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14.If your life changes, we can change the world, too.

「今日はお疲れ様。とりあえず乖次とルルの原案を元にだいたいの素材は撮り終えたはずだ。今日は一旦帰ってみなゆっくり休もう。ぼくと白河君以外は別々の方向かな」

沙耶は心配をするのにも限度がある、わたしに出来るのは此処までと言って疲れた表情を出さないようにしながら、ルル、乖次と一緒に地下鉄に乗って帰宅した。

「常軌を逸した状況で発狂なんて選択肢に溺れない為にルルと二人で必死で考えた。言語化出来ない感情にだって理屈は通用する。がんばれよ、和人。陳腐な言葉だが今はその程度の理屈で動いていくしかないんだ。信じろ」

祈りなんて馬鹿らしく思う。

やはり救いは訪れないのだと感じる。

嘆くことに意味は存在していないし、憤って解決出来る手段も持ち合わせていない。

だから一つ一つパーツを組み上げるようにして出来る限り現実と認識の相互関係を書き換えていく。

不整合な事実と整合性のある問題の順番を入れ替えて意味のある記号を考えやすい配列にまとめて自己矛盾を正確に把握する。

どうにかして傷つけてしまいそうな自分自身のことを慰める。

そうやってぼくらは足掻いて踠いてどうにもならない現実に小さな傷痕を残そうとする。

白河君とぼくはJR山手線を渋谷方面に乗り少しの間の休戦の訪れを堪能する。

「どうでござるか。少しは落ち着いてものを考えていけそうでござるか。小生たちには和人殿の気持ちをシュミレート、想像することしか出来ないでござる。傷や痛みを感じることだけは出来ないでござるよ」

「もし、人間がお互いの痛みを理解し合うことが出来ていたら時田と宝生院のように完璧な形を求めて死を選ぶかもしれない。分からないから救われることだってあるんだ」

山手線の電車の緑色の扉が開く。中からまだぼくが覗いたことのない世界を持った人々が次々に出てくる。

ぼくらは入れ替わるように電車に乗り込んでどこかで見た人たちとどこかでみた風景を共有する。

誰も嘆いて立ち止まってなどいないし悲しんで蹲ってなどいない。

「ねぇ、白河君。『アースガルズ』の様子が変じゃないかな。『トール』、君は大丈夫なのかな」

『トール』は口だけ動かしてぼくらに何か伝えようとしているけれど、周りに遠慮しているのか声を出すことがない。

『アースガルズ』は白河君の右胸のポケットでぐったりとうな垂れてまるで風邪をひいたみたいな顔をしている。

「小生も撮影に夢中で今気付いたでござる。小生たちは自分のことに夢中過ぎて彼らの動きに無頓着であったでござろう。仕方のないこととはいえ、どうにか元気を出させてあげる手段はないでござろうか」

「とはいっても、ルルだって機械生命の風邪の症状と改善方法なんて分かるわけがないよ。本当に人間みたいに体温があがっているね。オーバーヒートしそうだ」

「小生としては防寒には申し分ない。だが、そんな冷たいことを言っていられないでござるな。そうだ、和人氏。良かったら小生宅で『超神合体アースガルズ』を鑑賞するのはどうでござるか。この二体のカンフル剤にもぴったりでござる」

疲れているという気持ちよりも一人きりで深く澱んだ場所に潜りこむことのほうが恐ろしく正面から向き合ってみてもいい答えが産み出せる訳ではないという事実を嫌というほど思い知る。

気分転換がてらにぼくは白河君の提案に応えて『アースガルズ』と『トール』と一緒に白河君の自宅に向かうことにする。

「いいアイデアだね。それにしてもこの二人は大丈夫なのかな。箒に乗れた少女が黒猫の声を聞くことが出来なくなってしまったようにぼくらも彼らの存在を知覚出来なくなってしまうなんてことがあるのではないのかな」

