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「いひひひ。ようやくお出ましかい。儂がどれほどこの時を待っておったか。『夢見』にもなれず、お前は十歳を迎えても不幸に呑まれることもなく、汚れた肺を持って何もかも凍りつかせる魂の破片しか持ち合わせなかった。母の死はそれほどお前には堪えたとみえる。さぁ、本当のことを話すが良い、三ツ谷家、最後の娘、凍子よ」
 広々とした六十畳ほどの和室の間を天堂煉華一行から見て奥手側には巨大な祭壇のようなものがあり、その目前で紫色の座布団を敷き正座を組んで髑髏が束ねられた数珠を握っていた白髪混じりの老婆が後ろを振り返りもせずに、三ツ谷凍子の名前を呼びしゃがれた声で煮えたぎるような怒りをぶちまけるようにして吐き捨てる。
 白髪混じりの老婆が正気であることから引き剥がされるように聞き慣れない言葉で奇妙な音韻の短い言葉を連呼し始めて一心不乱に狂気こそが救いの道であることを説こうと忘我へと回帰していく。
「お婆様。あの時、氷の牢獄で目を醒ましてみた光景に一つだけ焼け焦げた死体が足りなかったけれど、凍子はそれ以来、その一人がお婆様でないことを心の何処かで祈り続けてきました。まるで私はお婆様そっくりの人形のように思える瞬間が何度も襲いかかってきたとしても」
 三ツ谷凍子の凍りつくような冷静な返答を掻き消してしまうように、三ツ谷鵺ゑの呪詛めいた経文を唱える声が一段を大きくなるようにして憤怒の間全体を覆い尽くすようにして埋め尽くす。
 けれど、やはり三ツ谷鵺ゑの発狂しかけた祈りか願いかそれとも呪いなのか判別のつかないまとわりつくような声は誰にも届くことがないことを思い知らせるように彼女自身の鼓膜にだけ苛立ちと供に反響していく。
「三ツ谷鵺ゑ。凍子の話が本当であるのならば、もはや齢百を超えた老婆であり、『夢見』を司ってきた三ツ谷家最後の巫女。君にも君の母にも未来を見通して時間の連鎖を断ち切り書き換える為の作法を伝える能力は発現しなかった。だが、やはりそれでも君の祖母の力は本物だ。『S.A.I.』の幹部の一人として彼女が迎え入れられている理由も頷ける」
「いえ、お婆様の力はもはや生き長らえることに終始している。生の傀儡と成り果てても尚、地獄の釜の底で目に光りを宿らせて息を荒ぶらせて鼓動を打ち鳴らそうとするものに震えるほどの怒りで熱せられた鎌を持ち、もはや生命を刈り取る瞬間を待ち構え得ているだけの獣でしょう」
「だが、あいつが『ホーリーブラッド』を永劫無極に導き続ける天現寺栄作と『真紅の器』により迷える子羊に指名を与えてきた俺様の父親、天堂時獄、そしてTV=SFに『フリープレイ』という原則を与えて大衆を喚起させようとした東條一護率いる『ストロベリージャム』の面々に『ファティマ』を発掘させた張本人だ。今、この瞬間ですら偉大なる絶対者の記憶の一部のようにすら感じてしまう」
 天堂煉華が心の隙に蝕む僅かな迷いを払拭するようにして使命に導かれて邂逅した第三のヨゲンに記載されていた瞬間の到来を歯軋りを鳴らして口惜しむ。
「ふん。天堂家の生き残り風情がまだこの私に戯言を宣おうとするか。『真紅の器』ならば、既に身代わりを用意した。依代としての才覚は貴様よりもよっぽどあの女子の方が優秀であろう。用済みであることをわざわざ宣告されに此処を訪れたか」
 両手ですり合わせた数珠の音が無用な口を閉じさせるように『憤怒』の間に響き渡ると、三ツ谷鵺ゑは呪い祈るを辞めて正座を解いて片膝をつきながら立ち上がると、もう一度見上げるほどの大きな祭壇に向かって両手を合わせて頭を下げてから振り返る。
 自らを縛り付けていた呪詛から解き放たれた三ツ谷鵺ゑの姿は弱々しく着古された紫色の法衣がなければ吹き飛んでしまうような威厳を僅かに感じさせながら疲れ果てた眼で天堂煉華を見つめている。
