小説「tripper」8章 ~迷宮~

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昨日語ってくれた、メイの思いの丈。

自分は、ありきたりな言葉で受け止めることしかできなかった。
なにを話したのか思い出せない程度にはありきたりだった。

…これで、いいのだろうか。
たぶん、自分は相当に適当な人間だ。あまり覚悟はない。
その覚悟のなさに、少しばかり後ろめたさも感じる。
彼女に申し訳ない、とも思う。

しかし、覚悟がない反面、こんなことも考えていた。

なんだかんだで、覚悟の有無にかかわらず、われわれは前に進んでゆくのだろうな、と。


我ながら覚悟の無さの言い訳にしか見えないが、これは、あくまで自分の中に残っていた奇妙な信念だった。

【どのような状況であれ、どのような心持ちであれ、人間とは、前に進んでゆくものだ】

「前に進むべし」でも、
「前に進まなければならない」でもなく、
「前に進んでゆくものだ」
…である。

なんだろう。信念とは言ってみたが、これは半分「あきらめ」のようなものも含まれているようにも感じられてきた。

前に進んでゆくものなんだから、あきらめて前に進めよ、的なニュアンス。

もしくは、気負いせず、心の赴くがままにやればいいじゃないか、という感じもしなくはない。

いずれにしろ、我々はやっと扉のノブに手をかけたばかりなのだ。

覚悟の無さを、何もしない言い訳には出来ない。
やれることをやっていくしかない。

窓の外の海を眺めながら、そんなことを考えつつ、起きてからの午前の一時間を過ごした。


正午を少し回ったあたりで部屋を出て、いつものようにショパンの聞こえるロビーを訪れると、掃除中のメイと遭遇した。

驚いた。
メイはいつものメイド服ではなく、ややぴったりした黒のTシャツ、オリーブグリーンのクロップドカーゴパンツ、というラフな恰好だった。靴もいつものローファーではなく、白のキャンバス地のスニーカー。腰にはやや大きめのヒップバッグのようなものをつけている。
そしていつもはポニーテールにしている髪も、今日はおろしている。

「おー…どうしたの、そのかっこ」
「いや、たまには気分を変えようかなー、って思いまして」
「ほう…で、今どんな気分?」
「いつもよりは…なんかこう…肩の力が抜けたみたいな感じがしますね」
「なるほどね…いいんじゃない?」

多少ラフな恰好になっても、メイの持つ、透き通った、しかし輪郭のしっかりした美しさは変わらなかった。
自分は、それをおくびにも出さなかったが。

「…で!」
「ん?」
「『おくりもの』、見つかりましたよ」
「お。ウソじゃなかったんだ…どんなやつだった?」
「じゃあ、ちょっとデモンストレーションを…これ、かけてもらえますか?」
彼女がおもむろにヒップバッグから、大仰な眼鏡のようなものを取り出す。
どういうことなのだろう。
眼鏡はつるがかなり太く、全体的にフレームがしっかりしている、というか、やや無骨に見え、眼鏡というよりゴーグルのようにも見える。レンズはやや光を通しにくい、サングラスのような素材でできている。
そして、右のつるの先からはケーブルがぶら下がっていた。

眼鏡をかける。こめかみに当たったつるがひんやりする。全体はプラスチックのような素材だが、ここだけは金属で出来ているらしかった。
メイはケーブルの先のコネクタを手に持ち、左耳の後ろあたりを掻くように探った。すると皮膚の一部がはがれ、小さな差し込み口が露出した。
そこに、コネクタが差し込まれる。

「ちょっと、待っててください」
彼女はうつむくと、その挙動からわずかなゆらぎが無くなり、完全に静止した。
と同時に、目の前にまだらにもやもやし始めた。ちょうど目を閉じたときのように、はっきりしない色の粒が目の前を満たす。
視界すべてが妙な粒に覆われたと思うと、今度は雪崩のように崩れ、目の前が真っ白になる。しかし、まぶしくはない。

