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「さぁ、ぼくと君の契約が受領された。願い事はきっとすごく単純なものだったし、複雑に絡みあった生贄の烙印は意味がない。きっと君のことを知らない人間に誤解されるだけだろう。『フラクタルスリー』を発動させる手順だけを間違ってはいけない。ヤミ、夢を見るんだ。aemethを君の魂を餌にして生まれ変わらせる必要性はない。ぼくたちはきっと『ブラックエンド』の誘惑から解き放たれる」
 那森弥美は『どうとくのじかん』が始まる前にaemethから解放したかった。きっと巡音悠宇魔は生贄からエーテルが抽出されやすい効率を重視している。『職員会議』はおそらく彼の術式を見逃すはずだ。七星倫太郎の教育方針に率直に従うのならば、大規模な『いにしえ』を発動させるほどの生徒は完全な自由を与えるはずだ。プラナリゼーションソサエティ。平坦化された社会。嘲笑と欺瞞と苛立ちと後悔が平等に個人の人格と感情を侵食し続ける常態。脱け出すことが出来なければ辛酸を味わい続けて平穏など手に入れることすら叶わない。『ザ☆ファースト=チルドレ☆ン』の称号を得る勇者は能力の全てを解放してパンの供物となる決意を捧げたもの。呪縛から解き放たれる手段をただ一人だけ知っている存在。けれど、普通科の頭脳は決して彼の横暴を許さなかった。科学によって築き上げられてきた社会から合理性を奪うことを由としなかった。理論的に超巨大魔術の存在を解析して、対抗しうるだけの合成魔術によって相殺を試みようとした。だから、ぼくはたった一つだけ賭けに出ることにした。『超高次元通信装置ギャグボール』。きっと手渡した設計図面は然るべき時を経て必ずぼくたちの思念を一つにしようとするはずだ。他の誰にも渡すことは出来ない。『ヒダリメ』を信じることにしよう。彼女ならば、不幸の源から必ず帰還してくれるはずだ。うんざりするほどの悪夢を見ても自我が消失してしまわないだけの手段を講じるはずだ。ぼくの願いは必ず届くはずだ。時を超えて君が決して失われてしまわないようにと想いを具現化してくれる。だからぼくは血液が流れ出した左手首にそっと口づけをする。
「魔術師同士の契約。私たちは獣人ではない。賢者として必要な知識を手に入れたお前には私たちが施した呪いを掻き消すだけの理力を与える。乙女の純潔は守らなければならない。残された合計で五十の術式の全てを解放してみるがよい。きっと、ならば、『穴水』はお前に力を貸し与えるはずだ」
 ぼくの体内で那森弥美の封じられた『ブラックエンド』と『夜のエーテル』が混ざり合い始める。波切海月が託してくれたのは彼女の全てだった。意識と身体が混ざり合い一つになった時に、規則をたった一つだけ破ることでエーテルが失われる可能性に賭けたらしい。悩み抜いて考え続けて逃げ場所だけを必死で封じ込めて彼女はぼくに『エネルゲイアのエーテル』を譲り渡した。
「よかった。本当は少しだけ怖かったんだ。もしかしたら君がぼくのことを裏切ってしまったんじゃないかって考える夜が何度もあった。だって君はぼくの傍にいなかったのだし、時間と空間を共有することの出来ない罪を抱えるって小さな約束を違えたりすることは出来なかったから。これなら『フラクタルスリー』の発動条件に狂いはない、もうすぐ覇王が目を覚ます。彼が生贄の名前を思い出している隙に君が与えられた精霊の名前を剥奪するしかもう道は残されていないんだ。那森弥美。君を救いたい。どんなに我が侭だって知ったところで欲しいものは本当にたった一つで構わないんだ。可能性を作り出そう。エネルゲイアを発動する」
 ぼくは左腕から血液を垂れ流す那森弥美をそっと抱き寄せて額同士をくっつけって小さな奇跡について信じようとする。これは一体誰からプレゼントされたものだろうと時間をかけてゆっくりと記憶の片隅から引っ張り出そうとする。消えてしまう瞬間ならば必要がない。繰り返されるだけの日常が待っていないなら二度と手にする必要性だってない。既にぼく自身と同化し始めているデュナミスを受け入れて意識を交換する為の方法に耳を傾けて鼓動が高鳴っていることを感じ取る。
