小説「tripper」2章~ひとりとひとり~

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ドアを閉めたときの、思いの外軽い「かちり」という音は、すみやかに船のエンジンのそれと思われる深いうなりの中に吸い込まれていった。

男は、しばし廊下の真ん中で立ち止まり、見回した。

ほの暗い廊下が、船の揺れ動きにあわせて、穏やかに呼吸をしているようだ。
押し黙ったように閉ざされたあまたの船室のドアのひとつずつが、軋みとともに寝息を漏らしているようにも。
しかし、彼はどこか船自体に生き物のようなところを感じた反面、人気というものを全く感じなかった。

不気味ではある。
混乱ももちろんしている。
しかし、こういった不気味さも、いまの「よくわからない状態」を構成するひとつの要素にすぎない。
彼が起きてから三十分も経っていないはずなのだが、本人には感覚が鈍麻しているように感じられていた。

そんな感覚を抱えた彼の耳に、エンジンの振動や船体の軋み、波濤の音に混じって、ささやかだが、冷たく澄んだ響きの連なりが聞こえてきた。

耳をそばだてると、それは廊下の向こう、外光が射しているらしき空間から聞こえてきているらしかった。
彼はおずおずと、廊下の向こうへ足を踏み出そうとしたが、ここで床がぎしりと沈み込むような感覚に襲われた。

足がふらつき、廊下の手すりに手をつく。
それほど大きく揺れたわけではないものの、船の揺れに足元をとられたらしい。

音は揺れに構うことなく、聞こえ続けている。
明るい空間へと歩を進めるにつれて、音のディテールははっきりしてくる。
ピアノの音だ。
ピアノが演奏されているのか、録音されたピアノの音が流れているのか。

いずれにしても、ピアノの演奏が流れているのであれば、人が自分以外いない、ということはなさそうだ。
多少安心できる要素ではあるかもしれないが、人がいたとしても、それが友好的であるとも限らない。

輪郭をはっきりさせつつある、涼やかかつ穏やかなピアノの音色とは裏腹に、彼の心身は未知のなにかに身構えはじめていた。

いつの間にか、歩く姿勢が、廊下の端をすこし息を潜めながら、抜き足差し足になっている。
廊下の端に行き着いた男は、壁を背に、覗くように、続く空間の様子をうかがう。

随分と広い空間だ。
壁面には大きめの窓が並び、真ん中には吹き抜けと、上の階層へ上る階段。吹き抜けは三階分くらいありそうだ。
ピアノの音は、恐らくすぐ上の二階部分から聞こえてきているようだ。
部屋と同じく暖色系主体の色合いではあるが、暖色、というよりどこか色あせたような感じもする。かといってそれはひなびた印象を与えるわけでもなく、親しみの持てそうな、柔らかい雰囲気を醸し出している。

ただ。
ピアノの音が聞こえてきているとはいえ、空間が思いのほか広大で、先ほどの廊下とは正反対に、無機質な印象すら彼は感じた。

あせたような色合いであるのに反して、ロビー…と言えるだろうか…の絨毯は、あまり擦れたり汚れたりはしていない。そして、踏みしめるたびに分厚さを感じる。

客船にしては、客室のある区画の階層数は少ないようだ。恐らく長距離フェリーなのだろう。しかしインテリアにはそこそこの高級感がある。
このようなシチュエーションで乗るということがなければ、好きになれていたのかもしれない。

そんなことを考えつつ、男は階段を上り二階へ至る。
階段のわりと側に、透明な樹脂のボディに包まれたピアノ。

音は出ているが、演奏者はいない。自動演奏らしい。
ピアノのさらに奥、窓の並んだ壁面には、一人掛けのソファと小さなテーブルがいくつも並ぶ。
ソファもテーブルも、床とチェーンで結ばれている。

ピアノの側を通り過ぎて、窓際へと。
壁は一方へと延びていて廊下のようになっている。廊下の窓際にも、椅子とテーブル。
一人掛けのソファだけでなく、もう少し華奢な椅子も並んでいる。

廊下とロビーの間あたりには、照明のついていない暗がり。
よく見るとカウンターと、小さなキッチンが備わっている。フェリーによくある、軽食を提供するスタンドだろう。

そして、やはりというか、人影が見受けられない。

一通り周りを見回して、男は警戒を解除するように、窓際の椅子に身体を預けた。
もう、人がいようがいまいが、どうでもよくなってきていた。
窓の外は相変わらずの曖昧な風景。
男はしばらく、その風景を眺めていた。