視界が晴れると、天井の低い、モノクロームの狭く入り組んだ空間の中に我々はいた。
メイが、まるでポリゴン数のまだ少ない頃のビデオゲームのような、妙に角張った姿になっている。
自分の手もやはりポリゴン数がかなり少なくなっているし、周りもかなりポリゴン数の少ないモデルで出来ているようだ。

「ここは…?」
「可視化した、船の自己診断プログラムの中です」
「プログラムの、中…ね」
「バグの捜索をしてるときって、こんな風にプログラムやシステムの中を可視化して探してるんです」
「はあ、そうなんだ…でも、荒いよね、表示」
「はい。今はお客様もいるので、いつもよりもかなり荒くしなきゃ負荷がキツくて」
「負荷か…」
「こういう可視化もぜんぶわたしのプロセッサで演算してるんですが…ちなみにいつもはこんな感じです」
メイのモデルのポリゴン数が増え、さっきから1~2世代ほど後のビデオゲームのような、少しは滑らかな姿になった。解像度も高くなった。
しかし動くと、さっきより格段にがくがくしてしまう。動きのなめらかさが二分の一か三分の一くらいに落ちている感じだ。
「…わたし一人分の演算ならこのくらいにしても大丈夫なんですが、いまは二人分演算してるから、フレームレートを落とさないと処理が間にあわないんです」
「…で、見せたいのは、これ?」
メイはモデルのポリゴン数と解像度を先ほどのレベルまで下げて言う。
「いえ、ここからです」

と、メイの胸元に、ささやかな光が宿る。
光は、彼女の胸元にある、小さなペンダントから発せられている。
その光はどんどん増してゆき、そのうち光の粒子が周囲を満たしてゆく。

再び視界が晴れたとき、目の前にはビデオゲームめいたモデルのメイではなく、現実と全く変わらない表示のメイが佇んでいた。
空間そのものはそれほど印象が変わらないものの、壁面には細かい彫刻のようなものが施され、その奥でちらちらと光がうごめいているのが見えた。

「…変わった。解像度が上がった…?」
「ええ。これが『おくりもの』の効果です」

メイの言うところによると、「おくりもの」とは、この船にある、システムとは別系統のコンピュータ群、サーバを使うための権限だ、ということだった。
しかし、そんなものの鍵をなぜ自分が持っていたのだろうか。


メイの「おくりもの」の説明が終わると、視界がモザイク状になってはがれ落ちるように崩壊し、システム内部の表示から現実世界へと戻ってきた。メイもメイド服から現実世界のラフな恰好に戻った。

…で、こんな風に見せてくれた、ってことは、
「これ、自分にも手伝ってほしい、ってことで、いいよね?」
「え、いや、別にそういうつもりじゃなかったですけど…たぶん口で説明しても実感できないから、ってだけです」
「あ、そうだったんだ」
「でも…手伝っていただけるなら、すごくうれしいです」
「…お安いご用で」
そう言ってにこりと笑うと、彼女の顔に、こみ上げるように明るさが宿った。
「ありがとうございます!」
メイがはつらつと頭を下げて礼をする。
少しくせのある髪が、ふわっと舞った。

ひとまず手分けして掃除を終わらせたあと、我々は一緒に「乗客達位置把握サービス」の中を探索することにした。

メイとなにかをしたり話をするときは、きまって海の見える廊下の窓際になるのだが…

「…あの、別の場所でやりませんか? 今日はちょっと集中したくって、このピアノの音の聞こえないところのほうがいいかな、と思いまして」
「それはいいけど、別の場所って…あの使ってないレストランとか?」
「いえ、わたしの使ってる部屋です」
「君の部屋でかい?」
「はい」
「いいの? ちょっと気が引けるな…」
「え、どうしてですか?」
「いやさ、船室のひとつとはいえ、女の子の使ってる部屋だし…」
「それなら気にしないでください。わたしの部屋、たぶん人間の男性が考えるような女の子っぽい要素、ないですから」
「そういう問題じゃ…」
「…それに、ひとつ、お願いもあるんです」
「お願い…?」