「あぁ。ちゃんと聞こえている。私と君はちゃんと繋がってたんだ。私が苦しい時、すぐ傍で話を聞いてくれていたし、私が何も必要ないって考えていた時、指先に光を灯してくれていた。忘れたりなんかしない。私が刻印を受け入れた理由を聞いてくれる? 私たちが例え何もしなくたって『ザ☆ファーストチルドレ☆ン』はきっと生贄を選び、力を誇示しようと考えていたはずなんだ。けど、彼女はね、それじゃ嫌だって叫んでいた。名前を打ち明けてくれた時からずっと私の親友であり続けてきたけれど、『穴水』は当然ながら彼女から与えられる力を代償とする。欲しいものを簡単に手に入れられる代わりに決して彼女が自由になることだけは許されない。きっと私は那森家が憎いんだと思う。ずっと心の奥底で決して拭えない恨みを抱えているんだと思う。焼け焦げた魂だけは何にも変えられない本物だ。偽物を許したりしたくない。だから、私は大切な左腕に格子状の傷を刻みつけた。もう逃げられない。ずっと彼らの気持ちが私に傾れ込んできている。真司のことだけを考えていることなんて出来ないんだ。私は女の子で君は男の子だ。けれど、どうやら君は新しい力を手にしたんだね。これは私が知らない思いだ。もし私の知らない私と君が作り出した幻が同じことを考えているのならきっと受け入れなくちゃいけないんだね。愛していると伝えることにする。言葉を置き換えたりすることは出来ない。私の狂気を君にも知ってほしい」
 ぼくは制服のポケットからスマートフォンを取り出して、インターネットの会員制サイトからダウンロードしたアプリケーションを立ち上げる。那森弥美も全く同じ動作をしてLINKと書かれた水色のボタンをタップする。ぼくたち魔術師にとって科学は欲望の彼岸に位置している対極の価値観だろうか。心の何処かでそう願っていたとしても、そのどちらもが目的を遂行する為の手段として認識されているはずだ。外部に依存するか内部を利用するかに相対的な評価を与えて環境の変化を望めば途端に模倣された自我に取り囲まれて身動きが出来なくなる。機能を整理して制御するべき事柄を入れ替えながら断続的な決断を繰り返していく。つまり、エーテルという内燃機関は規則と規律によって周囲との整合性を取るようにしてぼく自身が外在化する因子となり続ける。レギュレーターを使用することで他者との関係性に安定状態をもたらす装置だとすれば、ぼくたちは意志によって不整合な論理を書き換えていくことが出来るはずだ。黒い背景のアプリケーションの右上に+Newと表示されている。記号と配列によって高等論理術式に該当する一番から十五番までの『フラクタル』と呼ばれる時空干渉装置を起動させる。条件は三つ。一つ目は、体内に存在するエーテル粒子体の電流抵抗値を極限比率零に近づけ、主体、この場合はぼくが血液を経口摂取すること。二つ目は、客体の意識を血液と分離させることで集合的無意識に融解させること。呼吸器系から血液を通じて体内に循環しているエーテル粒子体が周囲環境を満たし始める。『NOTE』というアプリケーションには空気中に存在する元素を構成している素粒子を判別し、エーテル粒子体と結合させることでミームを合成する支援装置がプログラミングされている。最後に三つ目は形状を自在に変化させる主体と客体の自意識を融合させることでエーテル粒子体を物理的干渉能力を持った構造物へと昇華させる。『フラクタルスリー』超復元魔術には元素同士の結合に不純物が混入していた場合にエーテル粒子体と結合させることで、聖人『ヘラクレス』を召喚することが可能だ。
「黒生先輩が何らかの聖人を降臨させているのはなんとなくわかっている。だとしたら、対抗するには彼女と対等かそれ以上のクラスの聖人と融合しなければ君に縫い込まれているaemethに有効な手段を取ることが出来ない。あの日、真夜中の学校の屋上で起きた出来事を素直に打ち明けなくちゃいけない。君はきっと微かな疑いですら嫉妬して欺瞞の炎を燃やすに違いないから」
「彼女に宿っているアルテミスは私の『穴水』では略奪出来ない神性が付与されている。人の身でありながら、神との対話を求めるのであれば、代償は必要なんだ。でも、だからこそ君の我儘に耐えてあげる。私は女の子だ。守ってもらえるのなら勇敢な君の意志を尊重したい。きっと世界は壊れてしまう。それでもじっと待っているよりはマシなのかな。大切なルールを決めよう。これからはきっと私は素直な気持ちを伝えることしか出来なくなるんだね」
