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「はい。ちゃんと全部対応しますからちゃんと順番通りに整列してください。今日中に受領できないものも明日にはなんとかなりますよ。それじゃあ二十三番の方、四番の窓口までどうぞ」

国家殺人管理機構は2024年2月に開設されるやいなや行列が途絶えることのない2026年現在最も忙しい国家機関となった。連日連夜、敵討ち法に基づいたエーテル保有者に関する私的、あるいは公的な執行対象者への申請を受領し、厳密で厳正なる職員による審査を通過した事案のうち、法務大臣の許諾を得たものが即時執行された。故に、エーテル、つまり魔術回路有りと認定されている保有者たちは魔術対策基本法第十四条に基づき、個人の完全な情報公開の責務を果たすためにこぞって優性人種保護法による保有者の保護政策に賛同の意志を表明した。つまり、時の内閣総理大臣上条真悟は優性人種として保護される魔術回路を持った人間たちを劣性遺伝とされる魔術回路を持たない人間の明らかな害的対象として認定したのである。この動きを政治評論家たちは新自由主義、グローバリゼーションに対する明らかな宣戦布告であると与党公民党を、メディアなどを通じて猛烈に批判した。野党はそれに追従するように正義の天秤制度に基づき衆参両議員の過半数を超えて可決された敵討ち法を盾にエーテル被害者への執行申請を後押しした結果、国家殺人機構”エディプス”は忙殺によって被雇用率を押し上げる最も就職率と離職率の高い省庁となる。

「あの。隣の住人が明らかにエーテル持ちでですね、いるだけで迷惑っていうか。あいつ絶対エーテルを自宅で使用しているんですよ。執行願いを受領して欲しいんですけど」

「えーと。まずあなたの住所と名前を確認させてもらいたいので身分証明書を提出してもらってもいいですか?」

「だから、ぼくじゃなくて隣の住人。ぼくはれっきとした普通の人間。わかります?ここ?」

「ですから、執行願いを出す側も身分証明書の提出が義務付けられたんですよ。匿名による執行願いは魔術対策基本法第四条に抵触するからってことで三ヶ月前に改正されてるんです。ニュース見てないですか?」

「はぁぁ?こんなのエーテル持って産まれたやつが悪いでしょ?なんで普通に生きている俺が身分証明書まで提出しなくちゃいけないんですか?」

「あのですね、そもそも匿名による執行願いのほとんどは棄却されていたのをわざわざ法改正してまで受領出来ないようにしたんです、分かってくださいよ」

「なんだ。おまえ。おい、責任者を呼べ。そもそも公僕たる公務員が偉そうに一般人にたてつきやがって。何様のつもりだ。税金で飯を食ってるくせに」

「残念ですが、”エディプス”の運営は民営化が国会で審議され検討されています。今はほとんど炙れた財源を利用して私たちが細々とした給料でこんな目にね。それもこれも野党の連中が」

窓口でうっかり愚痴を漏らした眼鏡に七三分の男性職員に受付カウンター越しにパーカーにジーンズ姿でフリーター風の男が飛びかかろうとするのを偶然見つけたアイシャ・トルーマン・川上総務部主任が仲裁に入って止めようとする。アイシャはフリーター風の男の書いた書類に申請者の住所と名前が記載されていないのを確認すると二つに切り裂いて男を睨みつける。

「いいですか。公務員もちゃんとお給料もらって仕事してますし、給料外のことは対応できかねます。どうしてもっていうなら正義の天秤制度に基づいて排除係として私たちを手伝ってもらうことも可能ですけど大丈夫ですか?はい、これ敵討ち法に関する案内書。よく読んでおいて下さいね」

「なんだよ、ねーちゃん。おまえは公平なる市民の味方ってやつか。け。バカらしい。いいよ。もう帰る。大体よ、バイトの面接断られたのだってやつのエーテルが俺の頭の中をだな」

