小説「tripper」4章~スタンド、バイ、ミー~

前回→ https://note.mu/kenji_takeda/n/nff5c8b086774

いつから眠っているのかわからないくらい、深い眠りだった。
きのう目覚めたばかりなのに。


そんな夢のない眠りから目覚めて、客室のカーテンを開けると、きのうとはうって変わって窓の外には晴天の大洋が広がっていた。
吸い込まれるような濃い青の海。すでに太陽はかなり高く昇り、空は海に負けないくらいのブルーに染まっていた。

ベッドサイドのコンソールについたデジタル時計を見ると、12時近い。

寝坊か。

いや、別に今の状況では、何時に起きなければならない、ということもない。多少遅く起きたところで誰に咎められるわけでもない。

窓際で、できる限りの大口を開けながらあくびをし、これ以上伸びないと思うくらいまで伸びをした。
目覚めはいい。
状況はまだまだよくわからないけれど、目覚めだけはいい。

身支度をして、「0404号室」から出る。別に何をするわけでもなく、なんとなく船のロビーへ向かう。廊下を抜けて、ピアノが自動演奏するショパンの練習曲を聴きながら、窓際へ。

そういえば。
海の向こうへと目を向けるが、陸地は見えない。ほかの船もいっこも見えない。
反対側の窓へ歩み寄り、同じように眺めてみた。
やはりというか、こちらもただただ茫洋とした大海が広がるのみ。
沖合、のどこか…だろうか。

きのうと同じ一人掛けソファを海側へと向けて、自分の身を預けた。
ソファはゆっくりと自分の体を包み込み、体重をやんわりと支えはじめる。
特に意味のないためいきを、真上へ放り投げる。
室温は暑くもなく寒くもない。調度品など含めて考えると、空間として不快な要素はない。むしろ快適である。

しかし、自分が、いや例のメイド含めた我々がどこへ向かおうとしているのか、どころかいつ出港したのかすらわからない。
明確な恐怖や不安があるわけではないが、居心地がうっすら悪い。

遠くから、掃除機の音が聞こえてきている。
窓の並んだ廊下の奥から、メイドが念入りに掃除機をかけながら、こちらへゆっくり向かってくる。

それを眺めながら、改めて、きのうのことを思い出していた。


この船については、残念ながら彼女にもわからないことが多かった。
しかし、その船のどこに何があるのか、大方案内してもらえた。

船は、やはりフェリーのようだった。客室のほかに、売店、大きめのサウナ付きの浴場、ランドリー、ゲームセンター、ビュッフェスタイルのレストラン、そしてきのうも見た軽食スタンド、といった施設を備えていた。

しかし、売店には商品が無く、レストランも長いこと使われていないようだった。軽食スタンドも、設備はひととり整っているものの、バックヤードの冷蔵庫や冷凍庫は空っぽ、どころか通電すらしていなかった。

ロビーなどにはテレビはなく、目覚めたとき起動していたような立体投影装置が壁際の空中にテレビ画面を映し出していた。
しかし、どの画面も「放送波を確認できません」の表示を映し出すばかりだった。チャンネルを変えようとしても、どんなチャンネルがあるかすら確認できない。地上波だけでなくBSやCSも同じ具合だ。

この世界からは、テレビ放送というものが消え去ってしまったのだろうか。

自分が目覚めた0404号室は特等、メイドが自室として使っている513号室は一等。他にその上の階層には一等と二等、一番上の階層には特等とスイートルーム、セミスイート。一応全ての等級の部屋を見せてもらったが、なんとなく0404号室をそのまま使わせてもらうことにした。

唯一の乗員にろくな情報もシステムへのアクセス権も与えられておらず、乗客が行き先も知ることができない、ということを除けば、いちばん奇妙だったのは「部屋番号がバラバラ」ということだった。
自分の部屋が0404号室。右隣の部屋が9号室で、左隣が78894号室。向かいの部屋が1314号室。廊下の奥にあるメイドの部屋が513号室。
一見、何の規則性もない数字があてがわれている。

誰の、もしくは何の意図なのか、読めない。
割合高級に感じられるように設えられた船ではあるが、こういうところで、やはりこれはなにかの悪夢なのではないか、もしくは目覚めたときの偽装映像の続きなのではないか、という疑念を感じてしまう。

財布の中に入っていた磁気カードのうち一枚の正体は、この船の電子チケットだった。
黒い磁気ストライプこそ入っているが、ドアの開閉でカードをどこかに挿入する必要があるわけでもなく、持って自室のドアに手をかけるだけで解錠できるようになっていた。ペアリングされている発信機のボタンを押すだけで接客機や乗務員を呼び出せるようになっていた。
おそらく中にはICタグか何かが入っているのだろう。だとしたら何のために磁気ストライプが入っているのか。彼女に聞いてみたものの、わからない、ということだった。

残り二枚の磁気カード、そしてバーコード付きのラミネートカードも、何なのかわからないそうだ。

この廊下の向こうには、外部デッキ、すなわち外に通じるドアがある。
しかしそのドアも、鍵がかかっており閉ざされていた。電子ロックとかそういうものではないので、やろうと思えば物理的に破壊はできると思うが、まだその必要性は感じられない。