「感覚を合成出来るのならば愉悦を味わうのは確かに聖人属性を得た人間の特徴だ。けど、君は元々『穴水』によってエーテル回路を封鎖されている。状態依存から脱け出す方法だけを考えればいいんだよ、きっと」
 つまり、心が壊れていくことだけを理念としているのであれば、きっと『ブラックエンド』が目的としているのは構築された術式を幾重にも分散させることで到達するための環境でしかない。けれど、巡音悠宇魔がすがらなくてはいけなかったのは彼が生来的に持っていた能力の最大値を向上させるという理想のはずだ。エーテルを持って産まれた以上、生贄の捕食によって成し遂げられる限定解除条件を彼はどうやら全と一を誤認させることで手に入れている。『ブラックエンド』は那森弥美との密約によってaemethの腫瘍的側面を相殺する手段は果たして彼女をどう変化させてしまったのだろうか。ぼく自身が追求してきたのはあくまでエゴスティックな主観体験の削除でしかない。だからこそ、必要なのは『フラクタルスリー』を発動させる手順だったはずだ。
「ヘラクレスはぼくに力を貸してくれると約束をしてくれた。実は深夜の学校で六条雲雀と約束をしたんだ。現実の記憶が虚数空間を侵食してしまう事態を避ける為に、エンジェルフォールが誰にも知られない場所で彼(いなくなったクラスメイト)が拘束されていた理由は楠木林檎が教えてくれた。彼女は魔術科に通う生徒の中でもとびきり優秀だ。エーテルを持って産まれた役割を一番理解しているのかもしれない。いいかい、記憶や意識に混入している電流抵抗値の異常をエーテルと誤認させる為に普通科の連中は『白き魔女の善意と我侭なレシピを考案した。確かに発生メカニズムを紐解けば科学と魔術が交差する特異点は存在する。けれど、恐れてはいけないのはやはり君の傷口なんだ。壊疽しているだけの状態を放置すれば、やがて言語が崩壊する。快楽を除去する手段と悦楽を承認するための手段をぼくたちは手に入れるんだ」
「だから君はマイナスファクターを受け入れたんだ。ヘラクレスを聖人として降臨させるのは合計で十三の試練を乗り越えることで手に入れられる不死性なんだよね。『ルネッサンス』を引き起こした2-γの生徒達は魔人である『鬼塚榮吉』の庇護化で彼らの特殊性を担保できる能力を与えられていた。もしかしたら、彼らだけが悠宇魔さんの企みに逆らいたかったのかもしれない。決して誰にも選ばれない使徒たち。彼らは孤独であることをもしかしたら誰よりも理解しているから」
「君が『ピリティス』で楽しんでいたのはきっと副作用みたいなものなんだって思うことにしている。首輪をつけられた飼い犬を八つ裂きにしてどこかで傷跡が癒やされることを望んでいたはずだ。狂おしいほどの感情だっていうのはもう十分伝わっている。けど、時間を重ねれば解決する問題でもない。『ブラックエンド』は担当する領域に関する手順を間違えたりしない」
「オッケー。了解。君の気持ちはよく伝わった。私は夢を見ている間しか使うことを許されないエーテルと心の区別がついていないのかもしれない。それでもね、きっと私は君の恋人だ。引き剥がされてしまったり、不甲斐ない思いをさせたり、裏切ったりすることを傷口に封じ込めても意味がない。私はきっと前に進むこと、成長することを恐れているんだ。私の最後の『穴水』を使おう。お爺ちゃんがくれた大切な宝物。十五個目のピアス。一番大切なものを私はきっと手に入れてもいいんだ。記憶と交換していくら泣いても戻ってこない過去のことを呼び戻そう。それはきっと二人の未来の為なんだね」
 那森弥美は右手をぼくに裏返して差し出す。ぼくはしっかりと握り返してエーテルが二人の間を循環して混ざっていくことを感じ取る。処女の血の匂いに反応してヘラクレスがぼくと融合すると、二つの意識を『エネルゲイア』が繋ぎ止めようとする。
 キンコーンカンコーンキンコーンカンコーン。
「アースフィアを起動します。全校生徒は直ちに大ホールの所定の席まで集合してください。繰り返します。全校生徒は直ちに大ホールの所定の席まで集合してください。13:00より『どうとくのじかん』を開始いたします」