「『クズガミ』、いや森川智也が何故この教団に居座っているのかはなんとなくわかるさ。お前が『真紅の器』と呼ぶ紛い物、天宮蓮花を守ろうとしているんだろう。なぁ、なぜお前達はそんなにエーテルを嫌うんだ。お前と俺が違うというただ一点においてエーテルは種の存続と絶滅を同時に兼ね備えた因子なんだぜ。何百年経とうとも目を背けることは出来ないはずだ」
 天堂煉華は否定する。
 目の前にいる小柄で乱れた白髪の老婆が怒りを忘れたもの達に生の実感を再び呼び起こそうとしていることを。
 けれど、三ツ谷鵺ゑは肯定する。
 僅かばかりの激烈さがみるみるうちに顔面を歪めるほどの感情を爆発させてたった左脚のひと踏みだけで異能の力の片鱗が何もかもを変えてしまうことを。
 祭壇に祀られた二本の半径三十センチほどの蝋燭に灯された火がほのかに揺れた後に激しく燃えあがってまた直ぐに消え入りそうな弱々しい炎へと憎しみに満ちた三ツ谷鵺ゑの表情と供に戻っていく。
「『S.A.I.』の連中と行動を供にしておるのじゃ、エーテルが憎いわけがなかろう。罪を犯して生きるもの達に寄り添うように此処におる魔術回路は己の役目に準じておる。お前のいう恋慕を忘れた男とて例外ではない。貴様達は何を変えようとしておるのじゃ」
 黒猫は大きく欠伸をして右前脚で鼻先を撫ででニヒルに笑い飛ばしてしまうと、風前の灯火であることを去勢を張って隠そうとする三ツ谷鵺ゑの方に向かって四つ脚でしっかり立って睨みつける。
「ふん。小石を投げられた程度でそんなに慌てるなら最初からパンに近づこうなんてしなければよかったじゃないか。ぼくはずっと変わらないだけだ。いいかい、まだあきらめることを拒否するのならば白い羽根は黒く染まるはずだよ」
「たわけが。口だけは達者とみえる。ならば、直々に儂が相手になろう。『S.A.I.』大罪司教が一人、『憤怒』を司る『ヌエ』の前に平伏すが良い」
 髑髏の数珠を握った右手を一振りすると、『ヌエ』の形相は鬼へと変わり、見窄らしい白髪の老婆の姿から四本の腕を持つ妖怪になり、一歩足を踏み出しただけで風圧によって黒猫と天堂煉華と三ツ谷凍子の三人を威嚇する。
「あぁ。そうであるべきだ。お前が凍子に何をしてきたか思い出せないのなら決して受け入れることの出来なかったエーテルの力で思い知らせてやる。親父は変わって欲しいとそう願い続けた。俺様がそれを思い知らせてやる」
 ファイヤースターターの異名を持つ天堂煉華は右腕にはめたリストバンドに左手で触れると、『紅蓮のエーテル』によって彼女の奥底に眠っていた感情を爆発させて魔術回路を暴走させる。
 もし、信じるものを失ってしまったら人は何を求めるのだろうか。
 大きく空いてしまった空洞を埋めるものを願いながら誰かに与えて欲しいと彷徨うだろうか。
 『S.A.I.』の御神体として祀られているのは十八年前に当時、十歳だった少女を力づくで二度に渡って強姦した挙句に、彼女の見ている前で自ら首を掻っ切り絶命して罪の証となる血液を浴びさせた『預言者』『サイトウマコト』である。
 新興宗教団体として僅か十年ほど前に、社会的に廃絶され人権侵害を主張していた魔術回路保有者の急進的な団体を筆頭に神原家、三ツ谷家、天現寺家、喜仙家といった大和国内の有力者たちがまとめあげて非営利法人として組織されると、半年足らずで国内有数の宗教法人として格上げされた現在最も力をもった集団の一つとしてテレビメディアなどを賑わせている。
 その理由の一つに挙げられるのが、二〇二一年五月に起きた『渋谷事変』、のちに無神論者革命と各メディアの痛烈なバッシング対象となった一連の騒動にあるのではないかと推測される。
 現在は『白い羽根大聖堂』と呼称されて渋谷の新しいランドマークタワーとなった超大型宗教施設は当初、複合娯楽施設『ヒカリエ』として誕生していた。
