浜崎あゆみ“Duty”について
2020年の9月に書いたnoteの続きとして、22年前のアルバムについて改めて筆を執る。
このアルバムについては以前、“自分史”のnoteに高校生時分の、重苦しい空気とともに綴ったことがあり、我ながら歯切れの悪い文章を四苦八苦しながら書いたような、書き切れぬまま終わったような、つまり文字通り苦々しい記憶もある。
苦いという味覚を味わえるのは、おそらく人間だけのはずで、本能的には忌避すべき味を愉しめるようになったのも、思えばこの高校生の頃だった。エスプレッソの苦み、カカオ分の割合が高いチョコレート、また苦みとはちょっと異なるけれど、ペリエやサンペレグリノといった発泡水を愉しめるようになったのは、“Duty”をSONYのヘッドフォンZ-900で聴いた頃と符合している。
前置きが長くなったが、まずはこのアルバムの主調となる絶望三部作に触れずにはいられまい。どこかにも書いたかもしれぬが、“vogue”,“Far away”,“SEASONS”と三ヶ月連続で発表されたシングルは、そのジャケットからして一作目を二作目が、二作目を三作目が内包するようにして描かれていて、“花咲く苦しみ”は遠く離れようとも、季節が進もうとも消えずに胸の内にあることを、残酷なまでに美しく歌っている。三作目は、ayu単体としてのシングルでは最も売れた曲であったはずだけれど、その曲がこの積層した悲しみの上に立つ楼閣であることを知っている人は幾何もいないだろう。
売れることと比例して孤独を増していた当時のayuが、この三部作の末に行き着いたのが、囚われの身をジャケットにし、“義務”という重苦しいタイトルを関した本アルバムであった。
一聴して、前作“LOVEppeaers”よりも進化した音で聴かせる“starting over”で高揚するも束の間、タイトル曲である“Duty”のイントロで重たい弦の重なりが突き落とす先は、暗闇でもなんでもなくて、ただただ自己の内奥である。自己の底の底まで墜ちていくことは、皆が探しているものが全て過去にあるという意味の歌詞とも関連していて、2000年という年も後半に差し迫った9月27日というタイミングに、新世紀や未来への展望を持っていたようでいて、今の自分との乖離に苛まれていた私自身にとっても、深く深く刺さった。
シングルとして既出の“vogue”では、“君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに 散ってゆくから”と刹那の華やかを謳うphraseがあり、アルバム発表までの数ヶ月間、散々聴いていたはずなのに、この“Duty”の後にあっては、儚さだけでなくて、その一片の花弁まで重たくなったようで、これはもう鎮魂歌でさえあった。
花弁が墜ちた後には“End of the World”と、おそらくayu史上でも最も重たい調べが、彼女の苦しみが増すにつれ益々高まっていた音楽性をもってして、暴力的なまでに響きわたる。Guitarをかき鳴らしているのは、もちろんayuではないのだけれど、声と歌詞とが弦に憑依したかのような音響は、私が当時オーディオに嵌って進路まで大きく変えたことに、少なからぬ影響を与えていて、あるいはこの頃のayuを聴いていたから、実ることのなかった幻の進路があって、その苦難と挫折というにはあまりにも稚拙だった十代後半の私がいたわけで、またそのどうしようもなかった(自分史の筆も折りたくなったくらいの)時代を経たからこそ、今があることまで間違いない。
“SCAR”という5曲目は、人の別れそのものを謳ったという点で、少し異色の調べであった。“サヨナラさえ上手に伝えられなかったのは また会えるような気がしたから それとも”なんて歌詞が書けることに、心から尊敬の念を抱いていたように思う。
そして三部作の内の二、“Far away”。自分史でも書いたかもしれぬが、歌唱される旋律としておそらくそれまで歌われたサビの中で、最も高音に達することが、深い傷を耳にまで残すような印象で、残響を伴う鍵盤の中で茫洋と響くメロとのコントラストとなって、今聴き直しても痛いばかりなのだけれど、一作目の“vogue”にはなかった強さも感じるのも確かで、アウトロで激しく鳴るguitarのphraseとも相俟って、アルバムの中心にあって前後を分かつ曲である。