 真っ暗闇だった七星学園七不思議の一つである大ホール内に設置された球体状のモニターに青白い光が走ると、起動音が響き渡り、魔術科及び普通科生徒と全職員の座席を明るく照らし出す。アースフィアには全校生徒の名前が順番に羅列されていき、魔術科の生徒には赤、普通科の生徒には青い文字色で五十音順に球体状のモニターに映し出されていく。南側の普通科、北側の魔術科双方の扉の施錠が解除されると、終業式後の昼食休憩を取り終わった生徒達が続々と入場してくる。各学期の終業式及び前期末に行われる『どうとくのじかん』には全校生徒の出席が義務付けられていることは七星学園創設者であり、理事長七星倫太郎の主要な教育要項の一つだ。学園の理念である──生徒個人の能力に従った独自教育とカリキュラム──を実践していく為の理念であり、視聴に関する制約を通常の高等教育の範疇から拡大している映像プログラムはやはり七星学園の主要な特徴だと言える。
「やっほー! 親愛なるスリーアクターズの諸君。『白き魔女の善意と我侭なレシピの準備は万端だ! 必ずや、この学園を手中に収めようとする輩の行いなど科学の力を持って粉砕して見せよう! リオ、タオ、マオ! アースフィアプログラムのハッキングは完了している! 第二部が始まるまでにはまだ時間がある。陽動作戦に関しては手筈通りだ。さぁ、作戦行動を開始しろ!」
 大ホールは地上一階、地下一階の建造物でぼくと那森弥美は食堂を出て階段を上がり、第一部「古代地球史」に関する『どうとくのじかん』が始まる前の大ホールへと入ると、普通科側で学園一の天才と名高い横尾深愛が彼女の取り巻き達と騒いでいる。
「見つけた。『フラクタルスリー』が結界内に干渉している光量子を探知している。今なら、魔術番号6475番『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』の発動条件を満たしてくれる。触媒はインク。君とぼくが一つになっている状態であれば、決して『デュナミス』は生成されない。可能性の全てを遮断出来る。『猛る暴力と大いなる覇道』と『白き魔女の善意と我儘なレシピ』が対消滅を引き起こしたとしても、おそらく西野ひかりは校内の結界に『旧き魔女の血』を利用した記号と配列のパラドックスを混入させている。けど、ボールペンの在処がわからない。もし、何処かで希望によって光量子を吸収しようとしているのであれば、必ず幻想は打ち砕かれる。弥美。君の傷跡は必ずaemethを解放する。既に消失した術式四つと未だに君を縛り付けている五十の術式。だから、ぼくたちは西野ひかりが仕掛けた罠を利用するんだ。何もかもぼくたち『暗がり』の仕業に見せ掛けられる」
「君は本当に我儘だ。私は君が誰にも嫌われないようにと心の何処かでやっぱり思っている。難しい記号と複雑な配列なんてきっと思春期が過ぎれば忘れてしまう。大切なのは私だけをちゃんと好きだよって伝える勇気の方じゃないか。けれど、それはやっぱり私も同じなのかもしれない。アルテミスはね、きっと疫病を嫌っている。aemethは書き換えられるって信じている人たちと君は本当に戦う気でいるんだね」
 学園に三人いる『ブラックエンド』のうち、生徒会副会長である『黒生夜果里』先輩が担当している領域を明らかにしなければ、おそらく彼女が加護を受けることになったアルテミスは施した縫い目を解いていくことは不可能に近い。だから、『フラクタルスリー』によって学園内に張り巡らされた結界から光量子を探知して消滅を引き起こす瞬間に彼女の名前を知る必要がある。もし、『黒生夜果里』先輩の精霊の名をぼくたちが知ることが出来ればアルテミスが与えた神力を奪い取る可能性が見えてくる。『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』によって50の術式の記号と配列のパラドックスを必ず解消出来る。だから、ぼくたちは『猛る暴力と大いなる覇道』の発動によって満たされる『エレキテル』が最も密集する空間に居合わせる必要がある。