いわゆる『無神論者革命』において実行されたハイパーインテレクチュアルメディア装置『TV=SF』を『フリープレイ』と呼ばれる単純な恣意的情報操作エンターテイメントショーとしてたった一日で塗り替えてしまった『S.A.I.』の功績はとても大きく国内全体を震撼させたと言える。
単純な大衆型娯楽施設『ヒカリエ』の名称や公的な記録そのものが改竄されるまでに至った一連の経緯はもはや単なる若者達のムーブメントの一つとはいえない状況を産み出してしまったが、肝心の『S.A.I.』はこの動乱において『TV=SF』を拡張現実的ハイパーメディア以上の人身掌握装置として価値基準そのものを変化させてしまったという点で非常に重要な役割を担っている。
いわゆる『ホーリーブラッド』と『S.A.I.』の協力関係はそれほどまでに罪のない一般大衆の意識を惑わせるまでに至ったのではないだろうか。
 大和はすでに信仰という擬似的環境への移行基準を曖昧にしたまま欲望のみを断続的に充足させてより平坦な日常を苛烈な非日常と合成することでしか解決策を見出せない社会を創成してしまった。
 だからこそ、三ツ谷凍子は逡巡する。
 そうして、自らの身体に流れている忌まわしき血を今度こそ燃やし尽くすのではなく、永遠の凍土の奥深くへと眠りにつかせるべき正しい手段のことを胸に秘めたまま『絶対零度のエーテル』によって呼吸を制御して物理運動が停止してしまう時間を錬成することで自らを戒める。
「お婆様に『紅蓮のエーテル』程度で太刀打ち出来るとは思えません。例え、ニトログリセリン級の爆裂弾を生成したところで弾かれるのがオチです。どうですか、私の力と等価の状態をなんとか維持しませんか? 消滅魔術ならば或いは」
 三ツ谷鵺ゑによって弾き返された高エネルギー体を三ツ谷凍子は身体から冷気を吐き出して分厚い氷の壁を作り出して相殺しようとする。
「あの生け簀かないババアがそんな隙を作らせるとは思えないな。あれにはかなり集中力がいるんだ、ちょっと力の加減を間違えただけで俺様の右腕にはあっという間に紅蓮の炎が宿って何もかも燃やし尽くす。何、所詮はくたばり損ないの老ぼれだ。必ず力で押し切ってやる。ついてこい、凍子」
 だが、『S.A.I.』は当初は『国家執務室安全機構開発室キノクニヤ』と『科学技術特援隊コンビニエンスストア』改め『超補完計画未来会議』との三つ巴だった『TV=SF』をいまだに情操教育の補完的機能として内閣府の統制及び管理下に置かれていた状態から離脱させる為に、セカンドフェイズへと移行させることで、いわゆるパラトリウム=アセチルコリン濃度人工調整粒子の過剰散布に踏み切ることに成功する。
 参加視聴者=スペクタリアンズの目前で大量殺戮や異常虐殺さえ発生可能にしてしまうと、ゆっくりと彼らの思考能力そのものを奪い取るようにして感情や感覚の鈍磨から産まれた信仰対象の欠如を『S.A.I.』はつけいることで『TV=SF』の実権だけではなく、『ホーリーブラッド』とのパワーパランスすらも崩し始めるシナリオを描き始めた。
 『予言者』が残した未来予知にすら残されていなかった『マイナスファクター』と呼ばれる革命志士の加入は神原理英樹最高指導者代理を軸にしたシステムそのものを揺るがし始める。
「けははは! やるじゃねーか、ババア。『憤怒』の名は伊達じゃないってわけか。紅蓮の炎と絶対零度相手に対等に渡り合うとはまだまだ腕が鈍ってない証拠か。だがな、後ろで目を光らせてる四つ足の生き物の相手はどうする? やつの知識と錬成速度相手にその弱り切った身体で何処まで耐えられるかな」
 天堂煉華と三ツ谷凍子の鮮やかなコンビネーションプレイをひたすら呪いの言葉を唱え続ける三ツ谷鵺ゑがその身スレスレで交わし続けている『憤怒』の間の大祭壇近くに巨大なファスナーが現れて開かれると、
足元まで覆い尽くした真っ白な法衣と嘲笑をわざとらしく口元に浮かべた『クズガミ』が現れて、三名の戦闘行為に注意深く睨みを効かせている黒猫を牽制する。
