小説「tripper」9章~透明な雨~

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513号室のドアをノックすると、開いたドアから、メイド服姿の彼女が顔を出した。

「お待ちしてました」
「お、昨日みたいなラフなかっこじゃないんだ」
「なんか今日は、この服で、って気分なんで」
部屋に自分を招き入れた彼女は、二つ並んだ椅子のひとつに腰掛け、隣に座るよう促した。

今日は、メイに請われて、七日に一度ある「リブート」と「記憶データの送信作業」の間、悪夢に苦しめられるという彼女の手を握っていてあげる約束だった。
なんというか、やはり、むずがゆさがある。

「着替えあるの、うらやましいな…」
「ないんですか?」
「うん…今日起きてから、もしかしたら自分にも着替えとかあるんじゃないかって思って探してみたんだけど、特になかったみたいで」
「それ、ちょっと寂しいですね……あ、でも、この船のどこかに、従業員用の服とかありそうですよね」
「かもね。でも、おれに似合う服なんだろうか。たぶん、接客用のこじゃれたスーツとかでしょ?」
「さあ………あ、そうだ」
「ん?」
「気になってたんですけど…お客様、一人称ってずっと『自分』でしたよね」
「ん、まあ…たしかに。それが?」
「あの…昨日から急に、一人称に『おれ』が混ざり始めてて」
「そう?」

意外だった。

「はい…」
「ん…今言われて初めて気づいた、というか言われるまで気づかなかった。なんなんだろうね、それ」
「なにか心当たりとかは」
「ないね。もしかしたら、もともと一人称が『おれ』で、それをやっと思い出した、ってことだったりして」
「はあ…でも、意識してないんだとしても、それはなにかをひとつ思い出した、ってことになりませんかね。もしもともとの一人称が『おれ』だったとして、の話ですが」
「うーん。思い出した、って実感はなにひとつないからね…」

突然一人称にブレが出ること自体は、それほど大した問題ではない。人や場合により一人称を変えるのはよくあるのだし。
ただ、無意識のうちに一人称がゆらぐ、というのは、いったいどういうことなのだろう。
記憶のほとんどを失った自分の奥深いところに引っかかった、浮き草のような性根の残滓。
おれは、そんなものを思い浮かべていた。


「にしても…」
「どうかしましたか?」
「ちょっと、早かった…かな」
ベッドサイドの時計は、まだ十三時半を少し回ったくらいだ。
彼女によると、例の作業…すなわち、彼女が悪夢らしきものを見てしまう時間帯…は、だいたい十四時ごろから始まるのだという。
まだ、三十分近くも時間がある。
暇をつぶすのが苦手な自分だ。間を持たせる自信はない。
「まだ二十分以上あるね…どうしよっか」
彼女に助け船を求めるのも、我ながら情けない。
「そうですね…暇をつぶせるかはわかりませんが、ちょっと部屋の景色を変えてみましょうか」
「あー、そういえば、そんな機能あったね」
「ご存知だったんですね」
「ああ、まあね」

そうだ。自分が目覚めたとき、なぜか部屋の景色が投影装置かなにかで書き換えられていたのだった。
なぜ目覚めたときに、部屋にあんな擬似映像が投影されていたのか、今でもよくわからない。

「こんなのはどうでしょうか」
部屋の窓が暗くなり、照明が虹色をまといはじめた。
そこから二~三秒で、部屋の調度品もベッドも壁も姿を消し、我々は…
「海の上に浮かんでる…?」
「船外にあるカメラからの映像を合成したものだそうです。たぶん映像からAIが推定して生成した部分はあるでしょうけど」

水色の空と濃紺の海、そしてそれらの作る水平線。はるか向こうには入道雲が見える。足元から海面まで、数メートルはあるだろうか。

「天気がいいから、気持ちいいですね」
「せめて、潮騒とかが聞こえたり、風も感じられたらいいんだけど」
「音までは再現できないみたいですね…風も望むべくもなさそうです」
「あと、海鳥とかイルカとかクジラとかトビウオでもいればと思うけど…ていうか、いつも窓の外見てても、生き物って全く見ないよね」
「確かに。もしかしたらわたしたち、人間どころか、それ以外の生き物も見たことないかも…ほんとに、二人きり、なんですかね」

その“二人きり”には、あまりいい意味合いが含まれていない感じだ。
メイとなら、二人きりでも寂しくはない…とは、おれでも言い切れない。
この世界についてなにもわからない二人が、こんなふうに心細げに肩寄せ合って過ごしているのを、誰かが見ていたら滑稽に思うだろうか。
あの声の主も、こんな我らをあざ笑っているのだろうか。

