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コラム-2. エホバの証人の輸血拒否、本当に聖書で求められていること?

2個目のお題は
”エホバの証人の輸血拒否、本当に聖書で求められていること?”
エホバの証人の名前を一気に広めた輸血問題を考えてみたいと思います。
エホバの証人ではない方も1985年に起こった大ちゃん事件についてはご存じの方も多いでしょう。事故で輸血が必要な我が子に対し信仰の理由から輸血を拒否して助からなかった話です。(詳細は検索すればいくらでも出てくるので割愛)
エホバの証人は輸血拒否についても聖書に基づいた解釈としていますがそれがどのような内容なのか、エホバの証人の資料を用いて批判したいと思います。

1-1.輸血についてエホバの証人が教えていること


JW.ORGサイトの聖書の教え>聖書Q&Aにて

 上記によるとエホバの証人は聖書から血を摂取すべきでない解釈しているようですがその理由として創世記9:4、レビ記17:14、使徒15:20の3つの聖句をあげていますね。聖句の内容は後でお話しするとして、エホバの証人は"血を食べてはならない""血を避けなさい"という文言から輸血を拒否しているようです。輸血という治療法がない時代において"食べる"と"注射で体内に入れる"ということはどう結び付けているのかエホバの証人の書籍である「聖書は実際何を教えていますか」という資料も見てみましょう。


JW.ORGサイト、「聖書は実際に何を教えていますか」より13章-13

 上記の例えのように”血を食べてはならない"は輸血も含んでいるということを教えています。

 果たして本当にそうなのか、一つ目の疑問を聖句からも考察したいと思います。
疑問1. 聖書に書かれている”血を食べてはならない"は輸血も含んでいると考えてよいのか


1-2.聖書に書かれていること+私の考察

(考察は私の一意見であり正しい解釈がこれだという意図はありません)

まずエホバの証人のQ&Aにもあった聖句がどのようなものか確認しましょう。

 聖句を確認してもエホバの証人の資料にあるように確かに血を食べてはならない(避けるよう)と書かれています。しかし、この時代に輸血なる治療法は確立されていませんので、輸血に対して当てはめてよいのかはどう解釈するかに頼らざるを得ないことを頭に置いておくべきです。

 輸血に当てはめるべきかについてエホバの証人の資料で出した例えがありましたね。「医師がアルコール飲料を避けるようにと指示したならば、アルコールを飲んではいけないが血管に注射することは構わない、とはならないため、血を避けるという指示はどんな形であれ血を体内に入れてはならないということ」としています。

 なかなか良い例えですね。。思わず納得しかけるところと思いますが、ではこちらからも例えを出しましょう。「医師がコウモリの肉を避けるように指示しました。そこには肺を犯すウイルスが潜んでいて病気になるからです。ではそのウイルスが微量に入ったワクチンを注射することは構わないでしょうか」 

 この例えで考えるといかがでしょう、注射することに何の問題もないと思います。そうなるとどちらが正しいのかよくわからなくなってきますね。
"血を食べてはいけない(避けなさい)"ということは輸血を含むのか含まないのか、

私はこのどちらも正しいと考察します。
なぜなら結局は輸血という治療法がない時代に言及された内容であり、いくら例え話でもっともらしい話を並べたところで言葉遊びに過ぎず、どちらも拡大解釈に他ならないからです。そのような聖書で言及しきれていない内容は個人と聖書とで向き合い、何が正しい選択とするか考えるべきことです。他の人が「これが正しい選択だ」なんて強制すべきことではないと考えます。

なので"血を食べてはいけない(避けなさい)"という聖書の言葉が輸血を含むか含まないかは個人で決定すべき内容であり組織から解釈を強制されるようなものではないと考察します。

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 そもそも、エホバの証人はなぜ"血を食べてはいけない"というこの決まりを輸血に当てはめ、頑なに守っているのでしょうか。この決まりはモーセの律法から来ており、血を食べてはならないと書かれているレビ記にはほかにも食べてはいけないものをあげていて、そこには豚も含まれます。エホバの証人は豚を食べることは特に禁止されていません。この違いはなんなのでしょうか。