はいはいと宥めてフリーター風の男を黒いタイトなスーツで出来るだけ大きな胸を強調しないように努めている白人系ハーフで金髪のアイシャが受付でついうっかり私的な対応をした男性職員を叱咤している。男性職員は不貞腐れたように眼鏡のズレを直してアイシャの小言を聞き流そうとしていて彼の態度に苛ついたアイシャは男性職員の胸ぐらをつかんで席を立たせて居直らせようとする。

「すいません。十草総悟です。窓口で名前を伝えれば話が通るようにしてあると言われてきたんですけどアイシャ・トルーマン・川上さんと会うことは出来るでしょうか」

隣の三番窓口の眼鏡をかけて冴えない女性職員に十草総悟が影虎篤睦に言われた通り自分の名前を告げる。男性職員の胸ぐらを掴んで睨みつけようとしていたアイシャが手を離して三番窓口に訪れた体格が良く健康的だけれど、どこか影のある十草総悟のほうを見て驚いている。

「えっと。アイシャは私です。十草総悟さん?てっきり憂鬱がここに来るものだと思っていたのに。あんな奴の手伝いなら断ろうと思ってたけど。そう。あなたが。じゃあちょっと来てくれるかしら。課長には話をしてあるから大丈夫」

エディプスはとても忙しそうに職員たちが走りまわり、執行願いや排除係の申請にきた市民たちの怒声や涙声で溢れかえっていたけれど、まるで時が止まったみたいに国家殺人機構”エディプス”庁舎内で十草総悟とアイシャは向かい合う。電光掲示板には新しい執行者と執行人と排除係の名前が流れている。十草総悟は右腕に嵌めたSpace Masterで時刻を確認すると、総務課へと彼女に案内されるがままアイシャの後ろをついていく。右目には総悟の電子制御された脳髄のパラーメータが平常時とは違う数値をカメラアイに表示されて、もしかしたらまた宝生院勇生に揶揄われるかもしれないと総悟は人工心臓が送り出す人工血液の脈拍を適切な状態へと戻せるように意識を落ち着かせようとする。

「あの。六蟲さんの知り合いなんですか?”M”の件で伺ったんですけど、急ぎじゃないならあの人すぐに東京に戻ってくると思いますよ」

「彼は“ジョーカー”の仕事をしてるんでしょ。じゃあ三ヶ月は帰れないわよ。それに出来たら”M”だけじゃなくて他の執行者のことも出来たらお願いしたいの。人手が足りていない、受付の様子見たらわかるでしょ?」

「あなたの負担を減らしてくれっていうのが依頼ですからご用件があればなんなりと。”M”は元気でやっていますか?」

「会ったことがあるのね、彼と。ねえ、あなたは”現場”は見たことがあるの?」

「というと」

「だから、執行人と排除係が実際に仕事をするところよ。憂鬱はそういうのなんでもないでしょ、だから」

「なるほど。人が死ぬところを見るのは大丈夫かってことですね」

アイシャは立ち止まり振り返ると、総悟のほうに近づいて訝し気に彼の顔を覗き込む。彼女は総悟の胸に触触り、肩に触り、脇腹に触れ、人工筋肉で出来た彼の身体の具合を確かめる。総悟は自分がサイボーグであることはしばらく黙っておこうと彼女の仕草を見てそう決める。

「人は見かけによらないってことかしら。そう。あなたが問題ないならそれでいいの。ついてきて」

アイシャと総悟は国家殺人機構庁舎の二階へと上がり、階段を登ったところの廊下をまっすぐ進んだ先にある総務課へと二人で並んで歩く。通り過ぎる職員がアイシャの顔を見るたびにちょっとだけ遠慮深そうに道を開けようとする。アイシャはそんな職員の誰も気にすることがなくずかずかと進んでいって庁舎で一番陽のあたりがいいと評判の総務課へと総悟を案内する。