分水嶺の前曲で分かたれた先にある、“SURREAL”は、このアルバムを聴いてよかった、と心から思えた曲であった。サウンドも歌詞も完全なる新境地にあって、ジャケットでは檻の中にあった豹ayuが、解き放たれるまでのドラマを、それまで聴いたことのない強さを伴なった声で歌い上げている。“表層”、あるいは敢えて“表っ面”とでも訳したくなるタイトルを撰ぶことができたのは、“Duty”での深淵への旅を経たからこそで、何が大事かをはっきりと捕まえたものにしか書けぬ世界が、そこには広がっている。
少し長くなるけれど、最後の歌詞を引用しておく。
“la la-
どこにもない場所で
私は私のままで立ってるよ
ねえ君は君のままでいてね
そのままの君でいてほしい
la la-
どこにもない場所で
私は私のままで立ってるよ
ねえ君は君のままでいてね
いつまでも君でいてほしい”
蛇足ながら、彼女が歌詞の中でalphabetを用いたのはこれが初めてのはずで、“ラララ”とはいえ、突如現れた日本語でない文字に驚いたことを覚えている。当時の彼女はその“喋り口調”から(ある意味ではわざと)誤解されやすい人間であったけれど、実際の歌詞ではとても正しく日本語を遣っていて、ここへalphabetを入れたことは、自身の殻を破ったことを象徴している、と言ったら考え過ぎだろうか。
大きく広がった世界は、続く“AUDIENCE”へ。文字通り諸手を挙げて聴けるのは、アルバムを通じて唯一この曲だけかもしれぬが、ayuがハンドクラップを曲に入れるだなんて、前作はおろか、初めてアルバム曲を聴いている最中だって想像もつかないことであった。前作でいえば冒頭の“Fly high”にあった高揚感が、ここではもっと地に足ついた形で実現していて、誇りとする君達とともにやっとayuは“歩”を取り戻したのかもしれない。キラキラと、そしてずっしりとした音感とともに、たった4分ながらとても大きな4分である。
そして三部作のラスト、レコード大賞にまで彼女を持ちあげて“しまった”あの曲が始まる。季節の移ろいを、夢と現実との境目と絡めて歌うだなんて、万葉の歌人さながらであって、この普遍的な世界観が日本を席巻してのも故無きことではないのだけれど、歌姫と呼ばれたりカラオケで歌われ続けたりしたことは、全く彼女の心を癒さなかったことも確かで、生きていることの生きていくことの難しさは、フェードアウトするアウトロの中で、解けることなく(あるいは融けることなく)耳に残ったのだった。
“teddy bear”は、彼女の生い立ちにも触れる、自分史の一頁をとても丁寧に歌った小品。敢えて小品と言いたくなるような、細やかでプリミティブな歌詞は、他の歌ではあまり見ることのないもので、唯一ピアノの響きが盛り上がる“クマのぬいぐるみ”の件を頂点とした、小さな小さな物語である。
“Key –eternal tie ver.”は、律儀な彼女らしく感謝の念を温かく込めたpresentのような歌。ayuのファーストアルバムには“present”という曲があるけれど、そこから2年ばかりを経て彼女が歌う調べは、当時より確実に大きくなっていて、その大きさゆえに重圧を感じていたことを知っているからこそ、聴き手としてもその喜びはひとしおであった。
器用でないからこそ歌う道を選び、そこに全てを託してきた人間が至った境地は、後に続く世代であった当時の私にとって、道標のようでもあって、大事に鍵がかけられた歌を、宝物のように聴いていたことを、今でもとても覚えている。
“girlish”は、このアルバムから始まった一発撮りのライブテイク。こんなにリラックスして収録したものが、音源になって出てくる様を聴いて、自分もayuも生きていてよかったと、大袈裟でなく思わせてくれる曲であった。これが全てを救うわけでないことは重々承知の上で、それでもこの重苦しい“Duty”の締め括りがこの曲であることに、束の間の安堵を覚えずにはいられない。
今となっては、その先に控えるいくつもの曲達、そしてその集大成となった“I am…”という名盤を知っているから、何の心配もいらないのだけれど、当時は本当に生きるか死ぬかの瀬戸際で歌っていた人だったからこそ、“girlish”のような瞬間を少しでも続けて生き延びる縁(よすが)にして欲しいと、私は言葉にもできずに祈っていたのかもしれない。
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