近くまできていた掃除機の音が止まった。

「おはようございます」
「おはよう」
「なにかお手伝いすることは、ございますか?」
「今のところ、特に……あ、そうだ。君、名前は?」
「名前、ですか?」
昨日半日くらい一緒にいたのに、名前を確認するのを忘れていたのだった。
「名前…わたしに名前って、あるんでしょうかね」
「接客用の機械でも、個別のIDとかペットネームとか、あるはずでしょ?」
「ペットネームというのはよくわからないですけど、IDなら…でも、それ名前なんですかね」
「まあ、名前、みたいなもんだとは思うよ」
「わたし、実際の接客対応したことないんで、名前で呼ばれる、って経験ないんですよね…あと、管理システム上でわたしに割り振られてるIDも数字の羅列だから、名前として呼んでもらいにくいんじゃないかな…と思うんです」
「む…」
「わたしも、昨日お客様と初めてお会いしたあたりから、そこが気になってたんですよね。わたしって名前、あるのかな、って」

昨日から感じていたが、この機械仕掛けのメイド、妙に「人っぽい」感じがする。
基本的には人とは違って立ち居振る舞い自体にゆらぎやノイズが少ないのだか、内面的には戸惑いだとか迷いだとかを抱えていて、そういったゆらぎを隠すことをしない。
接客をするためだけの機械には、恐らくそんなものは余計だ。
従順で、愛想がよければいい。かわいければもっといい。システムに侵入する能力なんてもってのほかだ。一般的にはそういうものだろう。

しかし、あったらあったで、悪くない。
と、自分は思う。

「名前、必要ですか?」
「いや、ま…あったらいいかな、くらいかな」
「そうですか…じゃあ、お客様が呼びやすいように、わたしに名前をつけてくださっても構いません」
さすがにそれは…
「いやぁ、気が引けるよ」

「……では、自分で勝手に名付けてみてもいいですか」

まさかの回答だ。
名前らしき名前がないことに悩んでいる者のとる判断としては、やや意外だ。

「それで、いいですかね…」
「あ、ああ。いいよ」
「それでは……」

昨日も見せた、ときどきフリーズしたかのような間ののち、

「私のこと、『メイ』、と呼んでいただけますか? …いえ、そう呼んでいただけると…うれしい…です」
「『メイ』…メイ、ね」
「あ、これじゃダメですか? もう少し違った名前のほうがいいですか?」
「いや、これでいいと思うよ。いいんだけど…なんかびっくりしちゃって」
「え? 驚かせちゃいました」
「機械仕掛けのメイドさんが、自分で自分に名前をつけるとか、あんまりないような気がするなぁ、って」
「…それって、良いことなんでしょうか、悪いことなんでしょうか…」
「いやいやいや、悪いとは言ってないよ、むしろいいんじゃないかなぁ」
「よかった……すみませんなんだか」
「いや、大丈夫だよ…」

ちなみにあとでなぜメイなのか聞いたところ、想像はつこうが「メイドだからメイ」、という答えが返ってきた。
即物的すぎやしないか。

昼のひととき、なにもすることがないまま、たぶん一時間ほど窓際で海をずっと見ていた。
海原が刻一刻とその姿を微妙に変えてゆくのを見るのは、それなりに飽きない。しかし、そこには船も、海鳥も、なにも通りがからない。

なにか読むもの…雑誌類などが、いやせめてパンフレットみたいなのがあればいいのだが、そんなものはなかった。

部屋番号とテレビ表示の「放送波を確認できません」以外、なんの文字情報もない。少なくともアナログの媒体については。

そうか、ならばそろそろデジタルの媒体から、なにかを得ねばならない。


たまたま通りがかったメイを伴って、客室エリア一階のフロントへ向かう。

フロントにたどり着くと、フロントの入口から数歩のところでメイはピタッと立ち止まった。

「やっぱり入れないんだ」
「ええ。自分の意志と関係なく、歩行が止まってしまいますね」
「…もどかしいね」
「はい…」

そうなのだ。
メイはこの船の乗員のはずなのだが、セキュリティシステム上の権限が低いからなのか、入れない場所がいくつか、いや、いくつも存在していた。
立ち入れない場所にさしかかると、彼女の足が止まったり、不自然に後ろ歩きで引き返す動作をしたり、見えない壁にぶつかるような挙動をする。
さながら、ポリゴンを使い始めたばかりの年代物のビデオゲームのようだった。
彼女曰く、知りたい行き先の情報がその先にあるかもしれないと思うと歯がゆいが、それで困ったことはあまりなかった、ということだ。

「…で、フロントに何かご用でも」
「フロントにあるコンピュータからさ、なんかつかめないかなー、って」
彼女はこくりとうなづいた。
「行き先わからないの、悔しいでしょ。だからさ、一緒に探そうと思って」
はっとした表情を一瞬したあと、少し笑顔をたたえて、二度うなづくメイ。その目の奥には、昨日からたびたび見せた戸惑いとは違う色が…希望とか、好奇心とか、そういったものの内なるきらめきが、透けて見えるようだ。