メイが自室としている513号室は、船前方の角部屋だった。
部屋に入ると、真っ正面に広めの窓があり、船の艏(オモテ)にあるなんやかやが目に入ってくる。しかし低層階だからなのか、海は見えにくい。
自分の使っている特等よりクラスが下の一等だからか、部屋は自分の0404号室より狭めだが、窮屈さは全く感じない。
たしかに彼女の言うとおり、女の子の使っている部屋、という感じはしない。普段ベッドを使わないのか、布団やシーツには乱れがひとつもなく、私物らしきものもない。いいにおいも悪いにおいもしない。

彼女は部屋にある二脚の椅子のうちひとつを持ち上げ、向かい合わせに置き、座るように促す。
椅子の距離がやけに近く、そのあと座った彼女の膝がつかないかどうか、すこしどきどきする。
よく見ると、椅子の下にぶら下がっているひものようなものが、微かにちろちろと光り始めた。まるで光の波が椅子側から床側に動いていくような光り方だ。

「まず、そのお願いのことなんですけど…」

そうだ。彼女はなにか頼みたいそうなのだ。役に立てることならいいのだが。

「明日の午後、わたしのリブートと記憶データの送信作業があるんです…前話した、悪夢を見るアレです」
「ああ、あれね」
心なしか、彼女の声がすこし小さく聞こえる。
「十四時ごろから、だいたい三十分くらいかかる作業なんですけど…その間…」

彼女の口調に、やや戸惑い、もしくは躊躇の色が見え始めた。

「その間…もし迷惑じゃなかったら………」
「うん」
「あの……ええと………手を握っていただけると………」
「…わかった」
「あ、ありがとうございます…いや、ごめんなさい、ですかね、こんな厚かましいこと」
「大丈夫大丈夫、おれに出来ることならなんでも」

出来ることならなんでも、と言いつつ、さっきまで彼女の部屋に入ることを躊躇していた自分はなんなのか、と思いつつ、彼女の希望を受け入れた。
もっとも、機械仕掛けであるとはいえ、求められて女の子の手を握り続ける、というのは、なんだかむずがゆさを感じるが。
おれは、特に彼女に好意とかそういうのとかを抱いていないはずだ。
そのはず、なのだが。

「え…?」
「ん、どうかした」
「いや、なんでもないです…じゃあ、始めましょうか。じゃ、これを」
今のリアクションを少し気にしつつ、さっきのゴーグルをかける。
彼女が体にゴーグルのケーブルを差し込み、目の前の光景が粒の波に飲み込まれ変容する。

さっきの自己診断プログラムとは異なり、ホテルの廊下のようにドアが並ぶ場所が目の前に現れた。フェリーの廊下よりもかなりクラシカルな装いで、妙に高級感がある。
「まず、下準備。ワーヘッドに必要なものを取りにいきます」
「ワーヘッド?」
「あの『おくりもの』の名前です」
と、突然廊下のドアたちが後ろに流れはじめた。いや、廊下のドアが後ろに動いているのか、廊下の絨毯が動く歩道のように前に動いているのかわからない。
「へえ…しかし"warhead"(弾頭)とはずいぶん物騒な名前だな。兵器かなんかなのか?」
「そこまではわからないですが、でもシステムに対する隠蔽や攻撃手段に関するプログラムが納められてたので…」
廊下の動きが止まり、彼女は、15-23-92-75-55と書かれたドアのほうを向いた。
「…その可能性もなくはないですね。ただ、だとしたら、なんでフェリーに兵器が積まれてるのかわからないですけど」
兵器を搭載したフェリー、とは、なかなかに面妖な響きだ。
下の区画に、戦車の一台でも乗っていそうだ。

「で、ワーヘッドに入る前に…」
と、彼女は胸元のペンダントトップを握りしめた。指の間からかすかな光が漏れる。
そして離した彼女の掌には、同じ形のペンダントが生成されていた。
「ワーヘッドの鍵です、どうぞ」
小さな宝石のついた鍵型のペンダントトップと鎖が、彼女の手から自分の手に、しゃら、という小さな音をたてて落ちた。