「『S.A.I.』の虐殺特攻部隊を率いる『怠惰』の『クズガミ』が直々にお出ましとは穏やかじゃないね。まさか、こんなに早く気づかれるとは思っていなかったけれど、やはりぼくが動かないと厳しいのかな」
 黒猫は右前足で前方に楕円形をするりと描くと、ひょいと飛び跳ねて円の中に飛び込んで姿を消してしまうと、一瞬で『クズガミ』の前方に移動して両前足を叩いて破裂音で産み出して行動不能状態に陥らせようとする。
「残念だったな。お前のやりそうなことは大体学習済みだ。『ルネッサンス』を忘れたか? お前の失態が椅乃下を暴走させて魔人化まで導いてやった。俺たちが責められる謂れは今更一切ないんだぜ」
 『クズガミ』は両耳から黄色い耳栓を取り出して、黒猫の先制攻撃を無効化したことを嫌味たっぷりに告げると、着地寸前の黒猫を右脚を思い切り振り抜いて踏み潰そうとする。
「ひゃはは。残念れした。飴玉ぐらいの『ギャグボール』らったら、持参してひるよ」
 黒猫はいつの間にかピンボン玉ぐらいの水色の飴玉を口に咥えていて。涎を垂らしながらゆらりと実体を不透明にすると、今度はするりと『クズガミ』の後方に回って跳ね飛んで両前脚で目隠しをする。
「ふん。愚か者め。そやつを無闇に動かさないために力を拮抗させて危機を演出してやったというのに。凍子、貴様の駆け落ち相手は見境なく『夢見』の力を人にやるほどの穀潰しじゃ。まだ目を醒さぬのならこうしてやるわ。」
 天堂煉華の燃え盛る鉄拳をなんなく交わした三ツ谷鵺ゑは右手に握った髑髏の数珠を左手に持ち替えて、連続して氷の刃で斬りかかってくる三ツ谷凍子に向かって気合い一閃、“喝”と叫んで行動の自由を奪い取る。
「お婆様も甘くなりましたね。二十四年の歳月は魔術回路の可能性と拡張可能な現実を教えてくれた。あの人と出会いを否定しないのにはそれだけで十分です」
「ぬるいわ。お前の手など二手も三手も読んでおる。片腹痛し笑止千万。経の反復に凶を見つけたり。母もまたそうであるようにお前も因果の環から抜け出せんよ」
 三ツ谷凍子は勢いよく切りつけた氷の刃が三ツ谷鵺ゑの識によって粉々に分解されてしまった瞬間に身体から自由を奪われてしまうけれど、咄嗟の判断で奥歯を強く噛み締めて仕込んでいた『バイオポリティクス零号』を発動させる。
 『絶対零度のエーテル』の物質干渉範囲が拡張されると同時に三ツ谷凍子の無意識下に深く塗りつぶしたような暗闇がやってくると、アポトーシスの剥離が感覚器官の全てを支配して上演され始める。
「いないいないばあか。古典的だが唐突に視界を奪われた相手は身を怯ませて気を緩ませる。関係性において主導権を握りたい場合は有効だが、その甘さが命取りだぜ、黒猫。その名の通り、俺はゴミと塵で出来ている」
 黒猫は後頭部からしがみつくように『クズガミ』の両眼を塞いでみるけれど、みるみるうちに黒く変色して消し炭へと分解されてしまった身体はあっという間に消えてなくなって姿を消してしまう。
「へぇ。大罪司教の奴らはそれなりに戦闘訓練を積んでいるということかい? 君は金蔓として『S.A.I.』の幹部に名を連ねただけだと思っていたよ」
 黒猫は魔術回路を熟知している。
 通常、ヒト科の生物の遺伝子疾患の一つして左の肺胞に産まれる魔術回路は、呼吸器を通して血液中にエーテル粒子体を生成することが可能である。
 だが、黒猫はエーテル粒子体が意識と呼ばれるヒト科特有の反物質生の高い法則に干渉させることで量子世界に無限の可能性を作り出せることを知っている。
 彼が何故、黒猫の姿をしながら人間と完全なコミュニケーションを取ることが出来るほどに高度な意識を持ち合わせているのかは分からない。
 とはいえ、黒猫が素粒子とエーテル粒子体を合成させることで、物理法則の内部へ通常の一般科学では及ばない新たな力学的支点を作り出せてしまうことはもしかするとヒト科の生物全体の希望なのかもしれない。
「何故、俺が虚無を受け入れることが出来るか分かるか、黒猫。『マコト』を信じているからだ。奴は必ず不可能を可能にしてくれる。未来が見えるんだよ、この『怠惰』の大罪司教にはな」