「お疲れ。受領課からちゃんと書類はもらってきたかしら?アイシャちゃんは、仕事は出来るけど物忘れが酷いのがたまに傷だから」

「猿橋課長。お使いなんて一色でも出来るんですから、わざわざ妙な動物的直感働かせて、揉め事の仲裁なんてさせないでください」

「先輩!その気持ちすごくわかります!課長って仕事はできなくて弱気な癖に妙な気だけは回るんですよ」

総務課課長猿橋がアイシャの仕事を労うと、アイシャの後輩である一色が勢いよくデスクを叩いて立ち上がる。強気で責められたことに猿橋が軟弱な態度で応じながらもうまくいなすようにして宥めると、猿橋は一番奥の自分の席に戻って細長いヤスリで爪を磨いている。紺とえんじ色のサスペンダーを白いワイシャツの上からつけている猿橋は弱気な態度の割にはとても男性的な体格をしている。

「一色。猿橋課長を見くびっちゃダメ。彼はこう見えても厚生労働省勤務後、民間の保険会社へ出向して難なく好成績を収めて堂々と”エディプス”へ天下りしてきた強者よ。彼の見た目に騙されないように。それと、課長。例のバイトの件ですけど、”Mr.X“から派遣されてきたのが彼です。君、もう一度自己紹介お願いできるかしら」

アイシャのちょっと後ろにいた総悟が一歩前に出て実直そうな態度でお辞儀をして挨拶をする。一色が少しだけ気になる素振りを見せたのを猿橋が気付くけれど総悟の顔をみて安心したように爪にヤスリをかける作業に戻っている。反対側の席では書類の山の中から黙々とキーボードがタイピングされる音がしてちょうど午後の西日が窓から入り込んでくるのを一色が眩しそうに感じている。

「初めまして。十草総悟といいます。身体には自信があるのでハードな作業も任せて下さい。アイシャさんのお手伝いで派遣されてきました」

「十草君ね。けっこういい男じゃない。アイシャちゃん、この分なら現場をあと3件ほど追加してもこなせちゃうんじゃない?」

「馬鹿言わないでください。猿橋課長。私は今日で三日続けてサービス残業です。麗しき公務員とは思えない体たらく。きちんと定時で帰れるようにこのバイト君を呼んだんですから」

「まったく働き盛りの女がよくいうわ。それで?今回は誰がどこでどうやって執行されちゃうのかしら」

「言い方が下品です。猿橋課長。残業なんて大嫌いですけど、私たちはあくまで公務員として敵討ち法の執行に携わる身なんですよ。まるでテレビドラマか何かのようにいわないでください」

「あら。わかっているじゃない。そのあたりちゃんと一色と名取にはきつく教え込んでおくように」

左側の窓側の席でこざっぱりとした公務員らしい髪型で眼鏡をかけた真面目そうな男がキーボードを叩いた手を止めて図星をさされたことをバレないように右手の人差し指で眼鏡の位置を直そうとする。

「ぼくはちゃんとわかってますよ。エーテル保有者は人間。怨恨や憂さ晴らし目的で気軽に申請を出してくる市民とは切り分けて仕事をしているつもりです」

「あー。はいはい。アイシャちゃんにあまり面倒をかけさせるんじゃないわよ」

「とにかくやっと法務大臣が判子推しました。今回は五人。いずれも本当に曲者揃いです。排除係は一人が指名で来てます。あとはいつも国選人がつくことになりますけど」

アイシャは入り口付近の白い掲示板に一枚ずつ法務大臣の反抗が押されて執行対象者の写真付きの執行受領書を張り出していく。一色が少しだけやりきれない顔をしてアイシャの張り出した執行対象者の顔をちらっと伺う。