ペンダントに触れたとき、不思議な感覚に襲われた。

彼女がこの可視化されたシステムの中でペンダントを複製したのが不思議、と言いたいわけではない。
おそらく、デジャヴのような。
いや、デジャヴとはまた違うか。
なにか、「未来に起こった懐かしい出来事に、現在の時間軸で触れている」、ような。
とにかく、なにかはっきりしない感情が、胸の奥をくすぐってきた。


「あ、ああ」
「どうかされました? さっきも…」
「さっき?」
「ああ、いやいや。それじゃ、行きますよ」
彼女がペンダントを鍵穴に差し込むと、ペンダントの石が光った。それに呼応するように自分のペンダントの石も光り、ドアの向こうへ引き込まれた。

ドアの向こう側は、様相の全く違う世界だった。
我々は長い六角柱を横倒しにしたワイヤーフレームの中を、高速で移動していた。真っ暗な空間の中、白く輝くワイヤーフレームがめまぐるしい速さで通りすぎてゆく。重力も通常空間よりも弱いのか、体が半分浮いているような感覚がある。
やがて向こうに、少し角張ったサッカーボールのような多面体が見え始めた。その表面は自ら発光しているとも光を反射しているともつかず、まるで水面の油かシャボン玉の表面のように、曖昧でなまめかしい色合いをしている。
多面体の中に吸い込まれると、我々はふわりと床に着地した。いや、させられた、といったほうがいいか。

多面体の中は、着地した我々の周囲以外真っ暗だった。
メイが胸の高さに手を掲げると、そこに六角形のコンソール表示のようなものが浮き出す。彼女がその中のボタンをいくつか軽やかにはじくと、周囲に、蛍光イエローにふちどられた六角形のパネルがいくつも現れた。我々の立つグレーがかった床も、浮遊する六角形のひとつだった。
ばらばらに現れたパネルは、やがて六角柱を形成するように凝集、積層し、我々の立っている床の周りをぐるぐると浮遊しはじめた。
パネルのひとつひとつには、葉脈や血管、もしくはフラクタル図形のようなパターンが刻まれており、そのパターンの上を小さな光がにじむように走っていた。

「なんか…えらいところに来てしまった感じが」
「あ、すいません、今切り替えますね、表示」
彼女がまたコンソールのボタンをはじくと、床は前へ前へと移動しはじめ、囲んでいたパネルたちはみるみるうちに細かい六角形に、そしてさらに粒子のようなものへと分解され、別の形をとるように凝集していった。

そこから三十秒とかからないうちに、自分たちの床を中心に、書架のようなものが形成された。
書架は奥行き方向だけでなく、上下方向にもかなり広がっていた。外から見た多面体はそれほど大きく見えなかったのだが。

「さて、と…」
と、床が突然そこそこのスピードで動きはじめた。
見た目に反してそこまでの加速度は感じないが、やはりどこか重力が小さくなったような感覚に陥る。

いや、ちょっと待て。
いま自分は、網膜投影式かなにかのゴーグルをかけているだけではないのか。
なのになぜ重力などが変わったように感じるのだろうか。

「ああ、ちょっと」
「もしかして速すぎました?」
「いや、速さはいいんだけど、このゴーグル、なんか立体視出来るだけじゃなくて感覚まで…」
「恐らくそれ、BMI…脳波インタフェイスなんだと思います。わたしは使わないんでよくわからないですけど」
「なるほどね…」

にわかに、自分が生きていた時代の技術水準がわからなくなってきた。
フェリーはたぶん二十一世紀初頭のものとそうかわらないだろうが、脳波インタフェイス、しかも双方向型っぽいものが存在していたり、メイや自分のような、人型をしていてかなり人間らしいが、あきらかに人間ではなく人間に作られたらしいものが存在している。

そんなことを考えているうちに、タイルが書架のある場所で止まった。
近づいてみると、書架に見えたものは、実際は小さなロッカーの集合体のようだった。メイはそのロッカーのうちひとつの鍵を開け、中から透明な布のようなものを取り出し、自分に渡した。

