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文化をソウゾウする

日本は人口減少社会に突入している。それゆえ日本経済の規模を維持するために海外の需要を取り込み、生産力を維持するために外国人労働者のさらなる受け入れが企図されている。経済規模と生活の豊かさは必ずしも直接的に関係しているとは考えられないが、国際的な経済力には規模が重要であるという考えを理解できないわけでもない。もっとも、近い将来には多くの仕事が、急速に発展するAIによって置き換えられる可能性があるため、生産力についてはそれほど重視する必要はないかもしれない。そうであるならば問題は総需要の維持であるが、貿易摩擦や雇用の観点から現地生産化が進んでいる現状では輸出にばかり期待することは出来ない。そこで突破口となるのが観光立国、すなわちインバウンド消費の取り込みであるとの認識が広がっている。地域社会においては域外からの消費の呼び込みが重要で、地域経済において観光客を指す「交流人口」がキーワードとなっている。

そこで、政府は2020年までに4000万人の訪日旅行客と8兆円のインバウンド消費を目指すとして、人口減少社会で今後必然的に減少する需要に対して海外からの需要の呼び込みに躍起になっている。実際に、2017年に日本を訪れた外国人観光客は延べ2900万人で約19%も伸びた。それに伴う観光客のインバウンド消費は5.6兆円に達している。現役世代の所得が伸び悩み、消費全体としては低調な近年においても、団塊の世代が余生を楽しむ段階に入ったことの影響から観光に関連する国内の消費も旺盛である。国内の旅行客も延べ6.5億人に達し、その旅行消費額は過去最高の21.1兆円で、人口が減少しているにも関わらずそれぞれ1.0%、0.7%の伸びを記録している。

しかし、ここで一度立ち止まって考えて見て欲しい。人々はなぜ旅行をするのであろうか。平凡でストレスに溢れた日常から逃れるため?自然や温泉を楽しむため?寺社や古い町並みを楽しむため?B級グルメや地元の特産品に舌鼓を打つため?もちろん人それぞれの理由があろうが、そこには「文化」が大きく介在しているように思える。

例えば国内旅行で人気の古都京都のことを考えて見たい。日本人だろうが外国人だろうが、清水寺や金閣寺を訪れたり、京料理を楽しんだりする。千手観音を眺めてその迫力に圧倒されたりする。もしくは北海道を訪れて、釧路湿原や知床の圧倒的で雄大な自然を楽しむことも人気が高い。もちろん日本人なら誰でも、その場の雰囲気を楽しむ以上に証拠写真を捏造することに集中することだろうが。歴史的建造物や、地理的要件によって左右されるその地域の特産物、そしてその地域で育まれた食文化が大きな観光資源となっている。各地で世界遺産への登録運動や観光資源の発掘、アピールが盛んに行われているが、ネームバリューが低い、めぼしい観光資源の乏しい地域では苦戦が続いている。訪日客の多くを占めるアジア、特に中国からの旅行客は、一時期のいわゆる爆買いは落ち着いたものの東京・秋葉原と京都をハシゴするのが定番となったままだ。インバウンド消費は日本の隅々まで行きわたるというより文化資源の多い地域へと集中する。

海外旅行のことも考えて見たい。有名な場所に行く、歴史的建造物を見る、日本とは異なる大自然を楽しむというのが定番であろう。それぞれの地域で美味しいものを食べたいという方が大切という人も多い。例えば中国ではどうだろうか。天安門広場や万里の長城に一度は行ってみたいと思う人は多いだろう。食であれば上海で上海蟹と小籠包を食べるのも良いし、北京で火鍋を囲むか、成都まで足を伸ばして本場の四川料理を食べるのも魅力的だ。ニューヨークで自由の女神を、バルセロナでサグラダファミリアを見るとか、ローマでコロッセオを、パリで凱旋門を見ながらカフェをするのかもしれない。経済を活性化させる観光資源として「文化的遺産」が重要なであることは世界共通、地域共通となっている。