ただ、そのかすかな笑顔も、すぐ曇ってしまった。

「入れないところがあるならなにも手伝えない、って思ったでしょ」
人形のようにぴたっと立ち尽くしている彼女だが、その表情はまるでそよ風になでられた水面のように、微妙に様相を変えていった。
「そんな顔しないで。君は、自分よりずっとこの船に通じてるんだから。自信持ってくれないと」
「は、はい…」
曇った表情は、また少し晴れやかさを取り戻した。


自分もまた笑顔で返すと、フロントのカウンターに据え置かれた小さなコンピュータのうちひとつに電源を入れた。

コンピュータとはこういうものでこう使うものだ、という記憶が自分の中にかろうじて残っていたのは、幸運でもありやや奇妙でもある。
どこで獲得した知識なのかわからないので、使えるのに実感がわかない。

思えば、自分の中に残滓のようにこびりついている概念が、今目覚めたこの世界で通用するとは限らないのだ。
ここが実はどこか見知らぬ惑星であったり、数万年眠って目覚めたばかりである、という可能性は、残念ながら十二分にある。
今のところそのような兆候はないが、いつこの世界が牙をむくともしれないのだ。

こんなことを考えているうちに、ディスプレイがぱっと明るくなり、ログイン画面へと移行する。

【ログオンするには、トークンをリーダに置いてください】

そのほかに、パスワード入力欄などはない。恐らくトークンとはマスターキーのことだろう。ちょうどカードくらいの表面積の機器がキーボードの左横にある。リーダとは恐らくこれか。非接触通信かなにかを使ったものっぽく見える。

「…ねえ、トークンってのを置けって言われてんだけど、トークンて何かな。たぶんカードくらいのサイズなんだけど」
「トークン、ですか?…よくはわからないんですが、マスターキーのことかもしれないですね」
「マスターキー?」
「はい、わたしが持っている、すべての客室のドアを開けられるキーです。予備のやつがあるんですが…使います?」
「うん。ちょっと借りる」
メイはフロントに立ち入れないので、フロントから出て、彼女からマスターキーを受け取る。
全体が青く、何も文字は書かれていない。電子チケットと同じく、磁気ストライプが入っている。

「あ…せっかくなので、今後はお客様がお持ちください」
「えっ、お客にこういうのを預けるのはよくないんじゃない?…それに、君だって仮にも女性型なんだからさ、君の部屋にも入り放題なのはヤバくないかい?」
「たしかにそうかもしれませんが…ていうかお客様、そういうことしたいわけなんですか?」
「いや、別にその気はないさ。今はね…だとしても、関係性ってのは時が経てば変わるわけだから、さ。今は羊でも、あしたは狼になってるかもしれないんだよ」

自分は自戒のようなものをこめながら、言った。

それを受け止めて、黙して抗議してるようにも、少し切ない気持ちになっているようにも見える、ゆらゆらとした曖昧な表情のまま、彼女は何秒か自分を見据えてきた。そして、

「でも………でも、それ、お客様が持っているべきだと思うんです」

青いマスターキーをリーダらしきものに置くと、やや読み込み時間をおいたあと、やけにかわいらしい音をたてて、はじけるようにディスプレイ上にアイコンが並んだ。
立体映像を使ったタッチ式のインタフェイス。アイコンはディスプレイから浮き出て表示されており、奥行き方向にも三重にアイコンが並ぶ。

よかった、変なインタフェイスのコンピュータだったらどうしようかと思った。

右上にこんな表示が出てはいるが、気にすることはないだろう。

【トークンタイプ:General】
【トークンレベル:Tier4】
【トークン名:TIER4_MASTERKEY_3】
【トークンID:aQ54hV_tu】

デスクトップから、この船の行き先がわかりそうなもの…たとえば航法関係の情報とか、出入港のスケジュールだとか、そういうものが得られそうなものを、目を皿にし、得意満面に浮き出るアイコンをかき分けながら探す。

とりあえずデスクトップのアイコンの中に、ひとつ「航行ステータスディスプレイ」というものがあった。
これでなにか情報を得られれば、一発解決だ。

アイコンをタッチすると、チェックボックスやラジオボタン、スライダーなどの並んだ、立体ディスプレイであることを全く考慮しないような、味気のないウィンドウが出てきた。
そして、フロントの目の前にある大きなアクリルの円筒から、光が放たれはじめた。
自分とメイは、もちろん驚きながら、同じタイミングで円筒のほうを向いた。

円筒はまず全体を白く光らせ、その表面に光のさざなみのようなものを起こす。それが引いてゆくと、その内側に徐々に何かの図形を描画しだした。円筒もまた、立体ディスプレイであるようだった。

二十秒くらいかけながら、円筒はその中に荒削りなポリゴンの小さな船と、水色の水面のようなものを表示させた。

「これって…ディスプレイだったんですね」
メイが口を開いた。
彼女も、これがなんなのか知らなかったらしい。船の接客を行う彼女が知らないということは、長いこと使われていなかったのだろうか。
しかし、この船のために設えられたという機械仕掛けの彼女が、この仕組みを知らない、というのも妙ではあるが。