ウウと『アースガルズ』が呻き声をあげながら白河君の胸ポケットの中からぼくを見つめる。

「和人。それはない。ぼくは君の童心というよりも不可能性の象徴だと思え。子供っていうのはもっと純粋な存在だ、俺とは程遠い」

「確かに君は純粋な科学現象として産まれてしまった不合理だ。ぼくの中のn個の性が独立したのならば他人も共有出来るなんておかしいね。とにかくちょっと休もう」

終電近くの下り電車だからかひと気は少なくまばらでキャバクラ嬢風の女の子がスマートフォンをいじったり、疲れ果てたサラリーマンがぐったりしながら居眠りをしている。

新宿三丁目で降りてぼくらは白河君の自宅に向かう。

「一人暮らしを初めてもう三年でござる。一年の頃はよく小生宅に来ていたデござるが桃枝殿と付き合ってからはなかなか訪れなくなったデござるな」

微妙にぼくの心を抉ろうとしてくるのはきっと疲れが滲み出ているせいだろう。

白河君の家はよくある1DKタイプの部屋で狭いがよく整理されていてアジアン風家具を使いおしゃれにまとめられている。

なぜこうもこの男は異様にお洒落ポイントが高いのだろうか。

もし彼が獣人でなかったら、恐らくチャラ系サークルでブイブイ言わすいけすかない大学生になっていたに違いない。

「相変わらず白河君は見た目とのギャップが酷すぎるデござるな。こんなものうちの学部の女子どもに見せたら発狂もんでござるよ。その辺の男子学生を一掃してしまうでござる」

がははと笑う白河君。

とても童貞だとは思えないがやはりそこはぼくと同じ袂のモテないエンジニア。

ところどころにオタ臭のするものが散りばめられていてアジアン封のシーツに──気持ち悪い──と囁いてくれそうな赤い髪のドイツ帰りの帰国子女の抱き枕が置かれているというカオスに目のやり場に困ってしまう。

ぼくも思わず二人きりで遊ぶ時は学生の時と同じように白河君に合わせてござる言葉が飛び出していて、女の子の目線など気にする必要がないんだという自信をぼくに思い出させてくれる。

なぜ、ぼくはチャラついたウラハラ系パーカーを二万も出して買ったのだろうかということを思い切り後悔させてくれる。

「和人氏が桃枝殿に影響されておかしなハート柄のバッグを購入した時に小生は友人を辞めようと思ったでござるよ。なぜ森島はるかを生涯愛した一人として心におかなかったデござるか」

彼女が連続殺人鬼に殺されたというのに白河君はぼくに最愛の人の名前を思い出させる。なんという辛辣な仕打ちをしてくる友人だろうか。

ぼくは思わず現実逃避をしたくなり、茶色いバンブーラックにずらりと並べられたフィギュアの数々に手を差し伸べる。

「逆鱗合体。『ロキ』は一番不人気のロボットにも関わらず白河君は持っているデござるなぁ。こいつは何をやらせても弱気でござる。けれど、そう、怒りのスイッチが入った時に『アースガルズ』の極性が変化するのでゴさったな」

ぼくは頭に二つの角が生えた『アースガルズ』や『トール』より一回り小さい『ロキ』を手にして胸元に抱える。

弱り果てている『アースガルズ』の元に近づけて仲間の到来を彼に知らせる。

「嬉しいぜ、兄弟。けど、兄者にぼくの電荷を分け与えた時と違ってDNAサンプルもテスラコイルもないんだろ。こいつはここでも弱気なままだ」

息をはぁはぁと吐き出しながら弱音を吐く『アースガルズ』。

手を触れただけでビックバンにも等しい物理現象が巻き起こりぼくらの目の前に三体目の『ユドグシラルヒューマノイド』が現れると考えたぼくの期待は脆くも崩れ去る。

「またあの科学実験を行うにしてもあの手のサンプルはおいそれと手に入るものではないでござるな。しばらくお預けにするしかないでござろう。テスラコイルもあの時の影響で故障してしまったデござる」

どうやらデータを元に復元した仮想現実世界の住人を簡単に産み出せてしまうほどぼくらは無限の力を手に入れた訳ではなそうだ。

──そうでもないぞ、和人。風水という言葉を知っているか。グランドクロス化の重力変動値ならばどうにか問題を解決できる。ただし、ここが太陽系第三惑星だった場合に限る──

『アセンション』というオカルト用語がぼくの中で再生され、宇宙神秘学に傾倒するスキンヘッドのロシア人マッドサイエンティストがぼんやり思い浮かぶ。

『類』は時折ぼくには理解できない超常性について語り出す。

「さてさて、約束通り超神合体『アースガルズ』を一緒に鑑賞するデござるよ。全五十二話、今日中に見れる訳が無いので小生が編集した名シーンだけをまとめた映像を楽しもうでござる」

