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格闘ゲームの新石器時代と世紀末救世主伝説

日本が急成長した80年代後半と強さ信仰の時代

「力こそが正義、良ーい時代になったものだ……。」

北斗の拳の登場キャラ、シンが日本のテレビでこのセリフを言い放ったのは1985年だ。日本のバブル景気が始まったのはこの年あたりからだと言われている。この時代は日本に非常に多くの変化が起きており、当然それらはゲーム業界の地殻変動にもなっていった。旧石器時代・新石器時代は格闘ゲームの前史にあたるので、ゲームに進化を促した要素という視点で言うと、この当時のゲームそのものよりも映画や漫画からの刺激の方が大きかったように思う。あまり話が逸れたくないので全部あげる事は避けるがざっと思いつくものをいくつかあげてみると

・プラザ合意(85年)からバブル好景気

・ハレー彗星の接近(86年)

・地価の以上高騰でバブルが全盛期になる(87年)

・香港を発端に起こった世界的株価大暴落・ブラックマンデー(87年)

・世界最○(最長、など特に一番を意識したキャッチコピーの打てるもの全般)にこだわった公共建築物・建設物の流行(88年)

・昭和天皇崩御(89年)

と、年に一つぐらい思いつきであげるだけでも選ぶのに困るほど象徴となり得るような事象が多い。空前のバブル好景気に浮かれた時代へと突入していくわけだが、その中で日本はアメリカを抜いて世界一の経済大国に躍り出ようとする。87年にハドソンは他社よりも一足速く次世代機器、PCエンジンを国内で販売した。アメリカでの販売は89年であるが、PCエンジンはこの時代においてはズバ抜けてクオリティの高いゲームハードであった。

この頃、アクション映画のトレンドはジャッキー ・チェンからシュワルツェネッガー、スタローンへと変わり、漫画やアニメの造形も筋肉隆々全盛期の時代へと突入する。新石器時代のゲームのキャラクターも、同じように筋肉が非常に発達した、退廃した世界の救世主である事が増えていく。このトレンドの移り変わりの中、それらを全て内包した象徴的な漫画が84年に少年ジャンプで連載が開始される。新約聖書<北斗の拳>である。

北斗の拳(84−88)→闘いの挽歌(86)→ファイナルファイト(89)

<北斗の拳>という作品が如何に偉大な、エポックメイキング的な作品であったのかについてを語り出すとなると、格闘ゲームの歴史について話す時間などなくなってしまうのでここでは控える。簡単に言って、多方面に多大な影響を与えた。北斗の拳という作品自身は俳優<ブルース・リー>と映画<マッドマックス>の二つからしか影響を受けてないような作品なのだが、それでも85年に始まったアニメ放送は世界を魅了した(フランスでは翻訳があまりにもギャグ化されていてイマイチだったらしい)。個人的に面白いと思うのが、前カンフー時代から流行が<世紀末>へと変化していったグラデーションの役を担う事で北斗の拳は今でも独特の輝きを放っている事だ。そして北斗の拳をはじめとした、この時代の人気漫画特有の重厚感のある劇画調の筋肉のタッチがアクションゲームのグラフィック、並びに世界観に急速な変化を与えていく。86年にカプコンから発売された<闘いの挽歌>というベルトスクロールタイプのアクションゲームがある。リュウという名の主人公が核戦争後の世界で剣王(ケンオウ!!)に殴り込みをかけるというものだった。理由は後述するが、個人的にこの設定は今思いかえすと非常に感慨深い点がある。