渡された布のようなものは、よく見ると雨合羽みたいな形をしていた。
「これは?」
「隠れ蓑、みたいなものです」
「ふうん…」
羽織ると、その合羽はまるで空気にとけ込むように消えてしまった
「隠れ蓑のほうが隠れちゃったけど」
「そういうふうに出来てるんです。でも動作はしますよ」
彼女も同じものを羽織った上で、再び六角形のコンソールを表示させて操作した。すると、彼女の姿が突然、消えた。
「わたしも消えましたが、お客様も今消えてる状態です」
確かに、よく見ると自分の手が見えなくなっている。ただ、手を動かすと、ほんのわずかな残像のようなものが残る。手をより速く動かすと残像はより顕著になる。

「『光学迷彩』みたいなものです。システムの中でのわたしたちの動きをプログラム的にマスキングして、目立たなくさせるという働きをしています」
「へぇ。で、これ今君が作動させたわけ」
「はい。あ…すいません、使い方はですね」
消えていた我々の姿がまた現れた。
「まず、コントロールパネルを手のところに出るようにコマンドを送ります。とりあえず手を伸ばして、『コンパネ』って言ってみてもらえますか?」
「わかった…『コンパネ』」

自分の手の先に、メイが出したのと同じコンソールが出てきた。
「で、ここのスイッチを切り替えると…」
言われるがままにボタンを押すと、再び自分の体が消えた。操作していないメイの体は消えていない。
「それがもしBMIなら、声を出さなくても『念じる』とか『イメージする』だけで出せるようになると思います」
「『念じる』か…超能力者みたいだな」
「たぶん、ある程度の慣れは必要だと思いますけど」


例の「隠れ蓑」のほかに護身用のいくつかの「隠し武器」を持たされた上で、自分はメイに連れられて、ワーヘッドから「乗客位置把握サービス」に入った。

乗客位置把握サービスの中は、さっき垣間見た「自己診断プログラム」の中よりもずっと複雑だった。
見た目だけでは、重力の方向が上にあるのか下にあるのかわからない、まるでだまし絵のような空間だ。
マッピングでもしないと、迷ってしまいそうだ。

「自己診断プログラムからでもバグ経由でセキュリティ側に直接入れるんですが、それがムリになったときの保険のために、セキュリティシステムの浅い部分にある『乗客位置把握サービス』にバグがないか、探していきます。わたしたちの肉眼…とでも言うべき感覚も使っていきますが、基本的にはこのプローブを適当な位置に置いて、プローブから受信されたプログラムの動きからバグを見つけていくのをメインとします」

彼女は肩に掛けたポシェットの中から、とんぼ玉を手のひらサイズにしたような玉をいくつか取り出した。それが「プローブ」らしい。
「お客様の背負ってるバックパックからも、取り出せるようにしてあります」
確かに、バックパックを探ると、彼女が取り出したのと同じ玉がいくつか、いや、いくつも出てくる。しかもバッグの容量以上に。
ただ…
「バックパックじゃ、ちょっと取り出しにくいかな」
「あ、それならアバターの装備品の形を変えましょうか」
「変えられるの?」
「はい。一応初めて見たときの姿を元にアバターを作ったんですけど…これなら多少は」
突然、うぐいす色のバックパックはモーフィングするようにぬるぬると形を変え、現実世界の彼女が身につけているのと同じ、ヒップバッグになった。

「これならやりやすそうだ…ありがとう」
「どういたしまして。あと、どのあたりに玉を置けばいいかは、このHUDが示してくれます」
と彼女が言うと、目の前の風景に立体データのようなものが重ねられた。数メートルおきに、多面体が置かれている。
「赤い印のところに置いてもらうと効率的に観察できるようになってます。それと、あの向こう側に、青い旗のようなものが見えますよね」
旗、というよりは吹き出しのようにも見える。なにか文字っぽいものが吹き出しの中でちらちらと動いている。
「あの表示は、セキュリティシステムの端末プログラム、『エージェント』の位置です。ここはセキュリティシステムの中なので、こんなふうにエージェントが割と多数うろついてます…あれに捕まると面倒で」
「とっ捕まるとどうなる?」
「たぶん死ぬほど痛い目に遭うと思います。死んだこともないし、人じゃないので死ってのがよくわからないですけど」
彼女がそれを真顔で言うのですこしおかしかったが、やめておいた。
「ここはまだ入り口の安全圏なんで大丈夫ですが、ここから先、行動するときには隠れ蓑を作動させたままにして、プローブを置くときだけ隠れ蓑を切ってください。隠れ蓑が作動してるとプログラムやシステムに介入できないんで」
「…わかった」


