花は咲かないが、咲く。
自分を含め、多くの人が、決して咲くことのない花を咲かせようと、もがくようにして生きている。
もちろん誰もがその気になれば心の中に花を咲かせることはできるのであるから、たいして悲観するようなことじゃない。
とはいえ、空模様が暗ければ気持ちも沈む。
そんな日に、どうせ今日も行列だろうとダメ元で通りかかったラーメン屋さんに、奇跡的に空席があったので、思わず吸い込まれてしまった。
ここの若き店主の先代は良くも悪くもテキトーなラーメンの作り方をする人であった。
そのテキトーな先代にはさらに先代がおり、さらに遡ればこの店のルーツはドラマチックで、小説になっていたりもするのだが、ここでは書かない。
今の若き気鋭の店主のその先代にあたるおっちゃんは、そうした伝統の味を実にテキトーに再現するおっちゃんであった。
何しろ、できもしないのに平ざるで、しかも片手で麺上げをし、湯切りをする。
ギャラリーである我々に飛び散ってくるお湯のなんと熱いことよ。
そして平ざるにはそんなにきれいに麺がまとまっているわけではない。むなしくダラリと垂れ下がっているときもある。そうした麺を、彼はこともなさげに手でしれっと掬い上げてざるに帰してあげるのであった。
このような過程を経て麺は丼に投入される。すかさずおばちゃんが具を盛り付ける。
もちろん高級食材なんて使ってない。
それでこそラーメンだ。
隣の人が頼んだワンタン麺のワンタンの切れ端が僕の丼に紛れ込んでいる嬉しいサプライズがあることなど、日常茶飯事であった。
そうして提供されたラーメンが、世の中にこんな奇跡があるのかと思うほどに旨いのだ。
あるときを境に、具を盛り付けていたおばちゃんがいなくなってしまった。ある夜に、銭湯から出てきたときに倒れ、そのまま眠るように亡くなったとのことであった。
ひとり残された、雑な仕事のおっちゃんも日に日に身体がちいさくなり、やがて引退した。
その後しばしの時間を置いたあと、さまざまな経緯を経て、若くて恰幅のよい気鋭のあんちゃんが、同じ場所に、同じ形のまま、この店を再生させてくれたのであった。
あんちゃんの仕事ぶりは実に丁寧であった。笑顔も絶やさない。接客も泣けてくるほどに素晴らしい。
でも僕には一つだけ危惧心があった。
若くて丁寧な彼が、この店の味を洗練させ過ぎてしまうのではないかと。
完全なる杞憂であった。
このあんちゃんは、丁寧、繊細という要素と、テキトーという要素を見事に融合して見せたのである。
世の中にそんな芸当のできる人間がいることが驚きだ。
こうしてこの店は、昔から通う年輩の常連客が一切離れることもなく、むしろ行列が絶えないハードルの高い店となったのであった。
例えば、先代とは違って仕事が丁寧な彼が、それでもなお先代の跡を立派に受け継いでいる証左がある。
湯切りの時に飛び散ってすっ飛んでくる、
あっちいお湯である。
あちいよ!
でも、旨いよ!旨いよあんちゃん。
ありがとう。
ひまわりのような笑顔の若きあんちゃん。
そう思いながら彼の手元を見ると、
平ざるには見事に麺がまとまっているのであった。
あんた、ほんとに器用だなあ(笑)
でも僕にはわかる。
この奇跡的なひまわりのようなあんちゃんの原動力が。
それはおそらく、先人の作り出した味であり、それをなんとしても受け継ぎたいという熱意だろう。
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