「これさ、フェリーによくある、船の航行状況をお客さんに見せるシステムみたいなやつじゃないかな。現在位置とか、何ノットで航行してるのか、とかわかるやつ」
「わたしも知識としてはそういうのがあるのは知ってたんですけど、まさかこれがそれ用のディスプレイだったとか…」

続いて、ポリゴンの船の上や周辺に、文字が現れはじめた。
このディスプレイが航行状況の表示用であるなら、出てきた文字情報から、目的地などについてのおおかたはわかるだろう。
じわりじわりと輪郭が整い、判読が可能になるのを待っていたが…

そこに出てきたのは、こっぴどく文字化けした文面だった。
意味の通らない半角カナの羅列。一生に一度使うかどうかわからない複雑な漢字も混じる。ときどき茶々を入れるように絵文字のようなものまで入ってくる始末。
ポリゴン船の周辺だけでなく円筒の上の方にも、電光掲示板のように文字がぐるぐると回りはじめたが、そっちも同じく文字化け、文字化け、文字化け。日本語ではない言語の文字が混じっていて、ますますわからない。

この文字化けをコンピュータ上で修正できないものかと操作を試みるが、権限がないのか、それとも何かが壊れているのか、プログラムを終了する以外にこちらからの操作を受け付けない。チェックボックスもラジオボタンもスライダーも、グレーアウトしたままである。

ポリゴン船は恐らく船の現在位置を示しているだろうから、周囲の地形から推測はできないか。
…しかしまわりは海のような、水色一色の表示。グリッドのようなものもない。そもそもこの立体映像のポリゴン船が動いているのか、どこへ向かっているかもわからない。

「ねえ、そのディスプレイ、どこか触ったら表示変わらないかな」
「ええと、どこ触ればいいです?」
「うーん、どこでもいいかな。適当に触ってみて」
「…こんな感じですか? なにも変わらないですけど」
「あ、ディスプレイに両手をついてみて。肩幅のだいたい二倍くらいの間隔で」
「はい、これでいいですか?」
「うんうん。その状態で、手をつきながら手の間隔を狭めてみて」
「ピンチインですか?…やっぱりなにも」
「だめかー…あとさ、どこかにボタンとかないかな。押せる感じの」
「ボタンですね………見回してみましたがないっぽいです」

「…これはハズレだったね」
「残念です…」
「いや、まだ探してないとこはいっぱいあるから、ね」


その後、一時間ほどこのコンピュータと格闘し、ありとあらゆるプログラムを、ありとあらゆるフォルダを開いて、行き先についての情報を探ろうとした。
しかし、見たい情報にはことごとく鍵がかけられていた。

【Tier4権限では、この領域においてアクセスが下記の通り制限されます】

【制限対象:閲覧含むすべてのアクセス】

このマスターキーは、メイのアクセス権と同じく、権限が相当低いらしい。

「んー、このマスターキーだとやっぱわかんないかなぁ」
「ということは、別のマスターキーだと、ってことですか? お客様に渡したやつでなくて、わたしのマスターキーだといける、ってことは?」
「…望み薄だとは思うけど、やってみる価値はなくもないかな」

フロントを出て、足が止まっているメイから、彼女の黄色いマスターキーを受け取る。

「ありがとう」
「そういえば立ちっぱなしですよね。疲れてないですか?」
フロントには椅子がなかったので、作業してるあいだじゅうずっと立っていたのだった。しかしたかだか一時間くらいだ。
「や、まだそんなに」
「あの、よかったら椅子、持ってきましょうか」
「椅子ならフロントのバックヤードにもあるよ。ていうか、君はそこまでしか近づけないんでしょ?」
「はい…」
「大船に乗ったつもりで、ここはまかせて。ね?」

一度コンピュータをログオフし、マスターキーをメイのものに替えて、再びログイン。

すると…

【次のトークンは、所有者による認証を確認できないため、トークン単独でのログオンを拒否されました】

【トークンタイプ:unknown】
【トークンレベル:Tier3(partial)】
【トークン名:device513】
【トークンID:undefined】
【トークン所有者:41036787】
【ステータスメッセージ:UNAUTHORIZED(FF)】

【トークン所有者より認証コードを取得済みの場合は、下記欄に1024桁の認証コードを入力してください】

「ダメみたい。認証が云々ってログイン拒否られた」
「そうですか…」
「よくわかんないんだけどさ、所有者の認証とかってかいてあるから、本人でないと使えない特殊なカードとかなんじゃないかな」
「そうなんですか? それ、そんな特殊なやつなんですか…」
「どうなんだろ」
「あと、なんか認証コードとかいうのを打ち込めばいけるっぼいんだけど…まさか知らないよね」
「ええ、たぶん…ちなみに何桁くらいあるんですか、それ」
「聞いて驚くな、1024桁」
「わー、やっぱりわかんないです。わたしの管理システム上のIDなんじゃないかと思ったんですけど…」

彼女のマスターキーがまさかのログイン不可だったので、次の手を考える。
念のため、自分の「電子チケット」と他の二つの磁気カードで試してみる。
電子チケットをリーダにかざしても、「ログオン用トークンとして認識できませんでした」。他の二つのカードは、非接触通信用のチップすら入ってないらしく、リーダはうんともすんとも言わない。