「当然ながら指名がついているのは”M”だとして、他の四人は初めてなのかしら。アイシャちゃん詳細をよろしく」

「わかりました。ではまずは一人目。鯨井憶。女性。人形のエーテル。彼女は極私的な理由のみで、人形のエーテル、つまり彼女が対象として見定めた人間の意志と行動を一定時間の間だけ自由に操作出来る能力を使い、三名の男性に精神干渉を実行。彼女のエーテルは頭髪など簡単な遺伝子保有物を利用して実行可能な為、物的証拠の立件が不可能に近く執行までに手間取ったものと見られています。決め手となったのは、三人目の被害者仮称K・Tの意志制御に不自然な意思決定と脳反応が彼の健康診断の際に偶然見つかったことに起因します。ただここでさらに問題となっているのは」

「複雑だけれど、さすがにもう見慣れてきたような案件ね。五人もいることだし、その先は今日は飛ばしましょう。排除係は通例通りならば、一番お金のかからない国選人になりそうね。その辺の判断はアイシャちゃんあなたにお任せするわ。次お願いできるかしら」

「はい。次に二人目。蓮花院通子。女性。テルルのエーテル。これは異例というか特例というか。課長、関西で最近規模を拡大しているNiner Factoryという会社をご存知ですか」

「知ってるも何も今をときめく貿易会社。けれど、確かに知る人ぞ知る会社ではあるわね。これほど大胆に真っ当な企業を宣言されると誰も文句はいえないわ」

「話が早くて助かります。表向きは確かに成長著しい新興企業ですが、実態は麻薬の密輸事業において関西圏を一手に牛耳るマフィアグループE2-E4の隠蓑。彼らは勢力拡大の為に殺し、盗みなんでもありというのが実情ですが、女子供には妙に優しい。特にボスの九条院大河は」

「知りすぎることは罪になる。いいお勉強になるけれど、ここの二人にはそれ以上先は少々刺激が強い話ね。要点だけを明確にして話を進めましょ」

「了解です。蓮花院通子はE2-E4の事実上のナンバーツー。ですから法人指定執行対象者です。彼女はNiner Factoryの利益を著しく侵害しているという理由から強制的に執行が許諾されています。ですので、排除係は必要最低限になるものと見られます」

「あはは。嫌になっちゃうわね。合法的殺人許可証が最も有効に活用される一例。何の罪もない人間が次の日世界から消えていなくなっている」

「課長!その呼び方は蔑称です。公の場での使用は控えてください!」

一色が血相を変えて立ち上がり、再びデスクを叩いて猿橋に抗議する。

「そうね。口は災いの元。ついつい余計なことを口走っちゃう。悪い癖ね」

「ただ問題は彼女の持っているテルルのエーテルですね。使用者及び使用半径10メートル以内の人間に特定の性質を持った癌細胞の活性を促す特異なエーテルですが、ご存知の通りテルル合金は人工衛星などの開発に必要不可欠なレアメタル。当然ながら彼女の能力も関係省庁や宇宙開発事業に携わる企業が喉から手が出るほど欲しがる特殊エーテル」

「あら。それなら排除係が指名制でないのはおかしいわね。何か裏があるとみたわ」

「なんですけど。少し私情を挟んじゃいます。はっきり言って私が排除係に大金積んでなんとか解決したいぐらいなんですよね、正直」

「あら。六蟲君の件ならこちらも把握済みよ。私の情報網を舐めないで頂戴」

「Missile Scootの件ですか。まさか彼らもリニアレール問題がここまで長引くとは思っていなかったでしょう。とうとう最高裁までもつれ込んでいる」

西日の差し込む窓際の席で眼鏡をきらりと光らせている名取が鋭くアイシャの抱えている悩みを指摘する。

「そうね、名取君は相変わらず気が効くわ。濡羽島架楽は私の大学時代の同僚です。男運の悪さがたまに傷というか」

「あら。アイシャちゃんにしては珍しく男関係じゃなくて友人関係の悩み?悪いけれど、それじゃあ私は相談に乗れないわね」

「どちらにしろ課長のお世話にはなりません。結構です。とにかく、件の短距離空間転移装置に関する裁判沙汰だけでなくて、彼女のところはその」

「わかっているわよ。死野川一角がかつて経営していた※7Stereotype A。彼女と彼女の部下はその手足であり濡羽島家は死野川家の300年続く御庭番。夢島、鬱ノ木、それに呪谷はそれぞれ家業で濡羽島家と密接に繋がっている」

