨なのよ」
 ユウキの目が、まあるくなった。
「おばあちゃん?」
 私の後ろで、父と母がじっと見つめているのを背中に感じる。姉とユウキの会話を心配しながら聞いている二人の気持ちが、痛いほど伝わってくる。
「そう。パパもママもユウキの体も、骨が支えているの」
 複雑な顔をしているユウキの目を、姉がまっすぐ見つめた。
「パパを産んで育ててくれたおばあちゃんに、みんなでありがとう、をしようね」
 ユウキはこくんと頷いた。
 お義兄さんはユウキと姉のやりとりを、温かく見守っている。そのとき、次郎さんが係の人に、
「家内は長い間強い薬を飲んでいたのに、この骨なんか立派なものでしょう」
と自慢するように話した。愛しい人を見つめる眼差しで。
 私は、なにも言葉が出なかった。
 笑美子さんの骨を囲んで、次郎さん、浩さん、ユウキ、そして姉の四人が、淡い光に包まれているように見えた。そして、姉が向こう側に行ってしまった、と感じた。
 手を伸ばせば届くのに、してはいけないような気がした。
 姉は笑美子さんとぶつかり合いながら、悩みながら、大切なものを受け取ったのかもしれない。
 すべてを許せるような、なにかを。
 おぼつかない手つきで、長い箸をにぎるユウキを浩さんが支えている。私も姉から細い骨を受け取った。枯れ葉のように、かさかさと音がした。
 全ての仕事を終えた軽さなのかな、と思った。

 父と母は先に家に帰り、私は荷物をとりに姉の家に戻った。したくを済ませて一階に降りると、
「ちょっと来てくれるかい」
と、次郎さんが手まねきした。そこは笑美子さんの使っていた部屋だった。
 久しぶりに中に入った。
 天井まで届く大きな本棚。中には英語の本もたくさんある。そうだ、彼女はロンドンにペンフレンドがいると前に言っていた。その異国の友人の誕生日に、なにかプレゼントをしたいと相談されたことがあった。和歌を英訳した本があると話したら、その本がとても喜ばれた、と話していたのをよく
覚えている。たくさんの背表紙を目で追っていると、
「これ、もらってくれないかい。亜希ちゃんが持っていてくれたら、家内も喜ぶよ」
 一冊の分厚い本を手渡された。ずっしりとして手になじむ。英語の辞書だ。笑美子さんが老眼鏡をかけて、この辞書をめくりながらうれしそうに手紙を書いていた姿を思い出す。
「メールは便利だけれど、文字に気持ちをのせて書くほうが、もっと素敵でしょう?」
 はずんだ声が、ふっと頭の中で聞こえた。私は古びた革の表紙を、そっとなでた。
「亜希ちゃんなら、ぜったい合格できるよ。受験頑張って」
 次郎さんの声が、まっすぐ私の胸に響いた。
「ありがとうございます」
 自分でも驚くくらい、素直に言葉が出た。ゆっくりと吸った新鮮な空気が胸の中に広がる。じっと表紙を見つめていたら、少し涙が出た。
 今頃になってわかった。もう笑美子さんの声が聞けないって。
 もういちど笑美子さんと、ちゃんと話しておけばよかった。
 ばかだな。私。
 次郎さんは、私にひとつお願いがあると言った。受験が終わったら、そのペンフレンドに笑美子さんが亡くなったことを知らせる手紙を、英語で書いてほしいと。私は、だまって頷いた。