「もし、自分たち以外の人に出会ったら、なんて話しかけたらいいんだろ」
「うーん……わたしなら…『もしかして、人間ですか』、とか聞きそうな気がします」
「あー、なるほどね。たぶん言われた方はきょとんとすると思うけど、自分たち、人間じゃないからな…」
「とりあえず、人間の形はしてますけどね…ただ、むしろ人間の側は、わたしたちをどうするんでしょうね。確実にいぶかしがるとは思いますけど」
「そもそも、おれたちのこと、人間とおんなじように扱ってくれるんだろうか」
「そうですよね…わたしだってメイドタイプですし、お客様だって、なんらかの理由でエネルギーの発生装置みたいな機能がありましたから、おそらく、人間のために作られたものだとは…」
「立場としては、人間より下、人に使役されるような感じになるかもしれんよな」
「そうだとしたら、従う気…あります?」
「場合にもよるさ。友好的で、同等に扱ってくれればいちばんだし、下に見られてもひどい扱いをしなければ考える。ただの機械かなにかみたいに扱うなら、またさまようしかない」
「わたしも…ただの機械だ、という認識はありますけど、雑にとか乱暴に扱われるのは、いやですね」
「ああ。だよな…だって君、人間らしいもんな…おれよりもずっと」
「いやいや、そんな。それに、たといわたしが人型でなくても、やっぱり同じようには思うんじゃないかな、と」
「そういうとこが、人間らしいんだよ」
「そう…ですか?」
「そう。たぶんね…」


そういえば、自分もまた、目覚めたあと一度も人間に遭遇していなかったのだ。

自分は人間だと思いこんでいたが、自分にしたところで、実際は人間ではないなにかだった。
自分の知識や思考の様式は、自分が人間の形をしていることから、おそらく人間のそれか、もしくは模したものだろう、と思ってきた。
しかし、本物の人間に出会ったことがない以上、これから遭遇するかもしれない本物の人間が、自分のような思考様式などから外れている可能性は残る。

もし。
万が一であってほしいとは思うが、〈人の形をした悪魔〉が、実際の人間なのだとしたら。
そして我々の中にある「人間っぽさらしきもの」の奥のまた奥に、とてつもない野蛮が潜んでいるのだとしたら。

おれは、無意識のうちに彼女の手を握っていた。
なんだか、おれのほうがよっぽど心細くなったみたいに。

「あ、まだ早かったかな、手、握るの」
「そうでもないです…今、わたしもそんな気分になっていたんで…」

しばらく、我々は片方の手をつないだまま、うつむいていた。
映像だけの海が、音もなく足元に横たわっている。

心細くなっている暇はない。
実際、昨日から二人で突破口を探るべく作業をしているではないか。
我々は、前に進むのだ。
いや、進むしかないのだ。

わかっている。

わかっているのだが。



「あの」
不意に、彼女が手を強く握ってきた。
「…ありがとうございます」
「…ん?」
「いえ、ありがとう、と言うべきなのかはわからないですけど…わたしのこと、人間らしい、なんて思ってくれてたんですね」
「おそらく、君を見たら誰だってそう思うよ。たしかに機械の体だ、ってのは動きで分かるけど…メイ、君の中にあるのは、間違い無く人間と同じ心なんだ。不確かで、ゆえに信用おけるような、ね」

彼女は、一度手の力を緩め、また確かめるように、おれの手をきゅっと強く握りしめた。

「…実を言うとね、おれ、今心細くなってて。君を勇気づけるような素振りを見せたのも、ただの意地でさ」

不意に、本心が出た。
柄にもないことを言った反動だ。

「いいんです…あなたが強くても、弱くても…そばにいてくれることが、いいことなんです」
「………ごめん。なんか、いろいろ」
「謝る必要なんて、どこにもないじゃないですか」

自分は、黙るしかなかった。


「…あ、そろそろです」
しばしの沈黙を、メイのやや切羽詰まった声が破った。
彼女の手を、握ってあげなくてはいけないのだった。
…もう、がっちり握っているけれど。
「どのくらい、握ってればいい?」
「ええと…じゃあ、私の目が覚めるまで、おねがい、します…」