 『クズガミ』が再び姿を現すと真っ黒な法衣を着て、後ろ足で器用に立って右前足を顎のあたりに添えて気難しそうな顔をしている黒猫の背後に気配を移し替えている。
 まるで『旧き魔女の血』に全身の血液をすげ替えられたように一回りほど大きくなった瞳孔で光を自在に操ることが出来る黒猫を捉えて決してこの場から逃す気がないことを気迫によって伝えようとする。
「君たちは悪魔に魂を捧げている。天使の声には耳を塞いでいる。どちらも人ではないし、神の使いだと偽っていることを知らなかったかい。だから、そんな風に簡単に闇に呑まれてしまうんだ」
 くるりと後方宙返りをした黒猫はタキシードスーツに何故か一本の刺股を持って『クズガミ』と対峙する。
 『憤怒』の間に攻撃的意志が充満して暴力が解放される予感でうんざりするほど埋め尽くされていったせいなのか、三ツ谷鵺ゑは思わず怒りに満ちた表情を弛緩させた後で、自力で覆い被さる病から抜け出してしまった三ツ谷凍子を蹴り飛ばして大広間の中央付近に着地する。
「理英樹め。『虚無』までばら撒くとはなんたる不信心さ。奴はやはり『グリモワール』の写本を何処からか手に入れおったか。将門を射抜くために拵えた与一の弓をアキレスとすげ替えたと見えるな」
 例えば、暗闇を持続する方法を虚無を抱えた脳味噌が知っているのだとしたら、信仰を剥奪された人間にインストールされた時間の経過は生きることを選択させようとするだろうか。
 『S.A.I.』は既に物質文明への逆説的手段を『虚無』と認識させるのではなく、精神文明における前衛的落下物を喪失と置換することで、希望のみを排除した依代として再構成した。
 つまり、『クズガミ』は今や一個の偶像として実体を持ち、求心力を失わないまま黒猫の全能的法則性から離脱しようとしている。
「悪いが、俺には精神操作の類は無効だ。行動と思考は完全に一体化している。いわば、生きる死人を俺自身がコントロールしている状態だと定義してやろう」
「いやにおしゃべりだね。君は弱点などないと言いたいつもりかもしれないが、現実と高次領域をつなぎ合わせる素粒子にはそもそもが哲学的実態など存在しないことをまだ理解していないだけじゃないかな」
「言ってくれるな。ではこれではどうだ。魔術は想像の産物だ。感覚すら存在しない領域へ誘ってやる」
 『虚無』とは言わば、根源そのものであるのだとすら、そこには有と無の差異すら認識することが出来ない真と偽の賽を振り、確率的に合成された生命のスープによく似た暗闇だとしよう。
 いつの間にか零と定義された次元構成基準を分解した『クズガミ』が非実体認識領域を常態へと移行することで防衛本能を働かせる黒猫と対峙する。
「縫針孔雀は本当に良い仕事をする。『天狗の隠れ蓑』が視覚のみに限定された着衣であれば、ぼくでも危なかったかもしれないね。さて、蓮花、それに凍子。しばらくこの場は任せたよ。ぼくはちょっぴり時空旅行に出かけるとしよう。おそらく『暴食』あたりと邂逅することになりそうだ」
 
 暗闇。
 真っ暗。
 黒く塗り潰す。
 逃げ場所がなく音すら聞こえない。
 だから私はあなたを求める。
 肌の触れ合った感覚を忘れない為に。
 やがて再会の約束は嘘だと知ってしまっても暗闇を恐れぬように。
 遠い時間の向こうが真っ暗で何も見えなくなってしまっても。
 絶望なんて言葉が私をどうか忘れてくれますように。
 ありがとう。
 
「悪あがきとは何処までも出来損ないの孫め。久々の食事がわしの身体の一部とは口惜しいが腹を満たす程度の贄にはなろうて」
 行動不能状態に陥った三ツ谷凍子に羅刹と化した三ツ谷鵺ゑが飢えた鬼のように大きく口を開けて牙を剥き出しにして食らいつこうとする。
 渾身の一撃を難なくかわされた天堂煉華が振り向きざまに右手の真紅のリストバンドを脱ぎ捨てて『紅蓮のエーテル』のリミッターを解除すると全身から烈火を噴き出しながら三ツ谷鵺ゑごと焼き尽くそうと飛びかかる。