そういえば、フロントの後ろにはバックヤードがあった。
「あのさ、バックヤードってフロント要員の詰める場所だよね。なら、もしかするとここに権限の高いマスターキーがあるんじゃないかな。どう?」
別にフロントに入る権限もない彼女に聞く必要もないのだが、なんとなしにメイに聞いてみた。
「ええ、お願いします」

表の高級感のあるインテリアとは異なり、バックヤードはかなり簡素なオフィスという雰囲気で、さえない色をしたスチールのデスクが雁首そろえて並んでいる。

キーボックスのようなものや金庫はないか。あるとしたらまずそういったところにあるはずだ。
見回してみたが、特になさそうだ。

続いて、デスクの引き出しをやや乱暴に開ける。中には書類が詰まっている。書類を引っ張り出して中を探るが、なかなか見つからない。

しかし、自分はその書類に釘付けになってしまった。

あの円筒ディスプレイの文字と同じく、書類に印刷された文字はすべてはなはだしく文字化けしていたのだった。


「どうでした…?」
「結局、なにも」
メイは、なぜか申しわけなさそうな顔をしながら、ゆっくりうなづいた。

「そんな顔しなくていいよ。またあとで詳しく調べてみる。そしたらなにかつかめるかも」
「ええ…そういえば、疲れてませんか?」
「ちょっと、ね。まあ、昼寝すればなんとかなるさ」
「0404号室のシーツ、替えといてますよ。それとも別の部屋で寝てみます? スイートとか」
「いや、さすがにスイートは持て余すよ。ソファでいいわ。あっちに長いソファあったでしょ?」

と、右手で窓際の廊下の向こうへ指そうとすると、自分の右手にさっきの文字化けした書類が一枚握られていることにここで気づいた。

「あの…それ…」
「あ。これね…なんで持ってきたんだろ。これ、どう思う?」
メイに、文字化けだらけの書類を見せてみる。
「なんか、あのディスプレイの文字みたいですよね。意味の通らない文字の羅列…」
「こういうの、知ってるかもしんないけど…『文字化け』って言うんだ。もともと意味のある文字列だったのに、データのどこかが欠けたり、ハードとかソフトがうまいことデータを変換できなかったりすると起こるんだ」
「じゃあこの文書も、あのディスプレイの文字列も、もともとは意味の通る文章だったってこと、なんですかね」
「だと思いたいんだけどね…なんかさ、世の中、システマティックに動いてるようでも、よくわかんないことで理不尽な状況になること、あるからね…」
「はあ」
「ちなみにこれ、解読は…」
「できないですね…残念ですが」

規則性が感じられない部屋番号。
文字化けだらけで判読不可の書類。
記憶をほぼなくした自分。
大事な情報にアクセスできない、機械仕掛けのメイド。
やっぱりなんだか、たちの悪いホラーのようだ。

実際その状況のなかにいても、恐怖は感じないけれど。

そして、自分はあるホラーのいちシーンを思い出していた。

「なんかこの書類見てたら、『シャイニング』思い出しちゃった」
「シャイニング、ですか。それはいったい…」
「『シャイニング』ってホラー映画があるの。作家を目指す男がね、カミさんや息子と一緒に、冬に閉鎖して陸の孤島になるホテルに、その間の管理人として寝泊まりして、その間に小説を書き上げよう、って奮起するんだけど、そのうち心を病んでしまって、その上ホテルの持つ狂気に付け入られて、家族に襲いかかる、って話なんだけど…」
「ええ」
「その男のカミさんがね、『仕事ばかりで遊ばないジャックは今に気が狂う』っていう文を敷き詰めた、旦那の原稿用紙を山ほど見つけるシーンがあってね」
「へえ…」
そんな会話をしながら、窓際の廊下のわりと奥にある長めのソファに、自分たちは腰を下ろす。
「なんかそこがさぁ、めちゃくちゃ怖かったのよ。ただただその文章で紙を埋め尽くしてるだけでなくて、行間を変えてみたり、なにかの形に見えるように整列させたり。原稿の束をいくら繰っても、その文章で埋められたやつばかりでさ…」
「はあ」
「『シャイニング』、いつ頃どこで観たのかとか全く覚えてないんだけど、初めて観たときそのシーンでめちゃめちゃ震えたってのだけは覚えてるのよ」
メイは、ぽかんとした表情で、姿勢を変えることなく、自分の顔を見つめていた。
「……なるほど」
「やっぱり、こういう怖さって、メイにはわかんない、かな」
「それが、怖い、と思えるかはよくわからないんですけど、意味の通らない文字の羅列とか、定型文の繰り返しとかで思い出したことが、わたしにもありまして」
「ほう」

「実はわたしにも、怖いことがひとつあって」

メイは機械仕掛けではあったが、恐怖は感じるらしい。
意外だ。自分は思わず目を見張った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

手打ちのログも今日で二日目。
まさか、今日も書くことになるとは思わなかった。

わたしにも、怖いことがひとつある。

わたしの記憶と記録は、七日ごとのリブート前に、データを保管する「倉庫」に送られる。
倉庫にデータを送る前や送るとき、どのようなプロセスがわたしの中で実行されているのか、わたしにはわからない。

