小説「tripper」1章 ~しずかな目覚め~

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ラジオの電源スイッチに触れた瞬間、広がっていた丘陵風景は男の目の前から文字通り『霧散』していった。
人工的で胡散臭い風景が霧のようにしゅわしゅわと、おぼろげな余韻を残しつつ消え去ったあとには、一人でいるには多少広すぎるくらい広い、ホテルの部屋が現れた。

ラジオのあったところには、各種照明や空調をコントロールするコンソール。
電球色の柔らかな照明。
意外に高い天井。
オレンジ色っぽい色調でまとめられた明るめのインテリア。
スプリングのきいたベッド。
そして壁をぐるりと覆う鏡。

これで、男の感覚から違和感の大半が消え去った。

残る違和感はなんだ。
空調のそれというには異質な低い唸り。そして、体を連続的に襲う、低い周期の揺れ。

心当たりはある。ただ、この目で確かめないことには。
と、男はゆっくりとベッドから立ち上がった。

ひさびさに立つんじゃないか、と思うくらいに体が重い。
宇宙帰りの宇宙飛行士は、地球の重力の影響下に戻ってもすぐ立ち上がることが難しいと聞いたことがあるが、自分はしかしどのくらい眠っていたのか。もしくは地球より重力が大きな別の星にいるのではないか。

自分の体を少しずつ、ぎくしゃくと歩かせながら、彼はそんなこと悠長に考えていた。

窓辺に立った男は、一気にカーテンを開く。

部屋の光よりもずっと強い光が差し込むのではないかと彼は身構えたものの、予想に反して外の光は強くなかった。そして飛び込んできた風景も、うすぼんやりとしたものだった。

そこには境界線のない風景が広がっていた。
鈍色の空。そして、空から下方に視線を動かしても、同じような色が続くばかり。

外は、霧の海だ。

海面のさざなみすら見えないくらいの霧が立ちこめ、海と空の区別が付かないほどに曖昧な、霧の海だ。

船に乗っている。これは男が見当をつけたとおりだった。ただ、だからといって今の状況がぜんぶ飲み込めるわけではない。

何故船に乗っているのか。それが彼にはわからなかった。
なにせ、目を覚ましたのが何時間ぶりなのか、何日ぶりなのか、もしくは何年ぶりなのか、思い出せないし皆目見当がつかなかったくらいだ。

とりあえず自力で思い出すのをやめて、男は自分の持ち物に手がかりがないかと探してみた。

何か、日記でも付けるようなくせが自分にあったら、眠りにつく前のことを何か書いているはずだ。
携帯電話か何かがあれば、もしくはPCなんかがあったら、最後に触ったファイル、最後に見たメール、そういったものから、何かがわかるだろう。

自分が何者なのかすら全くあやふやなままだが、別にそれといった不安もない。とはいえ、知っておくにこしたことはない。

彼は自分の持ち物と思われるうぐいす色の大きなリュックサックを手元に引き寄せ、中を漁った。
しかし、妙に軽いそのリュックサックから出てきたものは、ただの紙だった。おそらく買ったときと同じ状態で、型くずれしないための紙が詰められたまま、ということなのだろう。

チノパンの右のポケットに、不自然な盛り上がりがある。
財布だ。二つ折りでマジックテープどめの、見るからに安そうな財布。男はバリバリとマジックテープを引き剥がし、身分がわかるようなものがないかさぐってみる。

磁気ストライプの入ったカードが三枚と、ラミネートのされたカードが一枚。磁気ストライプ入りはどれも真っ白で、何も書かれいない。ラミネートカードは、意味ありげなバーコードが書かれているが、文字は全く書かれていない。