「はい。法人指定執行人であれば、十中八九、元Stereotype Aの人間から選出されるはずです」

「次男の千羽なき後、長男の一角が執行手続きとその結果に関する配当金を一挙に独占。全く食えない一家よね、死野川家は」

「人なんて殺したくないという次男の我侭で代々続く暗殺稼業から一家全員があっさり降りてしまったと思ったら、今度は執行をネタにして賭場を開いて大儲け。我が国最大の闇と言われていた負の遺産が法改正と共にあっという間に富裕層の為の遊び場へ早変わり。一説には一晩で動く金の単位は数十億はくだらないとも言われています」

「つまり、九条院大河は蓮花院通子を売ったのではなく、賭けの対象としてフルイにかけたと」

「はい。結果次第で蓮花院通子は生死如何に関わらず人生が大きく左右される。で、友人はマフィアと大金持ちたちの道楽の為に、部下に理由のない人殺しを命じなければいけない」

「難儀な話だけれど、こちらも仕事であちらも仕事。同情している余地はないんじゃないかしら」

「リニアレール問題がなければ私もぜひそうしてあげたい。なぜなら」

「Missile ScootはJR東日本との二年越しの裁判抗争の真っ最中。問題児たちのlunaheim.coにいっぱい食わされたというわけかしら」

「私には口説き落とされたように見えてしまって」

「我がことながら共感と」

「はい」

猿橋課長はアイシャとの矢継ぎ早のやりとりを中断して総悟の顔を一瞥する。彼はまるで何もかもお見通しであるかのように表情を変えずアイシャの傍で彼女も守る騎士のようにして立っている。

「わかったわ。私的理由だけどアイシャちゃんは頑張ってくれているし、私も課長権限で緊急時特命排除係第二種の使用を許可しちゃいます。まぁ、人数制限めいっぱいの三人がかりならなんとかなるでしょう。もちろん元Stereotype Aから誰が選出されるかによるけれど」

「ありがとうございます。続いて。彼はその為に呼びましたから」

「総悟君を?じゃあ彼は”Mr.X”の。なんだか懐かしい思い出話を私にまでさせちゃいそうになるのね。あなたの仕事はいつも美しいわ」

「うわ。課長。彼氏ですか?それとも彼女?なんだかそれ気になります!」

「一色ちゃん。仕事中よ、私語は謹みなさい」

一色が出過ぎた発言を課長の猿橋に優しく窘められるけれど、彼女はまるで借りてきた猫のように大人しくなってニコニコと妄想に浸り始めている。

「さて、三人目いいですか?こちらも法人指定執行対象者ですけど。”ドラゴニア”っていうプロレス団体のしかも女子レスラーらしいです。私、こういうの疎くて全然知らないんですけど、プロレスラーなんだから何も殺さなくても試合で晴らせばいいのにとか安易なことを思ってしまいます。多分、友人もこのぐらいなら素直に部下に命令を出せるのかな。とにかく吾妻龍泉歌。このプロレス団体で一、二を争う人気レスラー。通常ならライバルレスラーが怨恨でって線が濃厚なんですけど依頼主は”All Apologies”っていう知らない会社。悪いんだけど、名取君。この会社について詳しく調べてみてくれないかな」

「あ。はい!お安い御用です!もうなんなりと。すぐにでも。必ずやり遂げます!」

「うーん。そんな大袈裟な話じゃないけど。とにかくよろしくね」

急にやる気を出して前のめりで仕事をし始めた名取を見て一色が妙にもどかしそうな顔をしたのかと思うと、急にやる気を失くしてネットサーフィンを始める。お気に入りのハイヒールを見つけたけれど、定価98000円という値段に辟易してブラウザを閉じて仕事に戻る。彼女の視線の先の名取は西日が指していてなぜか光り輝いているのを一色は気のせいだと思い込んでアイシャの話に耳を傾ける。