「まだ殺らせねえぞ、三ツ谷鵺ゑ。親父は此処までだったが、俺様の紅蓮に限界は与える気はねぇ」
 我を忘れた天堂煉華を包みこむ炎が勢いを増して全身を覆い尽くして怒りに溺れてしまいそうになる境界線に到達すると、三ツ谷凍子は意識を剥奪されたまま身体の奥底から光を発すると、観世音の化身として最小情報単位へと圧縮されていく。
「いいえ。あなたが呑まれる必要はありません。私は『慈悲深き血に塗れた観音菩薩』。天現は既に我が手中に芽生えているのですから」
『憤怒』の四方八方を取り囲むようにして、大気が凝結して薄い氷の膜が次々に錬成されていき、三ツ谷凍子だった凝縮された光体が鏡を求めて自在を欲し物理速度限界へと達して自分の在処を求めて瞬間移動を始める。
 東の鏡が光体を映し出して西南の鏡に反射して北の鏡を理解して南東の鏡に接近し北北西へと光路を限定すると、十方世界に本態が不足だったことを世界そのものに働らかせて、醒めるような深く濃い蒼色の髪の毛に変化した三ツ谷凍子が苛烈に無限に上昇し続ける炎獣の化身へと成り果てる寸前の天堂煉華を物理運動停止極点へと導いて業火を収束させようとする。
「邪魔をするな、凍子。こいつは輪廻を断ち切る気でいやがる。自己完結性を拒否したまま子を苛む。生かしておいてもお前が苦しむだけだ」
 天堂家の生き残りとして、いや、『真紅の器』の正当後継者としての自分を許すことが出来ないままに、豪炎にみを包まれてしまった天堂煉華は『憤怒』を押さえ込んだまま着地して燻り続けながら憎悪を吐き捨てる。
「私が暴力を許せるのだとしてもですか、煉華。既に母は他界しています。生を受容するのであれば、他力は本願となすべきなのですよ」
三ツ谷凍子の表情から迷いが消える。
冷たい感情だけに支配されて冷徹さと冷酷さを同時に両手に報酬すると、今までよりも薄くけれど強度を増田刃渡り九十センチほどの刃を握り締めて三ツ谷鵺ゑを天堂煉華と挟み込む。
「お前の母ではついぞ持ちえなかったエーテルという病。溺れることなく掴み取るとは何故貴様は男を求めるのか少しは理解してやるとしよう。儂こそが先見と万里を超越する『夢見』の守護者、三ツ谷鵺ゑ。言の葉なる真をとくと味わうが良い」
 再び髑髏の数珠を両手の平に握り締めると、虚無阿弥陀発願発起失想念無縁仏(なむあみだぶつ)と三度唱えると、字形によって思考を制御されて、音韻によって意識を統制された三ツ谷鵺ゑはまるで血の気が失せた死体のように突然精気を奪われて骨と皮だけの白髪の老婆へとなり変わり、飛び出た眼球が血走ったままカラカラに乾いて唇をゆっくり開くと、氷と炎が同居した息を吐き出して三ツ谷凍子と天堂煉華の二人から信仰心を剥ぎ取ろうとする。
「ねぇ、魔界が何処にあるか知っているかい? このまま行けば君たちの思惑通り崩壊現象は結界を破壊してしまうはずだ。潜んでいた魔人達も仲間を求めてギアガの大穴に集まり始めるはずだ」
 黒猫は『虚無』の内部でまるで独り言を話すみたいにその場にいない誰かに話し掛けている。
 此処では意味を連結させて形を呼び戻す方法など何一つ役に立たないけれど、黒猫は言語濃度を思考と切り離した状態で理性のみで本能と知性を置き換える手段を駆使して記号と配列を羅列することが出来る。
 故に、不理解を前提に未来が決定される現在と空間と座標の関係性による状態変化すら無効になってしまう此処では意図自体を予言的に伝達することを選択することは出来ない。
 もはや、欲求によって制御された方向的問題ですら不可知領域を定義する手段には成り得ない。
 だとしたら、『虚無』を存在と切り離した状態で感覚器官と合成することは可能なのだろうかと黒猫が話しかけた不在が前段階可逆性現象を排除しながらついに暴力を行使する。