財布にはほかに何も入っていなかった。金もない。レシートのひとつも入っていない。

手がかりになるものはなにもなかった。

男はふと、鏡に映った自分をしげしげと見つめてみた。

髭面ではあるものの、髭は整えられている。髪も寝癖こそあるのの、伸びていたり整えられていないわけではない。
頬がこけているわけでもない。

これが自分の知っている自分の姿なのかも定かではない。
まあ、これが自分の姿として鏡に映っているのであれば、これが自分なのであろう。

ただ、これがさっきの『立体映像』のようなものである可能性も、無いわけではない。

確かめるのは面倒だ。あとでいい。

男は再び立ち上がり、リュックの中の紙をすべて掻きだして、それを背負った。空のリュックが居心地悪そうに背中にぶら下がるのを感じながら、彼はゆっくり、一歩、一歩と、客室らしきこの部屋のドアへと歩み始めた。

~~~~~~§~~~~~~

七日ごとに行われる再起動が完了すると、わたしの感覚は再び現実へと戻ってきた。

再起動プロセスを開始するまえ、そこまでの記憶を「倉庫」へと送るときにいつも襲ってくる、例の現実離れした一連の感覚は、今回も人間でいうところの「悪夢」に近かった。

もっとも、気持ちいい展開になることはなかったのだけれど。

いつもの513号室は、室温も湿度もなんら変わりなかった。
ただ、それはわたしには何の意味も成さなかった。
気温も湿度も、空気に含まれる物質がどのような臭いに関与しているかすら、わたしには把握できる。しかし、それがわたしの快/不快に結びつくことはない。
「そのようにできている」からだ。なぜそのようにできているのかは、わからない。

非接触型の椅子型インタフェイス…もっとも見た目は完全にふつうの椅子にしか見えないけれど…からゆっくり立ち上がると、わたしはカーテンを開けた。
「夢」の中では西日が射していたのに、現実の窓の外は鈍色の霧に包まれていた。海面をうっすら覆う霧は、水平線に近づくにつれて濃くなり、空と海との境目をおぼろげにしている。

いつもの船内の見回りに出かけようとして振り返ると、壁の一部をぐるりと囲む鏡と、そこに映る自分の姿が目に入った。

古風なメイド服に身を包む、小柄な「人間」の女性を模したボディ。
少し癖のある黒髪。ポニーテール。前髪は同じ長さに揃えられている。

ただし、それは「自分はそのような姿で作られ、そのように設定された」という情報に基づいての認識であって、わたしには「メイド服」が、「女性」が、「ポニーテール」が、具体的にどういったものなのか、なぜ、何の必要性があってそのように「作られた」のか、知りようがなかった。

わたしはそっと、513号室のドアを開けた。
船の中央部に向かう廊下は、船の低い低い周期の揺れにあわせてかすかにきしんでいる。
「作られた」存在であるわたしでも、揺れる船を歩くときにはバランスをよく崩しそうになる。なぜ暑さ寒さに対して快不快を感じないように作られているのに、揺れに対してバランスを崩さないようには「できていない」のか、揺れに転びそうになる度に不思議さを感じる。

間接照明のやや薄暗い廊下を抜けると、大きな吹き抜け。いつも見慣れた船のロビーだ。
船のインテリアは暖色系に統一されていて、人なつこさすら感じるものの、人っ子ひとりいないこのがらんどうの空間には、いつも寒々しさを感じる。

階段を上ると、透明な樹脂のボディのピアノが、ずっとこの空間に自動演奏で音を投げかけている。これもいつもと同じ。
そして、ピアノの堅い音が、寒々しさに拍車をかけている。

そもそも、わたしには音楽がわからない。
こういうものが「音楽」であるというのは認識できているが、わたしは音楽に何の情緒も見いだせない。音が高さを変えながら連なってるようにしか感じない。

「暖色系のインテリアだが誰もいない空間」には「人間」のように寒々しさを感じるのに、なぜ音楽というものになにも感じないのか。

わたしの認識には、どうもムラがありすぎる。
そう「作られた」のか、なぜかそうなってしまったのかもわからない。そして自分にとって都合のいいことなのか、悪いことなのかすら、わからない。

しかし、たぶん、それでいいのだろう。
いや、それでいいというよりかは、どちらでもいいのだろう。

今日も、時間は昨日と同じテンポで流れている。

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