しかし、きまってそのとき、わたしは夢のようなものを見る。
わたしに備わっている「心のようなもの」と人間の心とは、おそらくずいぶん違ったものだと思う。だからそれが本当に「夢」なのかはわからない。

しかも、夢というより、悪夢に近い。

わたしの中にある「人間」の知識の中には、簡単ではあるけれど、「人間は、睡眠しているときに、実際に起こっているわけではない出来事を脳内で感覚することがある。これを『夢』という」みたいな情報が含まれている。
わたしが「悪夢的なもの」を見ているときが睡眠に相当するのかというと自信はない。だが、「実際に起こったわけではない出来事の感覚」という意味では、たぶん、おそらく、「夢」と似通っているのかもしれない。

だいたいが、まるで理解できず、意味をなさず、脈絡がなく、ただただわたしを驚きおののかせ、けばけばしい迷宮に蹴り落とすようなものだ。
なにか「心のようなもの」があるような気がしていても、基本的には計算機の頭脳をもつわたしだから、理路整然を180度回転させたようなこういう悪い幻想にいつまでもいるのは、たえられない。

その「悪夢的なもの」は、どうしたことか…というか幸か不幸かと言うべきか、わたしの記憶にも記録にも、明確に残らない。

基本、わたしの主観的な記憶と、わたしが意識せざるところでとられている記録は、すべてわたしのストレージの中に書き込まれている。
詳細を抜き出すには多少面倒な手段をとらなければならないとはいえ、ストレージの中にあるうち…つまり最大七日分は…自分でも過去の時間軸にさかのぼって、詳細を確認することができる。
しかし、「悪夢的なもの」だけは、なぜか違う。ストレージをさかのぼっても、もう一度見ることができない(そもそも、もう一度見たいとは思わないんだけど)。記憶の存在自体、ストレージ内に確認できない。もちろん、記録的にもなかったことになっている。
わたしは、「憶えている」というのに。

そしてこの「悪夢的なもの」は、儚い。
儚い、といってしまうと、いいもののように見えてしまうけれど。
きのう見た「悪夢的なもの」も、もうおぼろげにしか「憶えて」いない。

ただし。
繰り返し繰り返し見てしまう「悪夢的なもの」も、ひとつだけある。抽象的なビジョンを伴って、感情とその流れだけはやけに具体的なシナリオ。
さっき書いたようなでたらめな悪夢の中に、突然この悪夢が挿入されることが多い。

たいてい、わたしは広い広い海にひとりぼっちでとりのこされている。
誰にとりのこされたかはわからないが、とにかく海にひとり。
目の前を、なにかが横切る。
そのなにかは、距離をとりたがらわたしのまわりを回る。冷徹に、まるで品定めをするように。
つぎに、わたしは直感する。
わたしはとりのこされたのではない。〈あれによってほかのみんなを奪われた〉のだ、と。
〈まもれなかった〉のだ…と。

そのつぎの展開は、いろいろある。でもいっぱいありすぎて覚えてない。つぎででたらめになるのが多いが、とりとめて覚えているのでは、

「誰かがわたしの肩に手を置き、目覚める」

「そのなにかが襲いかかってくるが、なにかはわたしと同じ顔をしている」

「なにかに飲み込まれ闇に包まれる。その中で光を遠くに見つけるが、光に駆け寄ろうとしても足がゆっくりとしか動かない」

というパターン。

いつもでたらめなのも怖い。けれど、いつも同じ流れになるのもまた違う意味で怖い。
なにしろ、この「悪夢的なもの」の中ではなにもできないのだから。

なぜ、こんなものを見せられるんだろう。
わたしはもっと、静かに暮らしたい。
退屈なのはごめんだけど。

とはいえ。
わたしの目の前に「お客様」が現れたことで、希望が持てるような気がしてきた。

退屈な生活に変化が出そう。

…というだけではない。

きのう、わたしは悔しかった。
root事件以来ひさびさに味わった、悔しいという感情。

(いや、そもそも感情と呼べるものがわたしにあるのだろうか。まだ疑いは拭えない)

わたしは、たぶんろくにこの世界に関与できない。
きのう悔しかったのは、あの人になにも出来なさそうだ、というのもあるけれど、そういうのもある。

そんな悔しさを、あの人は受け止めてくれた。
悔しいでしょう、と言ってくれた。
わたしは、求められたものを与えられなかったのに。
わたしは、わたし自身でなにもつかめそうにないのに。

客観的に見たら大したことはないのかもしれないけれど、なんのためにこの世界にいるのかよくわからなかったわたしに、「ここにいても大丈夫」、と言ってくれたような、そんな気持ちになっていた。

それで、わたしは妙に感激した。
ただ、これが、人間がするという「恋」という特別な感情と似てるのか、というと違う。
甘え、とも、依存、とも、違う。
わたしとあの人とは、同じ目的を共有している。
わたしが手にしたかったものを、あの人が手にしたいものを、一緒なら手に入れられるのかもしれない。