もっと尖ったものを見せて欲しい渇望の風潮

当時はパクリだどうこうをいう人間などほとんどいなかったように思う。どちらかというと何か一つ刺激的な物を見つけては「ウォー!!スゲ〜!!それっぽいので誰かもっと向こう側まで見せてくれよー!!!」的な渇望が蔓延していたという風に俺自身では記憶している。闘いの挽歌のアクション部分で特筆すべき部分として、ボタンで盾によるガードができる事。そして2人対戦ができる事。それまでは2人用のアクションというと基本的に協力プレイであった。2人対戦だと85年の<キン肉マン>というファミコンのゲームがあり、これを格闘ゲームの歴史に組み込むべきかで個人的に悩んだ。どちらでも良いような気がするのだが、キン肉マンのゲームはキャラゲーのスペシャリスト、バンダイ社から発売されたソフトであり、その人気も漫画原作ありきのものであるためここではキン肉マンを<キャラゲー>に分類し、直接的な格闘ゲームの祖先からは外したいと思う。ただ、キン肉マンという漫画そのものは当然格闘ゲームの祖先の一つであると断言しておく(キン肉マンの技は鉄拳のキングという覆面レスラーが2021年現在まで受け継ぎ、伝承を続けている)。闘いの挽歌に話を戻すと当時、俺は幼稚園の子供であったがこのゲームの世界観のカッコよさに強烈に痺れた。アーケード版は特に、当時としては重厚感のある描き込みのあるグラフィックで北斗の拳的な世紀末の世界観が映し出されていた。この世界の果てがどうなっているのかがとても気になった。

北斗の拳の技名と大人も知らない漢字

俺は実はどうやら思い出記憶力が高いらしい。何か有益な事を感じた事は今のところないのだが、他人に比べて幼少期からの記憶がはっきりと残っている。あまり信じてもらえないのだが、乳母車に乗っていた赤ん坊の時の風景も覚えていたりする。闘いの挽歌の世界観に興味を持った当時の俺は3〜5歳の辺りだったように記憶しているが、その時一緒にいた年上のいとこに聞いた。

「ねぇ、<ばんか>ってなに?」

「戦争とかで人が死ぬ時に歌を唄うだよな。そういうのじゃねぇか?」

「なんで戦争でうたうの?全然わかんない」

「それはうーんと難しい話だぞなー。大人でも難しいからまだわかんないよ。」

というやり取りがあったのを覚えている。これが自分が挽歌という言葉を朧ながらに憶えた瞬間であった。なぜこの話をここで出したのかには理由がある。北斗の拳が世にもたらした一つの要素に、バイクと革ジャンの世紀末の時代に仏教の世界感をプラスしたというのが言えると思う。西洋風のデザインの中に仏教用語が飛び交っていてもカッコよかったのだ。技名は授業ではみる事のない漢字がずらりと並び、それらが子供の頃の自分にとっては大人も知らない事を知れるツールとしての夢が詰まっていた。この文化は現代においてもしっかりと継承されている。例を挙げるなら、ストリートファイターシリーズの豪鬼というキャラクターがいる。豪鬼は北斗の拳のこの仏教部分の要素をエスプレッソのように抽出したキャラクターだと言える。2021年現在も彼の技名はより難しく、見た事のない画数の多い漢字を使用するものへと進化し続けている。そしてこれに関しては別問題なのだが、こう言った難しい漢字が西洋言語に翻訳された時の落胆の格差も最大を更新され続けている。ストーリーの世界観を担う上で漢字のニュアンスが占める割合の多い作品は、西洋言語に翻訳される時に非常に多くのものが失われるからだ。簡単にいうならどんなに難しい漢字を使った日本のキャラクターのニュアンスも、海外に翻訳される時は非常に単純で子供っぽいものになっている事が多い。豪鬼なんて名前からしてAKUMAだし、あげだすとキリがないのだがこれに関しては先の時代においてもう少しだけ説明しようと思う。

スパルタンXとストリートファイターは繋がっていた

映像の面ではこの辺りから操作キャラクターの巨大化、並びに劇画的な描き込みのグラフィックを意識したゲームが顕著に増えていく。そして、闘いの挽歌においてまでは武器によるアクションが主流であったのに対し、時代は素手による街の喧嘩をモチーフにしたものが増えていく。ゲーム界において、まさにこのグラデーションの部分に位置しているのが元祖ストリートファイター(87)なのだ。ジャッキーチェン 主演の<スパルタンX>という映画を原作としたファミコンのアクションゲームがある。元祖ストリートファイターのディレクターは、ファミコン版のスパルタンX(85)においてゲームデザインをした西山隆志という人物であった。次の新人時代は個人的に元祖ストリートファイターぐらいしか今のところ主だってあげられるゲームはないのだが、それもそのはず。ストリートファイターはまさに突然変異の新人の如く、<勝手に新人>をやっていたような存在であるからだ。

<新人時代へ>


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