「でもどうして?小さい会社の法人指定なら国選排除係で十分だし、私たちがそんなに手間をかける必要性はないじゃない?」

「そうなんですけど。執行対象者の削除要請の理由が不可解なんです。彼女のエーテルは花のエーテル。まあ、掌から魔法の粉を振りまいて花壇に花を咲かす程度の本当に無害すぎて例え道端で使ったとしても誰も咎めないようなその程度のものです。けど、削除理由は極彩色による刺激性視覚媒体の影響で公共の利益を著しく損なうとともに生態系のバランスを崩す能力であり環境保全的観点から見ても即刻抹消すべしってこんなのがよく法務大臣の許可を得られたなって思うけど、要は目障りだから消してくれって話なんです。法人指定って審査が厳格だからNiner Factoryみたいな巨大企業はともかくこんな小さなプロレス団体の運営の為に認可されるなんておかしいなって。絶対多数の幸福って観点から見てもなんだかきな臭いっていうか」

「うーん。一応上司判断でそれ以上の詮索は止めておくわ。国家殺人機構はあくまで裏社会が担っていた必要悪を公共事業として請け負うことになっただけと言っても過言ではないの。もともとあったものを私たちがまざまざと見せつけられている。何度も言うけど知らなくていいことは」

「それは違います、猿橋課長。私たちは必要悪として存在していた事例を公平かつ白明の元に判断して適切な理由でのみ実行可能にすることを目的として設立されました。もし理由なき暴力が存在するのであれば、私たち総務課には緊急時特命排除係第一種の使用が認められています。ですから執行理由の裏付けに関しては細部に至るまで私たちの仕事です」

パチパチパチパチと課長の猿橋と一色が拍手でアイシャの言葉に感動して、名取が得意げな笑顔を浮かべて眼鏡を手に持ってアイシャの凛々しい姿を覗き見ている。演技なのかそれとも本音なのかわからないけれど、猿橋の目元からきらりと光る涙が溢れて彼は人差し指で涙が溢れないように抑えている。

「わかったわ。いつもあなたの熱意に押し切られてしまうわね。いい、一色。名取。それに私もそうなのね。私たちは人殺しを楽しむ為のエンターテイメントを提供する集団とは違うの。もし法の枠組みで裁けない人間がいるのなら私たちが制御をすることで実行可能にする。ミステイクの許容範囲を拡張する為の機関と言い換えてもいい。アイシャは決してぶれないわね」

アイシャの傍で黙って話を聞いていた総悟は腕を組み、自分がやるべき仕事に関してCordex-9に集積された情報を利用してアイシャの会話から得た性格的行動パターンから類推される未来を予測して危機的状況遭遇確率の演算を開始する。彼女の言う通り順調にことが運ぶのであれば、総悟が厄介ごとに巻き込まれる可能性は限りなくゼロに等しいはずだ。けれど、彼女が追い求めようとしている変数Xの値に不確定要素が多過ぎる。どうやら、総悟の仕事は彼女が打ち消そうとしている変数Xの処理に終始することになりそうだと総悟は結論を導き出す。

「さて。四人目。私が特に問題としたいのはこの執行対象者です。名前は布川唯芽。彼女の固有エーテルは嘘のエーテルですが、現在は使用不可能な状態に陥っています。嘘、つまり対象の認識情報を変化させる類の強烈な精神干渉系ですが、彼女は七年前にその能力のほとんどを失っていますが原因は不明。心理的要因を疑っていますが、彼女自身はその原因を知っているものと思われます。そして、彼女への執行依頼件数は現時点でエディプス始まって以来の534件。単一の依頼者からだけではなく多くの人々が彼女への執行を依頼し、残念ながら受領課に確認したところその件数は増え続けています。ただそのうち能力を失ってからの依頼を受領課は失効案件として未処理で対処していますからやはりそれだけでも受付はパニック状態です。延べ人数では確かに他の執行案件の中にも上回るものもありますが、彼女は地方窓口からの依頼も絶えない。正直に言えば、法務大臣が判子を押した理由がこの圧倒的な執行件数でしかないんです。彼女自身は法改正以前からほぼごく普通の暮らしをしているに過ぎず、他にさしたる執行理由が見受けられません。私は執行理由の不足から排除依頼の却下を申請するつもりです」