…とかいいながらも、あの人を道具のように使ってしまってる感はあるから、ちょっと気は引けるけれど。

ともあれ、こんなふうに、先に明るいものが待っているような、それでいてここちのいい感覚は、おそらくはじめてだ。

…そうだ。

はじめてというと、こんなことがあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「機械も、夢を見るんだな…」
「いや、夢なのかはわからないですし、悪夢に限りなく近くはありますけど」
「あ、ごめん」
「えっ、どうかされました?」
「…いや、君のこと、機械だからってバカにしてたみたいな感じだったかなぁ、って」

自分は知らず知らずのうちに、メイのことを下に見ていたのかもしれない。
いや、下に見ていたのだろう。
けれど、状況が限定されるとはいえ、夢を見るということは、ほぼ人間と思ってもいいのかもしれない。
根拠のない直感だが、そう思った。

「そんなことないです。わたしだって機械であることはわきまえてるつもりです」
「そんなこと、言わなくてもいいよ」
「ありがとうございます…あ、」
「どうした?」
「これから、お昼寝されるんですよね。邪魔になったらアレなんで、わたしはこれで」
「ありがとう…」

ソファーに寝転がろうとしたところで、思いついたことが。
「あ、ちょっと待って」
「はい。どうかされましたか?」
「そこにあるシアターってさ、たしか映画も観れたよね」
「ええ。よろしければ映画の準備をいたしますが、お昼寝はどうされます? 起きられましたらすぐ観られるようにいたしましょうか」

たしかに疲れてはいるが、眠いのかというとそうでもない。それに、
「案外、映画館で寝ちゃうほうなんだよね」

船尾にあるシアターは、小さな映画館くらいのサイズはあり、船内施設としては大きなものだった。
きのう案内してもらったときには、ショーやコンサートにも使える多目的型、と聞かされていた。たしかにステージの脇には、漆黒のグランドピアノやドラム、譜面台などが息を潜めるようにチラ見えしている。
そのときにも気になっていたが、シートこそ座り心地のよさそうなものがおごられているものの、その内装は妙にシンプル、というか質素に感じられた。全体のトーンは暗いグレーで、なんとなくシアターというよりスタジオのような雰囲気もする。

ひとまず自分はスクリーンの見えやすい、真ん中くらいの列の「特等席」に腰掛けた。
そばに立っているメイに訊いた。
「乗客向けのショーとかもできるんでしょ? なんか殺風景だよね」
「ですね…」

と、彼女がまたフリーズしたような挙動を五秒ほどしたのち、
「あ、いまシアターのシステムに入ってみたんですけど、こんなことができるみたいですね」
そう言った次の瞬間、周りが突然暗くなって、内装がオペラハウスのような荘厳なものになった。
「なるほど。立体映像かなにか?」
「みたいです。この内装で見ますか?」
「なんかこれ、映画観るって感じじゃないなぁ」
「では、これは…」
再びシアターが暗くなり、シックでやや古めな内装の、映画館のような見た目に変化した。
「これでいいんじゃないかな」
「かしこまりました。ちなみに先ほど船内の映像配信サーバのライブラリから『シャイニング』を見つけたんですが…再生するのは『シャイニング』でよろしいですか?」
「うぅん、今は『シャイニング』って気分じゃないな……で、船内配信用のソフトってどんなのがあるのかな」
「こんな感じですね」
と、彼女が差し出した両手に、立体映像でタブレットのようなものが生成され、そこに映画の一覧が表示された。
こんなこともできるのか、と驚きつつ、映画を探す。

「何となくなんだけど、『エターナル・サンシャイン』を見せたいなー、って思ったんだよね…」
「見せたい?」
「いやさ…このあと忙しくなかったら、一緒に観れたらいいなー、とか思ったんだけど」
「一緒に、ってわたしとですか?」

いやいや。君以外、いないじゃないか。

「…だめだった?」
「いえ、わたしならほぼ24時間稼働できますし、仕事も少ないから基本忙しいとかないですし、あと今やらなければならない仕事も特にないです…お付き合いさせていただきます」
「いやいや、そんなかしこまらなくてもいいよ」
「でも、わたしでいいんですか? あとで感想とか求められても、人間ではないんでそっけない話しかできないと思うんです」
「…だいじょぶ。だいじょぶだから」

ただ、残念ながら、彼女に見せたかった「エターナル・サンシャイン」は船内配信サーバにはなかった。
ややきわどいシーンが大丈夫なら「ダークシティ」でもいいか、と思ったが、それもなかった。
ならばと思い、「ブレードランナー」を探してみたら、やっぱりというかあった。

だが…「ブレードランナー」の上映をはじめてもらってからから思い出した。

この映画、知性を持った人型の機械に見せるには、悲しすぎるのではないか。
だって、短命な人造人間の話だぞ。
しかもディレクターズカットだ。デッカードとレイチェルが車で森の中を走ってゆく、ハッピーエンドっぽいラストシーンのないやつだ。
たとい機械でも、メイにはそんな悲しさや切なさを負ったり悟ったりしてほしくなかった。