「いえ、お祖母様の呪いは貴方達では決して拭えない。私が施された『黒い憂鬱における魔女の誘惑』には貴様達のエーテルでは決して到達出来ない領域が存在する。抑止力など決して発動させない。私がこの学園を支配する。回路を必ず絶滅させてやる。パンの愉悦から永遠に逃れる術を与えてやる」
 12:53分を大ホール内の電光時計が示していて、少しずつ会場の生徒用の席が埋まり始める。およそ一五〇〇人を収容可能な多目的ホールは学園内の主要な行事の他に、地域住民との教育カリキュラムに関する講演会や招聘された学会関係者の研究発表などにも利用されている。とはいえ、七星学園恒例行事『どうとくのじかん』第一部『古代地球史』ではかつて母なる惑星地球においてぼくたちの祖先である人類が遺してきた負の遺産を視覚、聴覚体験として高等部に所属する生徒全員がアースフィアでの映像を通じて体験させられる、球体状の装置が供給する音と光による過剰な刺激を通じて引き起こされる躁状態緩和の為に、全校生徒にはリチウムを強制的に摂取されてしまう。もちろん、入学の際に保護者からの同意書へのサインは求められるが、一重に自分たちの祖先が巻いてきた人間性の発露を垣間見ても決して感情機能を不用意に揺り動かさないだけの胆力の育成というあたりがいかにも一代にして学園を築き上げた七星倫太郎の思想が反映されている。七星学園という全国にでも他に類を見ない魔術科と普通科が併設された高等教育システムの非凡さを象徴していると言えるだろう。
「あぁ、困った。『パピルスに描かれた世界で最初の記号と配列の復元行為』に記載されるべき声をまた見つけてしまった。やはり彼女の方はぼくにもとっくに気付いている。覇王は確かにぼくなんて気にもしない。三者の思惑がぼくたち二人の考えている自由の行く末を阻害する。けど、大丈夫だ。弥美。『フラクタル』はぼくたち回路持ちが築き上げてきた知識の結晶なんだ。どんな困難であったとしても発動条件さえ満たせば必ず打ち砕ける。運命という装置をなんとしてでも破壊するんだ」
「あーあ。嫌だ。嫌だ。君は女の子の夢や妄想なんて最も簡単に台無しにしてしまう。誰だって世界で一番お姫様でいたいって願望を君のエゴイスティックで強烈なヒロイズムだけで奪い取ってしまうんだ。男の子だからってなんだって許されるわけじゃない。君が私を必要としているように、私だって君をちゃんと必要としている。忘れられない思い出だけをいくつも縫い合わせてくれるのなら私も呪縛から逃れられるって信じてあげよう。戦うことには本当は不向きな身体なんだって今度こそ思い知らせてやる」
 本当だなって二人で手を繋いでしっかりと離れないようにしっかりと握り締めて予鈴がなる瞬間に合わせて目を閉じる。だってぼくと君は最初から約束をしていただけだし、こうやって大切な時間を過ごすんだってことを予め知っている。誰かに教えられた訳でもないし、何処かから伝え聞いた訳でもない。誰にも見せることが出来ない大切な『NOTE』にちゃんと書き込まれていた覚え書きできっとそんなことは言葉にしたってどうにも理解なんて出来るわけがないんだ。何もかもを要約してくれる誰にも受け渡すことが出来ない真実のことをぼくたちは大ホールに鳴り響く七星時計の鐘の音と共にゆっくりと噛み締めてみる。
 『NOTE』が分割させていく時間構造が光量子に反応してぼくたちの周囲を満たしていく。極限値まで設定された映像の過剰な刺激による躁状態を防ぐ為に、着席した椅子にリストバンドで固定された生徒たちの静脈に自動的にリチウムが注射されていく。古代人類史は当然ながら人類が残した負の遺産として惑星型船団ガイアの中枢サーバー『EDEN』に保存されていたデータが復元されて映像化される。旧人類の記憶が抽出されていく過程で、本来は知覚的に共有することのなかった集合的無意識に至る視空間スケッチパッドが映像信号として全校生徒達の認識情報を変化させていくアースフィア。0と1にまで変換された情報には善と悪という社会通念が排除された状態で全校生徒達への教育システムに取り込まれる。例えば、成長という過程において体験が与える人格の変化は現代社会という枠組みの中で作り出された共通の価値観によって定義され続けてしまう。七星倫太郎の志す──生徒個人の能力に従った独自教育とカリキュラム──を達成するために必要なエーテルという特殊性の付与を平坦化、つまり平等という模範性を解体する精神構造を育成する。故に、劣性遺伝子による能力向上可能性が法概念からの逸脱を志向するのではなく、特性の平坦化によってより顕著な特異性を自覚することになった結果、高等教育過程で獲得された個別自我が将来のより高度な選別教育にも反映されていくことになる。