恐らく一人で楽しむ為だけに作り上げたと推測されるビデオ作品。

白河君の私生活は謎に包まれているが女っ気が全く感じられないという点で本当に好感が持てる。

友人でよかったぞ、狐顔の侍魂を持ったオシャレオタクめ。

「白河君はぶっかけものが好きなんでござるなぁ。鈴村あいりは本当にすぐ限界に挑戦するでござる。まさに超神合体。素晴らしいでござるよ、白河君」

慌てて映像を消してしまいながらも既に勃起している白河君。

すっきりするのもいいでござるがここで賢者モードになればお互いによい思考状態にはならないだろうとぎりぎりのところで抑制するユグドシラルドライブフルパワー。

無茶をせず童心に返り、白河君編集版『超神合体アースガルズ』を楽しむことにする。

「そういえば、『トール』と『アースガルズ』が『ロキ』の感応アイソスピンからの極性変化で怒りの化身になった回は熱かったデござるな」

さりげなく話題を変えて第三十二話──蘇れ! 弱気の炎! 怒りの雷神と軍神来たる!──の回についての感想を述べだす白河君。

怒りに満ちた『トール』と泣き崩れる『ロキ』の兄弟愛の行方は果たして。

白河君はもはや股間を隠すこともせず雷神『トール』と化した超越した自我を制御しないままアジアン雑貨とオタ系グッズで溢れたアパートの一室を『ユグドシラル』へと転移させようとしている。

「そうでござるなー。『ロキ』が吐き出す夢の力が踏みにじられて『トール』は全身が震えるほど怒りだす場面でござるなー。『ロキ』はいつでも脚を引っ張るデござるけれど、『アースガルズ』たちの力の源だと分かったシーン。いやーたしかに熱いでござる」

白河君の熱が篭りっぱなしで行き場をなくしている。

彼の中で蠢く『死のエーテル』との契約は暴発しそうな彼の想いの全てを一点に凝縮させている。

そういえば、白河君は高校二年の夏まで眼鏡をかけたひょろひょろのガリガリで役に立たない狐顔のキモオタだった。

けれど、彼はある日魔術を使うことの出来ない『魔術回路』持ちと契約を交わすことで狐の獣人へと姿を変えた。

まるでその日まで使っていた侍言葉は彼が本来使うべき言葉だったみたいにしっくり馴染むことで彼を周りの人間とは違う力と姿を与えてしまった。

「和人氏。小生がこの姿でいることに疑問を抱かないでくれてありがとうでござる。もう慣れはしたけれど、やはり獣人差別は根深い。特にこの学校のような場所では特にでござる。小さな嫌がらせはやはり今でもあるデござるよ」

白河君のさりげない弱音を聞き流しつつ、第四十四話──心が折れる音がする! 『ロキ』の角が役立たず?! ──にぼくらはのめり込む。

たった一つだけの特技、感応能力で感情を『ユグドシラルヒューマノイド』同士で連結させる能力を持った『ロキ』の角が折れた話。

白河君は涙を流して物語の中に食い入っている。

熱い魂と強大な力を持った兄弟の中で唯一、戦闘用にはなんの力も持たない『ロキ』に白河君は自分の姿を重ねているようだ。

巨軀に似合わない体育座りをして真っ直ぐにモニターに映る『ロキ』の悲しい顔をみて立ち上がることが出来そうにない絶望感を共有しようとしている。

ぼくはいつのまにか鼻水塗れで涙を流して、『ロキ』が初めて勇気を出して一人きりでバルドルの洞窟まで自分の角を手に入れに向かうことを決意することシーンでぼくらは一斉に抱き合い大声で涙を流して泣き喚く。

「へっ。やっぱりカ。俺たちの力が漏れ出てまったく力が入らないと思った。あいつは俺たちの力の源だ。だからずっと弱いままなんさ。」

「そうだ、だから俺様だって敵わない。あいつが力を欲しいと願った時に現れる角は何もかも薙ぎ倒す。みてみろ、『ロキ』がお前たちの涙でビショ濡れだ。折れた片方の角だけが大きく伸びてきた。来るぞ、弱きものの王、『ロキ』がこちら側へ」