メイはそう言いながら、ゆっくりと目を閉じた。
彼女の手から伝わってきていた、力や体温の緩急が、すっと消え失せた。

止まってしまうと、本当に彼女は人形のようだった。
もうあまり信じたくなくなっていたが、彼女も機械なのだ。

おそらく彼女は、いま悪夢と闘っているはずだ。
彼女が「手を握っていてほしい」と言ったのは、たぶんそのせいだ。
おれが心細くなっていてはいけない。
そう言い聞かせるように、力の抜けた彼女の手を握りしめる。
どこか摩擦係数に違和感がありつつも、人からだの持つぬくもりをたたえた彼女の手だったが、週に一度訪れる「悪夢の時間をむかえて動作が止まった今、徐々に人らしさが失せていった。
いや、失せていったというよりは、奥のほうへ、奥のほうへ、逃げていくような感じか。

そんな彼女の人らしさをつなぎとめて、自分の、おれのほうへまた引き寄せられたら。
綱わたりの三歩めのような心細さの中で、おぼろげにそう願った。

部屋に投影された海のはるか向こう側に、やがて暗雲が見え始めた。つくりもののようだが、これはリアルタイムの外の様子なのだという。
しぜんと、自分はその暗雲のほうに目をこらしていた。
暗雲の下のほうが、霞を帯びたようにもやもやしている。近づくにつれ、それが暗雲のもたらす雨であることがはっきりし始めた。
しかも、おびただしい雨だ。

この風景は投影された映像にすぎない。だから、おれたちがこれから来る雨で濡れるわけではない。
ただ、おれには、この雨が何かの象徴めいているように感じられた。
メイが感じている悪夢の象徴として。
もしくは、涙を流す機能まではないという彼女の涙の代わりか。
ふと、彼女を見る。
まぶたはかたく閉じられている。表情そのものが、見えないなにかで塗り固められてしまったかのように止まっている。

彼女とおれの間を、大粒の雨が、ひとつ、またひとつと通り抜けはじめた。
そしておれたちのまわりは、あっという間に、かつ音もなく、車軸を流すような雨に包まれていった。
雨のひとつぶひとつぶが、おれの、メイの体を突き抜けていくのが目に見えるようだ。
粒度の荒い霧のように取り囲む雨の中で、おれたちだけが不自然に浮き上がっているようだった。
まるで、土砂降りの中、おれたちにだけ、透明な雨が降り注いでいるように。

おれは、彼女の右手を握っていた左手を一旦放し、右手で右手を握り、透明な雨からかばうように、彼女の肩を抱きよせた。
濡れるはずもないから、そんなことをする必要はないのに。彼女にそれといった好意もないはずなのに。
彼女の体は、微妙に柔軟性を失っていた。芯のだいぶ残った、ゆでる途中のスパゲティのようでもある。やや不自然に傾き、背骨をきゅうくつそうに曲げながら、彼女の体は強引に自分の体に抱き寄せられていた。
むしろ端から見ると、おそらく自分のほうが彼女にすがっているように見えていただろう。

またしばらくすると、暗雲はうしろのほうに去ってゆき、再び我々を青空と青い海と地平線が取り囲んだ。
何をしていたんだろう、という気持ちになりながら、自分は彼女の肩から腕を放し、握る手を持ち替え、また左手で彼女の右手を握った。

濡れてもいないはずなのに、妙に寒気がする。
おかしいことだ。
でも何となく笑えず、小さくため息をついた。

彼女の手が、がくん、と動いたのは、それから少し後のことだった。
突然おれを襲って機能停止したときと同じく、機械らしい不自然にかくついた動きで、彼女は起動しはじめた。
がくがくした震えが足下から頭の先までひととおり震わせたあと、唐突に彼女は目を見開いた。機械らしい動きもそこまでで、目をぱちくりさせたあと、彼女はまた人間の動きを持つ存在に戻った。