「只今より『どうとくのじかん』第一部、古代地球史を放映致します。尚、生徒の皆さんには感情機能の安定を目的とした薬剤が着席されたシートから自動的に注入されます。くれぐれも上映中の私語や身勝手な行動は慎むようにお願い致します」
 終業式などが行われる各学期末ですら講堂は第二と第三を使用する為に、魔術科と普通科が同一の空間で過ごすことは少なくとも七星学園においては体育祭と合唱コンクール以外では許されていないけれど、アースフィアは全方向性モニターとして大ホールに集まった生徒達が同時に体験出来る装置を提供している。『職員会議』は当然ながら入学の際に保護者同伴で誓約された同意書に基づいて感情安定薬剤による副作用が生徒達の精神状態に悪影響を与えてしまわないか目を光らせている。彼らには管理社会のシステムに基づいて構成された知識があり、画一化を目的とした教育機関の本懐を見失うことのないように職務を遂行している。だからこそ、ぼくたち魔術科が保有しているエーテル能力との差異を普通科生徒達は社会的実践に伴う経験以上に思い知っていくことになるのかもしれない。
「一つ。君はきっと思い違いをしている。ぼくは永遠を信じているわけじゃない。パンの愉悦に溺れるくらいならベクトルを捻じ曲げたって意志を通す」
「あぁ、その通りだ。真司は私に嘘なんて言わない。間違ったことは何度だってあるけれど、私が全部否定してあげられる。君に真剣な気持ちをぶつけるのは私一人で十分だ」
「二つ。君は戦いの果てに得るものをぼくが必要ないって思っている。目の前にあるものを信じられるぐらいなら『穴水』なんて選ばない。たった二人でいることを願うことが許されないのならぼくは全てを犠牲にする」
「すべて? 私を捨てられるわけがないのに君は簡単に何もかもいらないなんて言っている。全は一で、一は全だ。エーテルがなくたって私たちは絶対に変わってなんかやらない」
「三つ。君が選ぶ答えを知っている。引き剥がれるかもしれない輪廻をぼくたちはやっぱり潜らなくちゃいけない。最初に会った時から何もかもを覚えている。もう二度と訪れないあの瞬間だけを答えなんだ。失いたくない」
「ほら。君はそうやってすぐ甘えようとする。けれど、私が欲しいのは決して心なんかじゃない。簡単に真似事が通せるような見えない何かなんかじゃないんだ。だってもし本当に伝わっているのなら絶対に間違ったりなんかもしない。忘れる必要も失う必要性だって全然ない」
 仕掛けはもう十分だって顔をして学園内に張り巡らされた結界の内部で、三者が不敵に笑い、既に勝利を確信したと確定的な未来を蹂躙するようにアースフィアにぼくたちのご先祖様である旧人類の所業が大ホールで上映され始める。巡音悠宇魔、横尾深愛、西野ひかりの思惑がエーテルを媒介にして光量子に反応してぼくと那森弥美の周囲を満たし始める。複雑なオーケストレーションを響かせて、ぼくたち人間が禁断の果実を手に入れて原罪を抱え、神との対話を拒否した生物なんだって事実を音符に変えて鼓膜を刺激する。
「私たちが古代社会において狩猟性を徐々に剥奪された理由の一つに、余剰の生産と担保があります。古代社会において生まれた余暇は人類全体に文化という属性を付与しました。機能的循環を円滑に進めるために利用された信仰が危険性を伴う集団の維持に活用された。つまり、道具の再利用という形で文化自体をより洗練さえ発展させることに成功しました。また、それに伴い、恐怖という概念が駆逐されることに端を発する死という根本原理の外在化が行われ始めたことも現世人類に村落という意識を誕生させました」
 何故ぼくたちが自我と他我を個別に考えて発展させることが出来るようになったのかを文化の洗練という形でアースフィアが教育システムの中に組み込んでいく。生きていたいって願望を成就させる為に繰り返された野生動物の獲得行為を身体機能の拡張という特性から恒常的安定状態へと導いていく。