一旦止めて作品を変えてもらおうと思って、コワルスキーがホールデンを銃撃するあたりで、左に座っている彼女のほうを向いた。

彼女は身じろぎもせず、ホールデンが壁を突き破る場面に見入っていた。

まるで人形のような、確かなゆらぎのなさ。

しかし、なんというか、それゆえに、暗がりの中での彼女を、妙に美しく感じた。

その大きな瞳は、透きとおったガラスのように、輪郭にみずみずしい光を湛えている。
薄暗く澄んだ空気のなかに浮かび上がる、触ればこちらの手が切れてしまうのではないかと思うような、均整のとれた顔立ち。
真一文字に閉ざされている唇が、つややかに光の明暗を吸い込んでいる。
ゆるやかな曲線を描きながら、髪の毛の一本一本がかすかな光にきらめく、ポニーテール。

シアターのそれなりに大きな音響のなかなのに、彼女だけが、美しい静謐を具現化したかのように、静かにたたずんでいた。
声をかけることもばかられる。
いや、そんなことをするのがおこがましい、と思わされるくらい。

しかし、それは作られた美しさ、人にとって都合のいい美しさ、なのかもしれなかった。
その美しさが…いや、美しいとかどうとかは関係なく、彼女が…人の慰みのためだけに作られたのだとしたら。
そして、にもかかわらず、我々と同じく自我をもちあわせているのだとしたら。

ならば、我々人間はあまりにも罪作りだ。

人間の気まぐれに付き合ってくれる、人の心すらも持った機械。あまつさえ、それは人の理想を模しているようである。
気が引ける。人間代表として気が引ける。
では、そんな彼女に、自分はどう接するべきなのか。

ぴくりとも動かず前を見据える彼女に、外見上のゆらぎは感じられない。

だが、その内にはあるのだ。揺らめいている感情が。
その、人のイデアをかたどる器には、おそらく信頼できる不確かさが込められている。

それは人の慰みのたしにするために、中途半端に作られたものではなく、彼女のためだけに用意されたものだ。

彼女は、誰のものでもない。誰のために作られたわけではない。
彼女は彼女だ。
確固たる自我があろうがなかろうが、メイは我々と同じく、独立した個人なのだ。

これをただの主観、思いこみと言いたいなら言えばいい。
そう信じ、尊重することが、彼女と接するにあたって、いちばん真摯なことなのだろう。そう思ったから、実践するまでだ。


「…どうかされましたか?」
メイが、声をひそめて話しかけてきた。
そういえば、自分はメイのことをガン見したままだった。

「い、いや…別に…」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この船のシアターで、映画が上映できること自体は知っていた。
ただ、わたし自身、映画を見ることにそこまでの価値は感じなかったし、求められているであろう役割から考えても、わたしがひとりで映画を見るのはあまり意味がないのではないか、と思っていた。

「お客様」が映画を一緒に見たい、いや、わたしに「見せたい」と提案してきたときには、少し面食らった。
わたしは、たしかに感情のような、心のようなものものを持っている。
でもそれは、たぶん本物ではない。
わたしが「作り物」である以上、この不確かな意識のゆらぎというかむらのようなものも、「作り物」にすぎないんじゃないか…と、思っていた。
だから、映画なんて見せられても、わたしにそこまでの意味があるのか、よくわからなかった。
たぶん、即物的な感想しか言えない。
とはいえ、お客様にとっては、だれかと一緒に映画を見る、ということにたぶん意味があるのだ。

そう思って、わたしはお客様と映画を見るのにつきあうことにした。
もちろんだけど、こんなことははじめてだ。

「ブレードランナー」という映画だった。
作り手に反抗した短命な人造人間の男女と、それを追う刑事と、その刑事と関係を持った、自らが人造人間であることを知らない女との物語。

正直、自分にこういった物語を解するほどの感情や情緒というものがあるかはわからない。
だから、ここでも下手な感想は書かない。

ただ、たしかにいえるのは、最後、人造人間の男が雨の中で刑事に思いを告げ、その「生涯」をまっとうしたとき…その手から飛びたった鳩が青空へ飛んでいったとき…「わたしに涙を流す機能があれば」、と猛烈に感じたことだった。

涙が出るかどうかなんて、些細なことなのかもしれない。
でも、わたしは流したかったのだ。涙を。

あの人がこの映画を「見せたい」と思った理由も、なんとなくわかった。
ただの推測にはなるが、わたしに芽生えた感情とか心とかそういう感じのものは、けっしてただの作り物ではない、と、あの人はこの映画を見せることを通じて伝えたかったのではないか。

だとしたら失礼なのかもしれないけれど、わたしはそれでも、わたしのなかの心のゆらぎや感情について、それが本当にあるものなのか、疑うことをやめない。
自分の心のようなもの、感情のようなもの、そしてそれに対するもやもやした感覚には、わたしが機能しつづけるかぎり、向き合いつづけていかなければならないと思っている。

しかし、それはわたしのなかの心や感情、というかそれらを模したものが、なければいい、と思っているわけではないし、厄介だと思っているわけでもない。

わたしの感情や心が本物なのか、それは人間からすると、わたしに涙が流せるかというのと同じくらい、些細なことなのかもしれない。

でも。

わたしのとなりで、同じほうをむいて、同じものを見てくれる人がいる。そしてその人は、わたしの心や感情を、信じてくれているように見える。
それだけで、心強い。

…まあ、その人は映画の上映時間の半分くらいで寝てしまったのだけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?