「けれど、本当に法務大臣はそんないい加減な理由で判子を押してしまったのかしら。匿名依頼が法的に制限された今でも依頼が続いているのであればそれなりに理由は存在しているはずよね」

「私、知ってますよ。それ。ネットの掲示板で見たことありますから。あの、彼女は能力を奪われる以前にエーテルを相当悪用していたって話なんです。法改正は彼女の執行の為に存在した!なんてネットの書き込みも見たことあるし、話が本当なら私も頷いちゃう。冗談で、ネットのアンケートにYesを入れちゃいそうになったこともありますから。一応、仕事は仕事なんで控えましたけど」

一色は少し困った顔をしながら布川唯芽に関するネットの情報をブラウザで表示する。マウススクロールしながらどれが本当なのかどうかわからなくなってしまった情報源の判別不明な書き込みを一つずつ確認している。アイシャは嘲笑するようにして彼女のほうを見るけれど、軽く咳払いをして話を続けようとする。猿橋もヤスリで爪を磨くのを辞めてアイシャが集めた布川唯芽に関する情報の信憑性と拡散性と敵討ち法に基づいた執行条件を確認しようとする。名取だけがただ黙々と作業を続けながら今回許諾された執行受領書に関するデータをExcelへとまとめていく。

「情報の真偽性に関してはこの件では特に問題とされていないわ。私が話しているのは重要度という点で量的問題でしか執行条件を満たす性質が見受けられないことを私たち総務課、ひいてはエディプスがどう判断するべきかという話をしているのよ。なぜなら彼女のエーテル被害は残念ながら法改正前の七年前に行われた経歴しか見受けられず、厳密に敵討ち法を精査してみると執行理由に該当しない可能性が高いからよ」

「アイシャさん。それは敵討ち法第七条がおそらく適用されているせいです。曰く、『エーテル被害に関して例え犯罪時期が2023.10.17以前のものであったとしても被害者の精神的負荷が一定限度を超えた場合、当該法第三条に明記された執行条件の充足に値するものと認定される。』という項目です。つまり一定限度を法務大臣は依頼者数に換算して執行判断を下したと考えられます」

「だとすれば、彼女のエーテルがもたらした被害情報が明確に提出されていなければおかしいわ。いい?今案件で最も重要なのは多数派の論理によって被害情報そのものが偽装されている可能性が高いところにあるの」

「認識情報が変化していたのならば、現実に何が正確に起きていたのかを被害者が自覚している可能性が低いと言うことね。第三者の介入がなければ、被疑者の与えた情報、つまり嘘のエーテルによって作られた情報が現実に起きていた事態と同一であった可能性すらあるということになるわね」

「布川唯芽の固有エーテルは、世界的にみても類例が少ないかなり稀有な能力でエーテルの効果について実証できる機関が非常に少ないの。過去50年の情報を探ってみても彼女と似たエーテルが発見されたのは34年前に福岡県の某山村部での一例だけ。だからどのように認識情報が変化するのかは結局のところ、被疑者と被害者の証言に基づいた情報でしか判断ができないのよ」

「まったくこんな仕事をしているから役所の連中は事勿れ主義だって揶揄されるのよ。でも、アイシャ。疑わしきは罰せずは司法権力にしか適用されない原則よ。法務省直属とはいえ、エディプスは司法とは独立した機関であるからこそ合法的殺人が許諾されている。ここまで来ると強制執行が目に見えているわ」