しばらくしたら、船の中をもう少し探索しよう。
廊下の先に、船の外へ出られるドアなんかがあればいいが。
自分が何者なのかは今はどうでもいい。
ここがどこなのか、なぜ船に乗っているのか、それをまず探ろう。
ゆっくりでもいい。ゆっくりでも。

そんなことを思いながら、男は目覚めたばかりだというのに、いつの間にか、ソファに沈むように眠り込んでいた。

~~~~~~§~~~~~~

自動演奏を続けるピアノの横を通り抜けて、展望プロムナード…という大層な名前がついているけども、実際は窓の並んだ廊下…の端、小さなキッチンを備えた軽食スタンドにわたしは入った。

しかし、入ったところで何をするわけでもない。不審なものがないかどうか、設備や什器に目に見える破損が確認するだけの行動。ただの見回りだ。

わたしの中には、これらの設備を使った「調理方法」というものが収められている。ただの使い方ではなく、「人間」に提供するときにちょうどいい具合になるような感じで。

コーヒーの淹れ方。
カフェオレを作るときのミルクの割合。
トーストの焼き色の具合。
きれいにソフトクリームを絞り出す方法。
子供が食べやすくなるようなカレーの仕込み方。
うどんのちょうどいいゆで加減。
豚汁の具の切り方。

今のところ、使うあてはない。わたしはものを食べるようにできていない。
仮に「人間」が乗っていたのだとしても、要求されるのかはわからない。

わたしは、そのために乗っているはずなのに、作られてから一度も「人間」というものに遭遇していない。
「人間」というものがどんなものなのかは、接客目的で作られたのであたりまえではあるけれど、あらかじめわたしの中には入っている。
わたしのような姿で、飲食という行動が機能維持に必要で、その飲食も、心理に好影響を与えるような要素を盛り込むことが求められる。
そんなざっくりさではあるけれど。

充電と定期的なメンテナンスさえしてしまえばいいわたしとは大違いだ。
嫌いとは言わないけど、よくわからない。

もっとも、ただ「人間」を接客するためのわたしに、どこか人間のような、心というか、認識のゆらぎというか、そういったものが備わっていることが、それ以上にわからない。

心みたいなものがあることを呪ったことはないけど、すごくよくわからない。

そんなことを考えていたからなのか、至近距離にその「人間」がいることにはなかなか気づかなかった。

軽食スタンドから出ようとしたとき、船独特の音やピアノの音に混じって、こんな音が聞こえてきた。

スー。

スー。

スー。

聞いたことのない音。
船の管理システムに問い合わせるが、船体やエンジンに異常はないとの回答。
念のため自己診断プログラムを走らせるが、それでも「ハードウェア/ソフトウェア含め本船システム全体に異常なし」。

音のするほうを向いてみると、わたしと同じく二本の脚と二本の腕、胴体、頭を有したものが…端的に言えば、「人間」の形をしたものが、船のソファに力無くもたれかかっていた。

それが「人間」なのか、確信が持てなかった。だって、「人間」なんて初めて見るから。

幸い、この船には「人間」がいる場合どこにいるかを感知するセンサが、セキュリティシステムの一部として備わっている。
セキュリティシステムには権限上ほとんどの部分アクセスできないけれど、人間がどこにいるか、そしてその人間がどの電子チケットを持つ客なのかの確認手段は、給仕のためわたしにも開放されている。

セキュリティシステムに乗客位置把握サービスへのアクセスを求めると、セキュリティシステムはもったいつけるように「総合管理システムへ問い合わせ」「総合管理システム>回答;承認」「Tier4アクセストークン取得」「ID:4******87の権限一時昇格完了」といったどうでもいい情報をよこしてくる。

それが終わると、わたしの視覚情報に、乗客位置把握サービスのデータが重ねられた。

視覚情報上のその「人間」らしきものの上に、吹き出しのようなタグが浮かび上がる。チケット番号:0404。
そして「人間」の体の輪郭にも、乗客位置把握サービスが緑色の線を重ね、またそこからも吹き出しのようなタグがぶら下がっている。

「推測される対象物カテゴリ:人間」
「推測される身体ステータス:睡眠中」
「推測される心理ステータス:睡眠中のため判別不可」

「人間」がちょうどわたしの「7日ごとの再起動」のような「睡眠」というものを一日一度とるという情報は、わたしの中にも確かにあった。
しかし、実際見たことはなかった。

「人間」、こういうふうに寝るんだ。

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