彼女が隠れ蓑を作動させ、姿を消した。HUD上で、彼女がいたところに輪郭線が引かれる。
自分もコンパネを呼び出して、隠れ蓑を作動させる。
「あまり大きく動きすぎると、隠れ蓑のマスキングが間に合わなくなるんで、ゆっくりめに歩いてください。ただ、あいつら音は感知できないみたいなんで、声は出しても問題ないです」
「了解」

自分は彼女についていって、黙々とプローブを置いていった。
はじめのうちはプローブを置くたびコンパネを呼び出すのに骨が折れたが、30分もしないうちに「念じて」呼び出せるようになった。
念じるだけで何かが起きる、というのは信じられないことではあったが、このシステムの中に広がる光景の不思議さの中では「そういうことも起き得るか」、という気持ちになってしまう。

一見有り得ない角度で、階段が接続されている。
奥に続くかと思いきや、壁に投影された二次元の画像。しかし突き当たりかとおもいきや、触れると壁が消え、その先の風景が露わになる。
砂のようなものが、地面から天井へと流れてゆく。
歩いていてふと振り返ると、重力の方向が変わったのか、さっきまで歩いてきたところが90度横倒しになっている。
まるで、モノクロームの騙し絵の中に閉じこめられてしまったような気分だ。

とはいえ、あまり見入る隙はなかった。
エージェントが三分に一回くらいの割合で接近してくるのだ。
濃い灰色のローブを着、フードを目深にかぶった姿で可視化されたエージェントは、音もなく近づいてくる。HUDでその位置を把握することはできるが、動きがやや予測しにくい。直接的に目の前を横切るのかと思うと突然遠ざかるコースをとったり、何か様子を伺うように止まったと思ったら。浮上して天井の上へと抜けていったり。
隠れ蓑のおかげで、ある程度の距離であれば感知されないものの、近づけば近づくほど、エージェントは訝しがるような仕草を強めた。
エージェントがかなり近くまで来たら、止まるしかない。止まっていれば、奴らの目からは見えない。音を感じることはないということだが、それでも止まっている間、無意識に息を止めてしまう。

九か十くらいのエージェントの接近をなんとかやり過ごしたあと、訊いた。
「ねえ、昨日までは隠れ蓑なしでやってたんでしょ?」
「ええ」
「…これ、よく隠れ蓑なしで出来たね」
「はい、なかなか大変でした。プローブもなかったんで目視でバグ探ししてました」
そういえば、乗客位置把握サービスの中のバグを探ってみたら、と言い出したのは、自分だった。
「そんな苦労させて、ごめん」
「大丈夫です、わたしもわりと好きでやってるんで…あ、ちょっとここで一旦作業止めます。ちょっと壁際へ…」

連れられて、壁際に寄ったところで、彼女が床にペンで線を書き始めた。彼女は壁際から、自分たちを囲うように半円を描いた。

「隠れ蓑、止めていいですよ。ただ、その線…『簡易壁』からは出ないでください」
「この中なら見えない、ってこと?」
「はい。効果は短いですが、これにも隠れ蓑と同じ効果があります」
「ふうん…で、こんなところに隠れてどうするんだ?」
「さっき置いたプローブの動作チェックです。そろそろ『アレ』が来るんで、そのタイミングで」
「アレ?」
「もう少しで来ます…」