「だが、お前たちは既に失われた。天部は俺に解放を臨まず惰性の許容を促した。エーテルの本懐とは弱者蹂躙に他ならない。金獅子は被捕食者を溺愛する喜びを堪能することにこそ使命を感じるべきだが、さて、貴様はどうする? 狐。肉食動物の野生を手に入れたお前はどうやって俺に勝利を収めるつもりだ。見せてみろ、勇者の証を。満天の夜空を手にいれる意志を示してみせよ」
 巡音悠宇魔が捕食者の眼光をちょうど向かい側の席に座っている普通科の生徒に対して向けている。彼の術式に抜かりはなく、学園内に存在するAクラスからDクラスの聖人属性を持った生贄は既に体内のエーテル量の半分以上を奪われているようだ。PEPS及びPUEPSが生来的に魔術科に通う生徒たちが抱えている問題だとするのであれば、偉人たちの遺した魂を宿した生徒たちにも日常生活のおける摩擦はより顕著に現れる。覇王の画策した七星学園に対する宣戦布告とは、つまりは聖人属性を付与された生徒たちへの救済だったと考えられる。だが、普通科の人間にとってはどうだろう。魔術回路は産まれ持っての能力の格差が存在するという絶対的な事実であるはずだ。法概念によって社会の中で排除構造の一部として取り込まれているエーテルという不可視概念は優性人種にとって日常生活を送る上での明らかな阻害因子となっている。ぼくらは既存の高等教育と七星倫太郎が志す理念を混合させた授業を受けることで現代に適応する人間性を育成されている。横尾深愛は巡音悠宇魔の平等論理を徹底的に否定することをたった一人で構築している。彼女はいうまでもなく科学の申し子だ。彼らは自身の頭脳を持ってして魔術回路を持った人間に追いついたとまで呼称され、おそらくは彼女自身も自覚的な態度と行動で期待に応え続けている。『ザファーストチルドレ☆ン』の構想に対して『職員会議』を見過ごす以上、相対する存在として横尾深愛もまた彼と同じ論理もしくはそれ以上の事実を持ってして七星学園を巨大な餌場に変えてしまおうとするはずだ。たった二人の生徒によって学園全体が翻弄されている事実を西野ひかりが利用出来ているのは学園に存在する『ブラックエンド』の影響が大きい。『aemeth』は666を量産して、ナンバーズを覚醒させる。日夜ニュースを賑わせている七星町連続殺人事件の犯人が宝生院真那を含むナンバーズの仕業であることはナルコレプシー楠木林檎の言動からも推測出来る。『ブラックエンド』の一人は生徒会副会長も兼任する黒生夜果里であり、彼女は『ザファーストチルドレ☆ン』である巡音悠宇魔の右腕だ。七星町の治安維持という名目で那森弥美は黒生夜果里の施した通称『アルテミスの口づけ』によってインターネットウィルスとして思考を感染して666を量産していた『aemeth』そのものを彼女の左腕に封じ込めている。では、ぼくは一体誰を許せばいいのだろう。学園や人類や職員会議や町内会の利益を優先して、劣情そのものを恥じたまま生きるべきだろうか。深夜の学園屋上に降臨していた聖人『ヘラクレス』はぼくに十三の試練を乗り越えさせることで、不死性によって『Re:aemeth』のリプログラミングを回避するべきであることを教えてくれた。そして、波切海月が渡してくれた彼女自身の可能性『エネルゲイアのエーテル』によってぼくは学園全体に量産された『デュナミス』を完全に消滅させる手段を選ぶことが出来るはずだ。『フラクタルスリー』は有り体に言えば、洗脳状態を初期化できる高等論理術式だ。ぼくが築いたクラスメイトたちとの日常を忘却の渦へと転換させることで、ぼくと那森弥美は恋をする。とてもシンプルで明快な答えだ。ヘラクレスとアルテミスが手引きした超越性がようやく学園生活を取り戻させてくれるはずだ。だから、きっとこの『どうとくのじかん』が終わる頃には魔術番号6475番『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』をボールペンのインクによって書き込む必要がある。甦れ。黒灯真司。ぼくは那森弥美を必ず救うんだって約束をしたはずだ。

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