「いや、俺は消滅を前提に『マコト』の信仰力の一部を利用しているわけではない。時間経過と共に意思と予測の包囲網が恐怖を塗り潰してしまうのは当然だからな」
 とはいえ、此処と彼処の狭間では食欲が優先された。
 贅すら破壊されてしまえば、一体どちらに方向基準を求めていたのかすら問題ではなくなってしまうからだろう。
 黒猫はいわゆる人間器官には与えらなかった過敏聴覚によって、うっかりと呼ぶべきなのだろう、後方から追いかけてくる原罪を発見してしまい、久方ぶりに自分の眼を疑ってしまう。
「これはたまげた。『暴食』が既に味覚を自在に覆い尽くしてしまったようだね。では、視覚や嗅覚の判断に過食が制限されてしまったとしても仕方がないじゃないか。せっかくだからお前の名前だけでも聞いておこう」
 想像力が失われてしまっている以上他者の状態を認識することはもはや意味がないのだけれど、黒猫はどうやら目の前に現れた最適解を発見したようだ。
「ようこそ。此処が欲求の全能性を仏教的死角から浮かび上がらせた有頂天のある一瞬、『暴食』の大罪司教『デマトン』が管理する領域にございます。『虚無』を連結出来たのはもしかしたらあなたが初めてかもしれませんね」
 白いテーブルクロスのかけられた食台には古今東西の料理が最高水準の技術によって盛り付けられて皿の上に乗せられていて、一切の贅が削がれた男がフォークとナイフを使い丁寧に食材を口に運んでいる。
「君は自然の欲求に過剰性が介入することを制御することで、最大効果を発揮することが出来ているというわけか。『S.A.I.』の中で唯一生真面目に大罪を受け入れている。一体どうして他の司教とは隔絶された状態で自我を喰い殺し続けているんだい? 救いの道などないといいたげじゃないか」
「いけませんね。まるで私が『マコト』を忘れてしまったような物言いだ。体内で分解される栄養素によって快楽を享受し続けるのであれば、理想的な欲求の充足は極限まで高められた味覚刺激に他ならない。私はそうやって余分な真偽を私自身から排除してしまっただけに過ぎないのですよ」
 過食の果てにたどり着いた『マコト』自体を頬張るようにして刺激が脳内欲求を満たし切ることを求めて『デマトン』が誘惑のみをふしだらなまま胃袋の中へと流し込んでいく。
「けれど、『虚無』が信仰を共有することを許さずに、君は幸福条件の最大効果のみを追求する機械へと昇華するつもりなのかな。禅問答によって永遠に常軌を逸した『暴食』を追い求める気なのかい?」
「思考アルゴリズムを限界までパターン解析すれば自ずと切り開かれる道なのですよ。教えて欲しい、夢に溺れているのはあなた達なのではないですか?」
「どうだろうね、けれど、この場所ならば燕は巣に帰ろうとするだろう。巧妙に編み込まれた時限発火装置が記憶を奪いにやってくるようだ」
 暗闇の向こう側から現れたのはポークバイを被りスリーピースのスーツを着用した巨漢であり、彼は銀色のアタッシュケースを手に持って縦に細長く伸びたテーブルに用意された座席に座って一仕事を終えたようにして深く深呼吸をする。
「黒猫か。久しぶりやのう。神様はいつの間にかすげ替えられとった。大きな記憶を埋めるために増殖する霊を操る魔女が重宝されとったというわけや。そやかて、こいつをこの場所から引き剥がしたところで、どないにもならんぞ」
 大黒獏言は記憶を司る行商人として他人から奪い取った人生の一部を売り捌いて己の職務を全うしようとする。
 十一個の在野に潜む賢者たちはお互いに名を知らず行方を伝えることがなく、けれど同一の時間構造の歪みのみを目指して理念を共有する。
「『Swifts』は統率されない軍隊のようなものだと光太郎が言っていたよ。彼は白い羽根大聖堂を改修する保守派層に取り入るつもりでいる。その為の捨て駒だって用意しているだろう」
「あの男はあまり好かんのう。必然を運命と誤認させて誘導回路を自前で用意するようなやっちゃ。なぜ全が一となり、一は全となり得たか理解している訳でもない。さて、今回も仕事や。そうそう、例の魔界からの使者は理界奏と呼ぶらしいで」