 浩さんが送ると言うのをやんわり断って、姉が車で駅まで送ってくれた。駅のロータリーで私にカバンを手渡しながら、とつぜん、
「亜希、ごめんね」
と姉が言った。
「あのね。私、うそをついたの」
「ウソ?」
「うん。うそ」
 言っている意味がわからず、きょとんとして姉を見つめる。
「あなたに葬儀を見せるためではなくて、ただ、私の側にいて欲しくて呼んだの」
 そして、静かに続けた。
「お義母さんをね、しっかり送りたいと思ったの。つらいこともあったけど、ちゃんと看取ることができて、病院で一人で逝かせなくて良かったと思ったの。でも気持ちがしぼんで、何かにおしつぶされそうになって」
 じっと、私の目を見つめる。
「でもね。私、亜希が側にいてくれれば、いつでもあなたの『お姉ちゃん』として、しっかりしていられるのよ」
 にっこり笑った姉の顔が、すごく疲れているはずなのに、本当に本当にきれいだと思った。一気に涙がこみ上げてきた。でも、今は姉の前で泣いてはいけない気がしてぐっとこらえた。そんな私を、小さい子どもを見るような目で見つめると、
「ずっと心配してくれていたでしょう、お義母さんと私のこと。亜希の気持ち、わかってたよ。ありがとね」
と言った。
 もう、だめだ。
 しゃくりあげて泣いてしまった。姉は私をぎゅっと抱きしめた。柔らかい髪が、私の頬を撫でる。
「結局私は、亜希にずっと甘えていたのかもしれないね」
 独り言のように呟くと、
「でも私は、ありがとうを言えたから。良かった」
 ようやく聞きとれるくらいの小さな小さな声でそう言った。私には、最後の言葉の意味が良くわからなかった。でも今は、全てがわからなくてもいいような気がした。

 帰りの電車で、すっかり暗くなった窓の外を見ていた。久しぶりに泣いたせいか、ふわっとして眠いような、プールに入ったあとみたいな気持ちで、家の明かりが流れていくのを見ていた。
 あと少しで入試が終って、高校を卒業して大学生になる。そのために勉強して勉強して、合格することだけしか考えていなかった。
 そのずっと先、私はどうしているんだろう。
 だれと出会うんだろう。
 私もいつか、なれるといいな。愛したり愛されたりする人に。
 骨まで誉めてもらえるような。

 家の前では、母がコートも着ないで、エプロン姿で立っていた。
お塩をひとつまみ、私のスカートと足元にぱらぱらとかけると、
「おかえり」
と笑った。なんだかうれしくて、三回もただいま、と言った。そのたびに母は、おかえりと言ってくれた。父はお風呂上がりでパンツ一枚で私を迎えた。でもなぜか、今日は腹が立たなかった。
 コンコンコン。
 ノックのあと、母の心配そうな目が、すき間から覗いた。
「紅茶でも飲む?」
 声が優しい。
「ええとね、ホットミルクがいい」
「ホットミルク? めずらしいわね」
「ね、お母さん。ミルクは寝る前に飲むと、骨が丈夫になるって前に言ってたよね」
「そうねぇ、たしかテレビの健康番組で言ってたような気がするけど」
 少しして、柔らかな湯気の立ち上るカップが、ことん、と机に置かれた。いつもより少しだけ優しい母の目は、無理せずに早く寝るのよと言っていた。
 すごく疲れていたけど、すぐには眠れないと自分でわかっていた。
 カバンから辞書を取り出し、その使いこまれた表紙を見つめる。
 そして静かにページをめくった。はじめに引く単語は決めていた。
 bone 複数形にすると「遺骨・骨組み」「主張・苦情・言い分」いろんな意味がある。as white as bone—骨のように白い。これは、ちょっと悲しい響きだ。そして最後のほうに、(v)動詞として、いくつかの例文が載っていた。そのひとつに、赤いボールペンでアンダーラインが引いてある。
 Bone up on English.
「試験前、猛烈に英語を勉強する、ガリ勉する」と書かれている。
 びっくりした。こんな使い方知らなかった。笑美子さんはいつ、このアンダーラインを引いたんだろう。人差し指でなぞってみると、なんだか胸が熱くなった。
 
 お母さんのホットミルクは、かすかにブランデーの香りがしてほんのり甘かった。二口目を飲みながら、
「良かったら、私と文通を続けてくれませんか」
 そう尋ねる英文が、ふと頭に浮かんでいた。     

                             


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