次にこの疑問を考えたいと思います。
疑問2. そもそもこのモーセの律法は今でも有効なのか。

2-1.モーセの律法についてエホバの証人が教えていること

 エホバの証人がモーセの律法をどのように考えているのかを見てみましょう。

JW.ORG ものみの塔(研究用)2003年3月15日

上記からもわかるようにモーセの律法は一時的な取り決めとして意図されたものであると解釈し、現在ではモーセの律法の元にはいないことを述べています。これは他のキリスト教系でも同じような解釈が見受けられます。モーセの律法で求められている項目は他にも色々ありますがイエスキリストの贖罪をもってキリストの律法に置いて変わりました。

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 となると疑問2.のそもそもこのモーセの律法は今でも有効なのか。に対してエホバの証人も有効ではないと考えているならば、なぜ血を食べてはならないというモーセの律法をこんなにも頑なに守るのか不思議ですね。最初のエホバの証人が輸血拒否に上げた3つの聖句を振り返りましょう。

創世記9:4、レビ記17:14、使徒15:20
この3つでしたが創世記の聖句はノアに対して出されたものでそれがモーセの律法に引用されレビ記で記されることとなりました。ということは、この2つの聖句はモーセの律法であり有効ではないとすると、使徒15:20の"血を避けなさい"という聖句、これが論点になりそうですね。次の疑問を考えたいと思います。

疑問3. 使徒15:20の"血を避けなさい"はモーセの律法からなぜ特別視されているのか。

3-1.使徒15:20についてエホバの証人が教えていること


JW.ORGサイト、「聖書は実際に何を教えていますか」より13章-12

 1世紀にクリスチャンによって会合が開かれ、その中で血を避けているべきという決定が下されたため、守り行うべきとの解釈が書かれていますね。
確かにモーセの律法が有効でないからと言ってそのあとにクリスチャンの会合で決められた事と聖書に書かれているならば守るべきだという主張は一理あります。
ではここで疑問3の使徒15:20の"血を避けなさい"はモーセの律法からなぜ特別視されているのか。について聖句から考えたいですがこれは1つの聖句を取り上げるだけでは文脈が理解できないので使徒15章全体を見る必要があります。

3-2.聖書に書かれていること+私の考察

(考察は私の一意見であり正しい解釈がこれだという意図はありません)

使徒15:20で血を避けなさいと書くまでに至った経緯を使徒15:1~19で確認してみましょう。


聖書 新世界訳 使徒15章

 かいつまんで説明するとイエスキリストの贖罪によりユダヤ人のみ得られるとされていた救いが異邦人に対しても救いが得られるようになり、異国で信者となる人増えたことに対して、一部のユダヤ人がモーセの律法である割礼を受けないと救われないと言い出したことがこの会合の発端でした。

そこでモーセの律法について色々話し合いがされたようですが、7~11節でペテロは、「なんでそんな先祖も私たちも守り切れなかったモーセの律法を異邦人に押し付けて神を試すんだ」と言って一同を黙らせるシーンが描かれています。そのあとに血を避けるようにと決定し手紙に書くことを決めます。

どこか変に思いませんか?
「なんでモーセの律法を押し付けるんだ」といったペテロが血を食べてはいけないというモーセの律法を再度持ち出して手紙に書き加えるというのは矛盾を感じます。

しかしその理由は21節に書かれています。モーセの書を安息日に教える人がどの町にもいたからです。

さあこの前後関係の文脈をみてあなたは20節の"血を避けなさい"をどのように解釈しますか。

1世紀のクリスチャンがモーセの律法の中でも特別守らないといけないから会合で"血を避けなさい"と決定したと解釈しますか。
それともモーセの律法は有効でないが各地にモーセの書を教える人がいて、19節にある異国の人々を煩わさないため、信仰のつまづきとさせないために会合で"血を避けなさい"と決定したと解釈しますか。