しかし、安心はできなかった。
やや速く荒い呼吸。うつむいた顔と見開かれた目。
強く手から伝わる、細かい震え。

「…大丈夫かい」
なぜか、自分は小声で声をかけた。
「はい…大丈夫…です」
声が、すこしばかり震えている。
それはたぶん、大丈夫じゃない、というしるしだ。
「少し、休もうか…ベッドに横になったほうがいい」
「いや、大丈夫です、わたし、機械ですから」
「関係あるかよ」
「ありがとうございます…ちょっと、肩借りていいですか」
「ああ」
彼女は握っていた手を離して、自分の右肩に回した。肩に置かれた彼女の手から震えが伝わる。さっきよりも震えが大きくなっている気がする。
「立ち上がれなかったら無理しなくていいよ。そうなったら床に、シーツ引くから」
「すみません…でも、立てます」
右肩の上に、思いのほか強い力がかかる。いや、強い力というより、重さか。
思わずよろけてしまう程度には、重い。
「ごめんなさい」
「大丈夫…あ、ごめん、景色の投影だけ止めてもらっていい?」
「はい」
照明が一度暗くなり、我々はまた元の部屋へと戻ってきた。海も窓の向こうへと戻っていった。
彼女を肩で支えながら、ゆっくり立ち上がり、真向かいにあるベッドへと、よろよろと数歩。ベッドに到達したところで、彼女は倒れ込み、大きくバウンドした。
ベッドの衝撃の波が消えたのち、彼女は荒い呼吸を御すように、大きく息を吸ったり吐き出しを繰り返しはじめた。
心なしか、その体を震わせていた緊張が解けていっているようにも見える。見ている側からは緊張が抜けないけれど。
ベッドの端から突き出たメイの足が靴を履いたままだったので、脱がせてやる。服はいつものメイド服だったが、靴は昨日と同じキャンパス地のスニーカーだ。
紐を荒くほどいて、やや強引に、引き抜くように靴を脱がせると、まっ白いタイツに包まれた小さな足が露わになった。そして無意識にか彼女は足を自分の体に引き寄せて、胎児のように丸まった。彼女は何かをつぶやいたようだったが、はっきりと聞こえなかった。

あまり広くない背中が、大きな呼吸にあわせて、ゆっくりと揺れる。
自分は部屋のカーペットに座り込み、ベッドに両腕を預けて、それを見ていた。というか、彼女を見守るしかできなかった。
週一度訪れる悪夢に、彼女はこんなふうに耐えていたのだろうか。何度も何度も、こんな倒れ込んでしまうほどの悪夢に、定期的にさいなまれていたのだろうか。

おれなら、機械の体なのに、こんな苦しみから逃げられないのだとしたら、心を…苦しみを感じてしまうような心を持ったことを、呪ってしまいそうだ。

都合のいい話だ。
さっきまでは、人と同じらしい心を持った者として、人間から人間と同等に扱われなかったらどうしよう、なんて思っていたのに。

やがて呼吸のスピードと振幅が元に戻った彼女は、両腕を突いて上体を起こし、自分のほうを見た。
目はどことなくうつろだ。というよりは、寝起きの顔に近い。やはり、機械の体でも寝起きはあるのか。
「ごめん…なさい」
「謝る必要なんてないよ。それと、あんま無理しなくていい」
彼女は、こくりとうなづいた。そして、突いた両手で自分のほうに体を寄せてきて、そのまま上体を放り投げるようにころんと寝転がった。まるでまどろんだ猫のような動きだ。
横倒しになった彼女の顔が、わりと自分の顔に近い距離にある。うつろな目が、自分の喉元のあたりを見つめている。

「…それよりも……」
「ん?」
「記憶データを『倉庫』に送るときに、こっそり『ワーヘッド』にその状況をトレースしてもらってたんですけど…」
「そんなことしてたのか?」
「使えるものは、使えるときに使わないと」
と言って、彼女はやや安心したような顔で微笑んだ。
実際は、彼女は思った以上にしたたかだった。
「…で、ワーヘッドに頼りきったら、倉庫と通信する時に強引に割り込むか負荷をかけるかして、直にシステムの割と深いとこにろに侵入できそうな感じみたいで」
「強引に…危ないんじゃないのか。今日だって君、大変だった感じだし」
「ええ…まあ、保険です。保険というよりは、最後の手段に近いですけど。しかも速報値しか見てない段階の見立てなんで、実際のところはまだよくわからないですし」
「大胆だな、君は。おれも見習いたいよ」
「そのわりには、心細くて今回手を握ってもらってましたけどね…ありがとうございました、今日は」
そう言って、彼女はベッドに預けていた自分の手にその手を伸ばして、軽く握った。
彼女の手には、また人らしさが戻ってきていた。
「繰り返すけど、無理しちゃだめだよ。頼りないおれが言うのもアレだけど、もっと頼ってくれてもいいよ」
自分は、彼女の手の上から手を重ねて、きゅっと握った。


ひどい矛盾だ。頼りない人間が頼りないことを自称しといて、もっと頼れとは。
そもそも。
強がるなんて、おれの柄じゃない。
頼れだなんて、おれの柄じゃない。

でも、そうする必要がある。
前に進んでいくには、そうする必要があるのだ。


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