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紅茶(チャーイ)とコーヒー

 今日の老舗のガフヴェハーネで提供される紅茶(チャーイ)は、ロシア式に入れたものだ。サマーヴァル(サモワールの転訛)と呼ばれるタンク状の湯沸かしの上に紅茶の入ったポットを置いて蒸気で煮詰め、客にはグラスに煮詰まった紅茶をタンクの湯で割って提供する。グラスはインドのチャイグラスほどの大きさで、陶器のソーサーにのせて提供される。頼む際に、薄いチャーイが欲しければキャム・ランギー(「薄い色」の意)と、濃いチャーイが欲しければポル・ランギー(「濃い色」の意)というと濃さを調節してもらえる。

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 卓上の入れ物やソーサーに添えられたガンドと呼ばれる「角砂糖」を口先に咥えながら飲んだり、あるいは軽くガンドを紅茶に浸して口に含みながら飲む。「角砂糖」といったが、正確には砂糖を液状にして、冷却して固めたのち、遠心分離機にかけて作られるシュガー・ケーンを砕いたものだ。高齢者のなかには、紅茶を一度グラスからナルベキーと呼ばれるソーサーに移しかえ、冷ましてから飲むという人もいる。ナルベキーがイランで一般的になったのは、20世紀後半のことであり、このことについても前回紹介した『中東・イスラーム世界への30の扉』のなかで椿原が詳しく話している。

 本題に戻せば、チャーイがコーヒーハウスを意味するガフヴェハーネでも提供されるようになったのは19世紀後半以降のことであり、イラン社会での茶の消費の拡大と深く結びついている。茶そのものは、11世紀にアブー・ライハーン・ビールーニーの書のなかにも、中国で飲用されていることが記述されているように、知識としてはコーヒーよりも古い。加えて、一説にはモンゴルの侵攻とともにペルシア・イラン世界に茶が到来した、あるいはサファヴィー朝期にもコーヒーに先行して茶が到来したというように、到来についてもコーヒーよりも古い。また同朝の北東部、つまりは中央アジアに近い地域では、茶の飲用がコーヒーよりも一般的であったともいわれている。中国式の茶房もあったとも伝えられている。

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 とはいえ、サファヴィー朝期にはコーヒーが一般的な飲料としての地位を得ただけでなく、同朝崩壊後のペルシア・イラン世界の混乱のなかで、コーヒーの飲用とともに茶の飲用についてもすっかりと下火になってしまった。ガージャール朝が成立した後、19世紀にある程度社会の安定が復活すると、コーヒーの飲用とともに茶の飲用も並列して進んでいったことが、ヨーロッパ人の旅行記などからうかがい知れる。サマーヴァルがイランに紹介されたのは19世紀半ばと言われている。ガージャール朝の改革派宰相として知られるアミーレ・キャビールも、フランス政府やロシア商人からサマーヴァルを送られたようだ。やがて19世紀後半になると、茶の消費はコーヒーを凌駕するようになった。

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 当時の茶の多くは、インドやセイロンから輸出されていた。1875年以降、カスピ海沿岸部のギーラーン地方で栽培が開始されたものの、成功はしなかった。当時のインド領事モハンマド・ミールザー・カーシェフル・サルタナが、インドからアッサム・ティーの種を密かに持ちかえって栽培に成功して以来、栽培が徐々に進んでいった。とはいえ、茶の栽培が本格化するのは、1925年に成立したパフラヴィー朝に入ってからである。近代化政策の一環として、中国から技術指導員を招いたり、インドやセイロンに技術獲得のために留学をさせたりといった政策によって進んでいった。

(つづく)

参照文献
Balland, Daniel and Bazin, Marcel 1990. “ČĀY” Encyclopædia Iranica (https://iranicaonline.org/articles/cay-tea)
Matthee, Rudolph P. 1996. “From Coffee to Tea: Shifting Patterns of Consumption in Qajar Iran.” Journal of World History 7(2): 199-230.

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