疑問3の、使徒15:20の"血を避けなさい"はモーセの律法からなぜ特別視されているのか、について、
確かに"血を避けなさい"と明記されていますが前後の文脈を読むと血を避けなさいということを特別視して守らなければいけないから書かれたわけではなく異国の人のつまづきを排除したく決めれられたと考察しますが、、結局はその決定に至った状況証拠しかなく、解釈という名の推測の域を出ません。
拡大解釈すれば血を避けなさいというのはモーセの律法のなかでも特別だから言及されているのであって、守らなければいけないという解釈もできてしまいます。

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 色々とエホバの証人の資料や聖句をあげて考察してみましたが、輸血拒否について聖書的かというお題に対して、今のところ明確に聖書的ではないと断言はできていませんが、拡大解釈であることは間違いないので各々の信仰にしたがって個人で結論を出すべきです。間違っても組織(他人)に強制されるような内容ではありません。

では大ちゃん事件のような信仰について判断力のない子供に対してどうするのが適切なのでしょう。急な事故で意識がなく輸血が生死を分けるような状況です。
もちろんエホバの証人も愛ある選択をしたいと思っています。
しかしエホバの証人にとってはたとえ死んだとしても輸血するくらいなら輸血しない選択をして、楽園で復活し永遠の命を手にすることが愛ある選択と信じています。

本当にそうでしょうか。

最後にこの疑問を考えて終わりにしたいと思います。
疑問4. 我が子(他人)に対しての輸血拒否の強制、本当に愛ある選択か。

私が"何が愛ある選択か"なんて述べたところで一感想に過ぎないため、ここは聖書から述べたいと思います。そこから読者がどう感じるかを各々個人で考えてほしいです。

以下はルカの14:1~6です。

聖書 新世界訳 ルカ14:1~6

 この聖句はイエスが律法学者の家で食事をされている際に安息日であるにも関わらず病気を癒されたという状況です。
律法学者達はモーセの律法、その中でも十戒にもある”安息日を守る"かどうかを見ていました。守って助けないか、守らないで助けるのか試していたのです。イエスは安息日を守らず仕事をして助けられました。
とても愛ある行動だと思います。律法を守るか守らないかばかりで判断していた律法学者はとてもいやらしいと思います。

これを"血を食べてはいけない"に置き換えてみれば何が愛ある選択か見えてくるのではないでしょうか。置き換えることはおかしいと考えるかもしれませんが、どちらも同じモーセの律法であり、安息日を守るという決まりは十戒にもあって守らなければ死罪にもあたる重いものです。そして血を避けなさいと会合で決まる以前の話です。5節を引用し、言葉を置き換えますが、

「あなたは息子の出血がひどく輸血の有無が生死を分けるとき、血を食べさせてはいけないからと言って助かる命を助けないという人がいるでしょうか」

愛ある選択が何か考える一資料となれば幸いです。

私は生死を分かつ状況で輸血を受けさせることは愛ある行動だと考えます。
なぜならその後生きて成長し、自分で考え判断できるようになってから自分自身の信仰にそって選択すればいいと考えるからです。


4.考察まとめ

(考察は私の一意見であり正しい解釈がこれだという意図はありません)

疑問1. 聖書に書かれている”血を食べてはならない"は輸血も含んでいると考えてよいのか
"血を食べてはいけない(避けなさい)"という聖書の言葉が輸血を含むか含まないかは個人で決定すべき内容

疑問2. そもそもこのモーセの律法は今でも有効なのか。
→無効。そのためエホバの証人の輸血拒否の理由の聖句である創世記9:4、レビ記17:14、使徒15:20のうち創世記とレビ記の聖句はそもそも無効

疑問3. 使徒15:20の"血を避けなさい"はモーセの律法からなぜ特別視されているのか。
→前後の文脈から異邦人の信仰のつまづきを排除するために書かれたと考察できるが、推測の域は出ず、真意をどこに置くかは個人による

疑問4. 我が子(他人)に対しての輸血拒否の強制、本当に愛ある選択か。
ルカの14:1~6を読んでみて個人で考えてみてください。
 私は輸血を受けさせることは愛ある選択と考えます。

お題:”エホバの証人の輸血拒否、本当に聖書で求められていること?”