と、彼女は手元に長方形のコンソールを表示し、その内容をチェックし始めた。
その数秒後に、何かとてつもなく低いうなりのようなものが、どこからともなく。
やがて地面が、細かく、かつ、たわむように揺れ動きはじめる。
まわりの景色が、細かいノイズが乗ったように動揺する。
景色を、いや、この空間のオブジェクトをざわつかせるノイズは、やがて波のように周期を持って凝集しはじめ、やがてある程度の大きさの波となった。そして一瞬景色を大きくゆらめかせたと思ったら、揺らぎもうなりもバサッと止まった。

「…今のが、『アレ』かい?」
「はい。三十分に一回、船内管理システムとセキュリティシステムとの間で、わたしの権限の維持に関するやりとりがされるんですけど、そのタイミングで今の地震みたいなのが来るんです」
「なんか、あまり穏やかでない感じだけど」
「まあ、確かに…で、その地震みたいなののあいだに、プログラムのほころびとかが見つかるんじゃないかと踏んでるんです」
「もしかしたら、この揺れそのものもバグかなにかなんじゃないかな」
「その可能性もあります。なので、揺れが来たときのシステムの動きがどうなるか観測するのと同時に、揺れ自体の原因や発生源なども、プローブで探っていくつもりです……あ、観測値、出そろいました」

まだ設置したプローブの数が多くないためか、それといったシステムの破綻などは観測できなかったようだ。また「震源」の位置特定にはもほど遠い状況、ということだった。

その後、我々はかれこれ四時間くらい、プローブの設置と観測を繰り返した。
ここまで自分が送ってきた日々とは全く違う、緊張を強いられる時間。
たしかに疲れはするが、この船で目覚めてからいちばん充実したひとときだった。なんというか、おれたちが、ゆっくりとだが、確実に一歩ずつ歩を進めているのを実感できる時間でもあった。
ただ、昨日まで彼女はこれよりももっと困難な状況にあったわけで、多少簡単になったところで参加した自分が、しかも言い出しっぺが、こんな楽天的なことを言うのはおこがましいのだろうが。

自分には、覚悟がない。しかし、責任はある。
おれは、やっぱり、やれることを、やるべきことを、やっていくしかないんだ。


それにしても、システムの中を探索するメイには、迷いというものを全く感じなかった。
ゆらぎの少ない機械の体を持ちつつ、中に人間らしい温かくふわふわした感情を持つ普段の彼女とは、体と心のちぐはぐさ、存在意義への違和感を抱え続ける彼女とは、また違う一面。
もしかしたらこれが、「おくりもの」の力で取り戻せた、本来の彼女の姿なのかもしれないのだけれど。

「お疲れさまです」
「そちらこそ、お疲れさま」
「けっこうな時間、休憩なしでやっちゃいましたけど、大丈夫ですか?」
「ああ。というかむしろ自分、足手まといとかじゃなかった?」
「いえ、すごく助かりました」
「やっと役に立てたかな…じゃあ、明日も…」
ここで、体の奥から大きなあくびがこみ上げてきた。ここまで、疲れというものを認識することなくずっと働き続けてきたらしい。
「…やっぱり疲れてたか」
脳波インタフェイスを使っていたおかげなのか、特に目が疲れたとか頭が痛いとかそういうのはなかったのだが、体全体が疲れで、まるでびしょ濡れの服を着ているみたいに重く感じる。思わず両手で顔を覆って長いため息をついた。
「なら、この部屋のベッドで寝てもいいですよ。わたし、ベッド使わないんで」
「いや、まさか。初めて入った女の子の部屋で寝るなんて…おれも、歩けないほど疲れたってわけでもないし」

唐突に、彼女がきょとんとした。

「ん?」
「あ…いや、なんでも…」
「そう…じゃ、自分、部屋に戻るわ。じゃあ明日の十四時ごろだったっけ、またこの部屋で」


彼女が今日、何度かきょとんとする場面があったが、一体なんだったのだろう。おれはここまでのことを振り返ってみたが、なぜなのか思い至らなかった。
部屋に戻ると、そのままベッドに体を投げ出した。そして三分もかからないうちに、自分の意識は夢のない眠りの中へ引きずり込まれていった。

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