理想を忘れた現実主義者と宮崎駿が空を飛ぶということ

1983年宮崎駿さんの母親である宮崎美子がお亡くなりになられ、2018年には高畑勲さんがお亡くなりになられている。

宮崎駿作品に度々登場する美子さんをモデルにしたであろうキャラクター。特にポニョのトキさんには如実に現れている。ラストでトキさんに抱き抱えられる宗介のシーンには宮崎駿の母親にもっと愛されたかったというメッセージがストレートに表現されてしまっている(もう少し突っ込んで考えてみると、母親にもっと愛されていればジブリというグランマンマーレに支配され時間も才能も吸い取られずに済んだのではないだろうかという宮崎駿の無意識な被害者意識が見え隠れする…というのは邪推だろうか)更にルパン三世(駿)にクラリス(母性、無垢なる存在)を抱きしめさせてあげられなかったところにも宮崎駿の屈折した愛情が見て取れる(まぁここは女性に奥手な宮崎駿が素直に表現されているところでもあるのだが。ジーナと相思相愛なのは自明でありながら自分から積極的にアプローチする気のないポルコ然り)

トキさんに如実に現れている宮崎の母親だが、宮崎作品の女性キャラクターの女性像は一貫している。分かり易いところでは「天空の城ラピュタ」のドーラの若い頃の写真はシータそっくりであるし、魔女の宅急便のキキとウルスラは同じ声優が演じている。これはどういうことか。別に単に魔女の宅急便とはキキ(13歳)が成長するとウルスラ(18歳)になり、次におソノさん(26歳)、キキのお母さんであるコキリ(37歳)、最後はケーキを焼いてくれた老婦人(70歳)へと成長していくという女性の成長過程を現した作品であるだけではなく宮崎作品全てがそうなのだ。具体的にはポニョがメイになって千尋になり、サツキになり、シータになり、ナウシカになってドーラになり(!)そして湯婆婆になる(!!)

因みにルパンがクラリスを抱きしめてあげられたとして泥棒の手下にしたらクラリスは後に峰不二子になる(よく見たら顔がそっくりだ)ここまでくると宮崎の女性像というよりは1タイプの女性しか宮崎には描けないのかもしれない。

宮崎駿の女性感が1番如実に現れてしまっているのが「崖の上のポニョ」であると思う。わがままでほしいもの(宗介)を手に入れる為なら津波を起こし人類を滅ぼしてでも手に入れる(!)そんな女の子が成長すると(実際にポニョは作中の中でも他人の赤ちゃんに食べ物を与えるほど成長する)やがてシータのようなおしとやかな女性になり(しかし、これまた作中で成長してドーラの手下達をこき使うようになる。シータが成長するとドーラになる片鱗を宮崎はしっかりと描いている)リサの年頃ではまだ子供より旦那、母親より女であることを選ぶ女性であり、世界を人質にとって娘と結婚させるような恐ろしいグランマンマーレになるのだ(!)

そんな繰り返し繰り返し宮崎作品に登場する母親と同じ(或いはそれ以上に)宮崎駿作品に影響を与えた人物がいる。誰あろう、高畑勲である。

宮崎駿の最大の理解者であり相方であるプロデューサーの鈴木敏夫さん曰く「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」

また本人もインタビューにて「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えている。

ここにまたしても宮崎駿の屈折した愛情を垣間見ることができる。宮崎駿にとって高畑勲とは1番尊敬できる人であり、1番影響を受けた人であり、そして大好きな兄のような存在である。が、高畑勲は宮崎駿を最後まで認めなかった。

ナウシカの感想を聞かれて「30点」と答え、宮崎さんがモテたかと聞かれれば「モテるわけないでしょ!だってあの顔ですよ?」と答える高畑。その意思は最後まで徹底された。宮崎にとって永遠に越えられない壁
であった(興行収入では宮崎の方が圧倒的に上であるのだが)これは高畑だけに限らず宮崎にしてもそうで、宮崎が今まで作品を作り続けてこれたのは(もちろんご自身の才能あってのことだが)ジブリの若手の才能を(本人も知らず知らずのうちに)吸いとって吸収してきたからだ。その過程でジブリを離れる若手もいれば才能が枯渇してしまった者もいただろう。それでも己の道を突き進む。天才とは得てしてそういうものなのだ。