結論:輸血拒否が求められているというのは拡大解釈であり、聖書は輸血について述べられていないため個人で判断すべきこと。しかし信仰の判断力がない子供に対して輸血拒否を強制するのは間違い。

5. 2世の子供を持つエホバの証人1世へのお願い

 最終的に個人の解釈・判断に依るという結論としつつ、輸血拒否は聖書的ではないという匂いを滲ませ記事を書きましたが、私はその人が輸血拒否が聖書的に正しいと判断されるのであれば、それは信仰の自由ですし尊重されるべきと思います。しかし子供や周りの人に強制するのは許されるものではないと考えてます。
 おそらく組織(ものみの塔)は強制という言葉は使わず、輸血拒否という圧力をかけてくることでしょう。周りの信者達は輸血拒否を守るかどうかで信仰を天秤にかけてくることでしょう。これらはまんま律法学者のパリサイ人がイエスを試していた状況と一緒です。


今一度下記を自問自答願います。

  • 輸血拒否はあなたが聖書と信仰に基づいて決定したことですか?

  • 組織から信仰を試されて恐怖から組織に従ってませんか

  • 子供への輸血の有無が生死を分けるとき、愛ある選択はなにか本当に考えましたか

輸血拒否について、エホバの証人が代替治療を望んでいて、死んでもいいなんて考えていないことは重々わかっています。あらゆる努力をつくして輸血をしないで助かる方法を模索していることもわかってはいます。しかし現実的に輸血をしなければ死んでしまう状況があるなかで、自分以外の人間に輸血を拒否させるなんておかしい、そこに愛はないと気付いてほしいです。

6. あとがき(血液分画製剤について)

輸血拒否についての考察は以上ですが
血液分画製剤について少しだけ触れておきたいと思います。
血液分画製剤とは何かについてはこちら

エホバの証人は血液分画製剤を使用することについてどのような解釈なのか見てみたいと思います。


JW.ORG サイト「自分を神の愛のうちに保ちなさい」より

聖書は細かいことを述べていないので各人が良心に従って決定すべき。としています。
私もとてもいい判断と思います。それだけになぜ、このような聖書的な解釈を輸血に対しても当てはめることができなかったのか。。。
組織(ものみの塔)もここで「すみませんでした輸血拒否も拡大解釈であり、各人の良心に従って決定すべき内容でした。」と悔い改めることができたなら、このような血の細分化でどこまでを血として扱うか扱わないか、いちいち組織が見解を出さなければいけないというおかしな状況にはならなかったように思います。

 さらに血液分画製剤は献血によって支えられています。
輸血拒否を薦めていたエホバの証人の今まで資料は献血は否定的な資料ばかりです。それが血液分画製剤を受け入れても良いとなってからは沈黙を貫いているように思います。献血が輸血にも血液分画製剤にも使われているとなれば、良いことも悪いことも書けなくなっていると想像できます。

これからも医療は進歩し続けます。おそらく自分の体細胞からiPS細胞を作り出しそこから血液を作るといったような人工血液なるものも出てくると想像します。そういった医療進歩のたびに組織(ものみの塔)が何を血とするかの判断を出すのでしょう。

最後に
聖書と組織(ものみの塔)は間違った行いをしたとき、悔い改めることを求められますが、組織(ものみの塔)が新しい光と言って教義を変更する際、今までの間違いを悔い改める文言は聞いたことがありません。
そのような組織を信じていきたいと思いますか。

以上最後まで読んでいただきありがとうございました。



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