 不協和音がいつの間にか空間から消えてなくなっていて、『デマトン』はまるであらかじめ決められている手順を辿るようにしてテーブルの上に次々に現れる料理を口にして、忘我へと転移する。
 大黒漠言は『デマトン』の後方に立つと肩に手を添えてたった一言だけ告げ口をして、一切の意志が排除された蓄積された情報因子へとアクセスして彼が脳内に保存してきた体験の一部を小さなUSBメモリへと変換してしまう。
「永遠を約束してくれるという訳ですか。私は『クズガミ』の胃袋の内部で、嘘を吐き真実だけを選り好みして手に入れられるはずのない受願器を手に入れる。葡萄酒が舌を濡らして喉を潤せば胃袋は愉悦によって欲求の奴隷となる。私はもはや内臓器官によって制御される『マコト』にパートナーの紹介状を送るのです」
「ほれ、ここまできたらもう嫌味の一つも溢さへん。いくら食うても食うても記憶だけは儂の領分やさかい、堪忍な。これで飢えて苦しんどった餓鬼どもの腹に永劫の錯覚を与えてやれる。それでもな、あの子らはきっと喜ぶはずや。これが儂の燕。必ず巣に帰り卵を暖めてまた海を渡る」
「過去とは私に既に必要のないもの。未来とはもはや私の胃袋で消化されるもの。あなたは私の一部となり、私はあなたと一つになる。こそぎ落とされた欲望の味が舌を満たしてくれるはずでしょう」
 黒猫は白いテーブルクロスと無限の料理が拡げられた食台の上に飛び乗ると、食材を踏みつけないように器用に避けて通りながら歩いてとうとう『デマトン』の目前に凛々しく雄々しく立ち塞がる。
 『デマトン』は皿の上に盛られたフィレステーキの最後の一切れを口に運んでしまうと、もはや後戻りの出来ない道であることを自覚して目を閉じて永遠に途切れることのない味覚の充足を堪能するようにしてゆっくりと噛み砕かれた肉を呑み込んでしまう。
「そうやって犠牲になっていった生命に感謝することを忘れてしまうことを『暴食』と呼ぶのだとすれば、君の脳味噌に居残っている記憶はシナプスの結合にすら揺り動かされることなく沈んでいく運命なのだろう。だとしたら、その在処をぼくらが奪うことにしよう。漠言。『記憶のエーテル』を使用して『マコト』を彼から奪い取るんだ」
「ほな。参りましょうか。奇跡をお前さんは粗末に扱った。だから、罪に汚れたまま生きようとする。儂のエーテルは必ずや『暴食』を地獄まで誘導したる」
 左手を左肩に添えて、右手で頭頂部にぼんやりとしたエーテルの光を灯してしまうと、大黒漠言は『デマトン』から今まで彼が食してきた一切の料理への無感情な愛と無頓着な瞬間を模写していき、まるで手品のように右手をひっくり返して小さな銀色のUSBメモリを産み出すことに成功する。
「もし権威性が本当に人の意識に存在するのであれば、それは黒猫のぼくにも理解出来るほど圧縮されたデータに他ならない。さぁ、『デマトン』。目を開かずにそのまま安らかな眠りを享受するがいい。君が目を伏せてきた欲求が押し寄せてくる。逃げ場がなくなっていたことに気付くんだ」
 『デマトン』から引き出された記憶が大黒漠言の銀色のアタッシュケースにしまわれてしまうと、神性が剥奪された大罪司教が現在の名を明かすことなく浪費した齢を明らかにして老いぼれてしまう。
 もはや白いテーブルクロスと白い皿の上に乗せられた料理は消し炭であり、罪を贖うほどの魅力は消失している。
 秘密が守られるようにして黒猫と大黒漠言の肉体は虚無ではなく実存を選択して過大な情報因子を取り込んでしまうと、純粋理性の発熱によって流行病の源へと昇華する。
 未来と過去が入り混じり、歪められた現在が再び二〇〇九年六月二十九日月曜日朝八時二十分私立七星学園魔術2-βの教室へと巻き戻される。

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