高畑勲の残した功績は大きかった。「実写とアニメの1番の違いは監督が全てをコントロールできるところにある」例えば夏に雪を降らせることも可能でありそれは実写より大きな可能性を秘めており同時に実写よりリアリティを追求できるのである。この高畑勲の思想の直系の影響下にあるのが「宮崎駿」「富野由悠季」「押井守」であり、今日まで続くアニメの根本的な思想の礎になっている。

そんなアニメ界に多大な影響を与えた伝説の人物を兄弟子に持った宮崎は、才能を大いに評価されようと満たされない何か「結局、高畑には敵わない」という重荷を抱えながら生きていくことになる。

そんな屈折した愛情から解き放ってくれるのが宮崎にとってのアニメであり、その表現の見せ方として「空を飛ぶ」ことを選んだ。

元々、宮崎は零戦や飛行機、戦車などが大好きな少年で、そういったものが載った雑誌は手当たり次第手を出す程であった(後にその兵器で何人もの人が亡くなったのだと知ったとき、その雑誌を全て燃やした。なんて不器用な人なのだろうか)その中でも零戦のパイロットは宮崎の憧れが詰まっていて後の「風立ちぬ」に繋がる。「空を飛ぶ」ということは宮崎にとって特別な行為なのだ。作品で繰り返し繰り返し主人公達を空に飛ばすとき宮崎は誰よりも自由になれるのだ。何もかもから解放される。宮崎にとって「空を飛ぶ」とは「自己実現」そのものだ。

しかし、ここで1つ疑問が残る。宮崎作品において自由に「空を飛ぶ」ことを体験しているのは女性(少女=無垢なる存在)ばかりである。対してポルコにはジーナ、ハクには千尋、ハウルにはソフィーがいないと自由に「空を飛ぶ」ことは許されない。ここに宮崎の果てしない諦観を垣間見る。

カリオストロの城でルパン三世はクラリスに「そのこ(クラリス)が信じてくれれば泥棒(ルパン)は空を飛ぶことも湖の水も飲み干せるというのに」と言う。これはある種、少女(母性、理解者、無垢なる存在)が側にいてくれなければ、たとえアニメ(宮崎の得意分野)を介してであっても空を飛ぶ(宮崎にって何よりもの自己実現。1番書きたいもの)こともできないという宮崎の敗北宣言なのだ。それは以前ご自身が言っていた「理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんですよ」という言葉に反するのではないだろうか。思えば「天空の城ラピュタ」にて(方向性は間違えたにしろ)理想を追い求めているのは悪役であるムスカである。同じく父親の夢を背負い理想を追い求めてきたはずの主人公パズーはいつの間にかシータの尻を追いかけるだけになる(やはりシータはドーラになるし更に突っ込むとパズーがシータに出会わなかったらムスカに成長するのだ。この辺の宮崎のからくりはさすがとしか言いようがない。或いは高畑の計算だろうか?)理想を失わないと言いながら現実に負けてしまうだろうという宮崎の諦観が無意識に作品に出てしまっているのではないだろうか。

2021年「未来少年コナン」や「カリオストロの城」で作画監督を担当し(事実上、宮崎とダブル体制)東映時代の先輩でもある親友の大塚康生さんがお亡くなりになられた。僕は大変不謹慎ながら宮崎駿さんと鈴木敏夫さんはどちらが先にお亡くなりになられるのだろうかと考えてしまった。この期に及んで鈴木敏夫さんまでも居なくなってしまったら宮崎駿さんにアニメを作り続けることは可能なのだろうか?理解者がいないと空を飛べない宮崎駿。でも、それでもアニメを作り続けてほしいと願う。たとえ空を飛べなくても、理解者がいなくても、アニメを作ること自体が宮崎にとっての自己実現であるのだから。

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