しかし誤解を恐れずに言えば、これらの「文化遺産」は文字通りの遺産である。地域に溶け込んではいるが、文化という活動の残りカスか、すでに消え失せてしまった活動の歴史的な抜け殻であり、文化そのものではない。パリの凱旋門や中国の万里の頂上はすでに失われてしまった活動の残渣という意味では典型的な抜け殻である。例えば、仏教に対する信仰がないのに寺院を訪れたり、仏像や観音様を拝んだりするということは、一体全体どういうことなのだろうか。もちろん、京都の人気観光名所である清水寺が宗教活動を行っていないという訳ではないし、檀家がいないということでもなく、信仰を集めていないということを意味しない。そうではなくて、観光客は信仰という文化的活動ではなく消費という経済的活動として文化遺産を堪能しているのではないだろうか。これは世界各地の宗教関連の歴史的建造物について同じことが言え、キリスト教の信仰がないものにとっての教会や、ユダヤ教の信仰がないものにとってのシナゴーグ、イスラム教徒ではないものにとってのモスクは単なる観光の対象でしかない。

宗教に関連した観光資源として、祭礼にも同じことが言える。例えば日本の代表的な祭礼に、3日間で188万人の人出が数えられる東京浅草の三社祭がある。浅草寺は、もともと漁師の兄弟の手によって浅草浦より引き揚げられた観音様が祀られた場所である。そして、後にその兄弟らと浅草寺を建立した土岐氏を郷土神として祀った三社権現社が、現在の浅草神社の起源とされている。これは権現思想(仏が神に姿を変えて現れる)に基づいた信仰によって成り立っている。三社様を信仰する氏子や神輿の担ぎ手とは関係ない観光客や観光客によって成立している経済効果は祭礼の核ではありえない。お祭りは各地の重要な観光資源になっていることは事実であるが、これを観光のための祭りとしては、文化的遺産というよりその模倣物にしかならない。

目先の観光やインバウンド消費の呼び込みではなく、長期的な豊かさの観点でみれば、文化を作り出すことができるかどうかがポイントになるように思える。それは物質的な豊かさではなく精神的な豊かさを重視せよということではない。豊かな文化活動は当然、残渣ではあるが観光資源として経済活動をも活性化させるからである。例えば日本では陶器の利用が発達しており(これは世界的にも珍しい)、各地で◯◯焼という文化が残っている。これは、日本が多くの領邦に分かれていた頃に、各地で技術開発競争が行われ、その技術は領邦外に持ち出せない秘伝とされたことに由来する。日本の技術をガラバゴス諸島の多様な生態系に例えて揶揄することがあるが、ガラバゴス的な技術が多様な文化の基礎にあった。

文化の範囲は以上の分野に留まらない。芸術一般、文学、映画、さらにはマンガやアニメーション、ゲームにも当てはまる。近年はいわゆるメディアミックスが進んでおり、小説、そのコミカライズ、ドラマ化、アニメーション化、映画化、ゲーム化と関連商品への展開がスピーディーかつ複層的である。もちろん横展開するときのクオリティは重要で、原作が良くても展開されたものは評判が悪いということもある。しかし、ここでポイントなのはその核の部分を作り出すということである。例えば仮面ライダーやガンダム、プリキュアが100年後に残っているかどうか分からないが、そのようなコンテンツの核を作り出すことが重要となろう。リメイクやオマージュ、パチンコや携帯ゲームへの展開が乱発されるのはあくまでも残渣の有効活用なのであって文化の創造とは異なる。

問題はこれをつくりだすことが出来るのかどうかである。少なくとも100年後、ともすれば1000年後から見たときに、21世紀前半に形成されたと見なされるような建築物や衣食住に関わる文化、お祭りなどの行動様式を、現在つくりだす。それは簡単なことではないし、おそらく正解も一つではないだろう。しかし、文化を想像し、創造することがAIには代替できない人間の活動となろう。というのはそこには民衆の生活が必要だからである。どんなに美しい建築物も、優れたコンテンツであっても、民衆の生活に根付かなったものは文化足り得ない。AIがどこまで人間を労働から解放してくれるのかは分からないが、そうであるならば我々は文化のソウゾウに注力し、1000年後にはこう書かれたいものである。21世紀はシンギュラリティを突破したのと同時に、多様な文化が生まれたルネッサンスの時代であったと。

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