アイシャはひどくイラついた様子で白い掲示板を右手の拳で叩きつけると、一色が怯えながらネットサーフィンを中断する。名取はニヤニヤとした笑いをやめないままひたすらにキーボードをタイピングして情報を整理して精査して確認している。

「わかりました。なら主任権限に基づいて排除係には国営特選排除係を任命します。いいですか、こんなことを許してしまったら私たちエディプスはただの殺人集団に成り果ててしまいます。絶対に殺させませんから!」

猿橋が右掌で顔を仰ぎながら、熱くなりすぎるアイシャに呆れながらも喜んでいる。執行制度が野党に大幅に指示されていた理由の一つに死野川家が主宰する富裕層向けへの遊戯性と供に、国営によるいわゆる人体実験的側面を大幅に許容した制度的寛容性という部分があるのだということを猿橋はいわゆる大人としての良識的判断に基づいて決断を下している。

「一色さん。それじゃあ国営特選排除係の為の予算を計上しておいてね。これは法務省側に責任を追及できるはずだからきちんと追加予算を発行できるはずよ。あはは。多分、この場合は執務室あたりが出張ってくる可能性もありうるわね。見ものよぉ。あそこは桁違いの改造人間をリアルで開発しているから」

「え?そうなんですか。私そんなの初めてみます。TV SFとかだって最近は自主規制ばかりで大人しくなってきているみたいだし」

「は。あんたあんなのみてるの?子供ねぇ。だから、いつまで経っても彼氏ができないのよ。あんなの馬鹿騒ぎがしたい連中のおままごとでしょ」

「先輩!彼氏とは今遠距離恋愛中です。決していないわけでは。けど、そうですねぇ。TV SFも一般回線の開局当時は人間狩りまがいの映像流れていましたけど、公共の利益に対する損害率が多いということで最近は刺激少なめですからねぇ。刺激に飢えた人たちには物足りなくなってきているのかも」

一色の向かいに座っている名取が一瞬だけタイピングする手を止めて再び眼鏡の位置を人差し指で調整する。猿橋はニヤニヤと笑いながら厚生労働省勤務時代のコネクションを活かして法務省関連の知人の名簿を検索する。

「とにかく。ややこしいですけど、今回は排除係に関してこちらで動かなくてはいけない案件がてんこ盛りです。忙しくなるんで覚悟しておいてください。残業は絶対しませんから」

「けど、先輩。これ全部受領したばかりの案件ですよね。どうしてここまで詳しく調べてあるんですか」

「あ。それは」

「アイシャちゃんはね、自宅に帰っても執行者のことばかり考えている筋金入りのエディプス人間なのよ。休みの日にでも資料室に来て調べまくったに違いないわ。そうよね、名取くん」

「え?あ。ぼくは知らないですよ。データベースの接続履歴なんてほとんどみませんから」

アイシャが名取の失言に動きを止めて茫然としたまま立ち尽くす。アイシャの話を聞いていた総悟が手元のスマートフォン端末から執務室開発局関連の情報から排除係に関するデータを探ろうとするけれど、シャットダウンされてログインを拒否されてしまう。恐らく彼らの話しているのは特級秘匿情報に抵触する話であり、おいそれと日常的にそんな情報が飛び交っていることに総悟は戸惑いを感じながらもそれが国家殺人管理機構”エディプス”総務部だということを理解する。だからこそ、総悟が思っていたよりもずっとこの部署は総悟が突き止めたい三年前の事件の真相に近いかもしれないと”Mr.X”で影虎篤睦がアイシャの手伝いを依頼してきた理由を納得し始める。

ジャイルブレイクされたスマートフォンで高機能検索エンジンを利用して自宅で管理しているスクラップや機密情報を保存しているサーバーにアクセスしてキノクニヤというワードで検索をかけた結果が総悟のカメラアイに表示されてかつての同居人が、いやポプリが巻き込まれているはずの親密性パラダイムの社会的シフトによる革新的進歩の硬直状態から起きる闘争がもたらしてしまった時空の分岐点を見つけ出そうとする。

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