白河君の勃起した局部のサキッチョがなぜかびっしょり濡れていてへし折れた『ロキ』の超合金製の角とシンクロするように縮んでいくと代わりに『ロキ』の角が大きく伸び始める。

モニターの向こうでも『ロキ』が自分の本当の角を手に入れて真っ暗な洞窟で涙を流しながら咆吼している。

「けっ。お前は本当に役立たずの家来だな。サリアとミリアリアとミザリーの三人でなけなしのエーテルをおくってやったぞ。昇天出来たらお前の勝ちだ。大切に扱え、お前は私の折れない剣だ」

充電切れでぐったりしていたはずの『竹右衛門』が机の上で目をぴかりぴかりと光らせながら巡音潤の声を再生している。

白河君の部屋が真っ白な光に包まれてぼくらは眩しさで目が眩む。

涙声と鼻水が垂れ流されて白河君の膝の上の超合金フィギュア、悲神『ロキ』が眼を覚ます。

「なぜ、君達はそんなに泣いているの。ぼくが力を貸してあげる。みんなで分け与えるんだ。そうしたら、君の悲しみは少しだけ和らぐはずだね」

「あぁ。よくきたな。ロキ。俺たちはもうへとへとだ。力を貸してくれ」

二つのうちの片方だけ大きな角を生やした『ロキ』が優しい声で白河君の涙を拭き取ろうと立ち上がる。

彼の心の化身は優しさを失うことなく折れない角を生やしてぼくらの世界にやって来る。

「兄者達はまたぼくが怒っているから力を失っている。戒めを外そう。兄者たちが我慢するなんておかしいよ」

『ロキ』の角が光り出して『アースガルズ』の眼に光が戻り始める。

十字架状に身体を拡げた『アースガルズ』が宙に浮くと『ロキ』が周囲のエネルギーを集め始める。

「涙を枯らすまで燃え尽きる! 逆鱗合体! チェェェーンジ! 『アースガルズ』! ロキインユグドシラルゥゥゥゥ!!」

『アースガルズ』の叫び声が部屋の中に木霊すると、『ロキ』の身体が分解されて鎧となって装着されると二つの角が『アースガルズ』の両肩に装着される。

二つの角から電撃が走り、中央で青い光弾を発生させると、『アースガルズ』が胸のあたりに両手を広げると光の塊りが集まり始める。

「激震エナジー! ヒッグスバックシアター!!」

中央に集まった光が七色に輝きだすと部屋中に分散されてぼくらをまるでプラネタリウムのような場所に誘い優しい光で包みだす。

脳味噌の興奮状態が和らいで胸の高まりが治り始めると涙で疲れたぼくと白河君をぼんやりとした酩酊状態へと導いてくれる。

まるで一仕事終えた農民のような気持ちで疲れがすっかり身体の外へ逃げていくとぼくらは第五十二話 ──さらば希望の光! 『アースガルズ』ヨ永遠に! ──を横目に見ながらうとうとした睡魔の中へと没入していく。

──ここが何処なのか分かるのならば君の中に眠るエーテルは一級品といえよう。虚勢された魂がこんなところをさまよう。一人がそんなに怖いかね──

暗い夢の中で誰かの声がする。

男なのか女なのかも分からない。

あやふやな形が漂い続けてぼくはどこかを彷徨っている。

向こうのほうで四角い光が何かの映像を流していてぼくは見覚えのある光の在り処へ探して歩き続けている。

「ねえ! ニンゲン! 共食いだよ!」

「また虐めてる人がいるの?」

「違う! 『ポケ』じゃないよ! 戦争!」

「どうしてそんなことするの」

「『チケ』もするでしょ。いつもだよ」

「『チケ』は守る為だよ。」

「そう! 彼らは食べる為! ニンゲン!」

「いやだね」

「いやだ!」

「そう! それがニンゲン!!」

ぼくが歩いて行った先にはTVモニターがあり、どうにかして記憶の底に沈めてしまおうと隠してしまっていた桃枝が殺される瞬間の映像だった。

眼を背けようとしているのに、目も耳も自分では動かすことが出来ず記憶の底にこびりついていた彼女が命を失う瞬間の映像がぼくの中に強制的に呼び起こされる。

──逃げ出したいかね。けれどそうはいかない。私が用意したものではないが私が欲しかったものだ。君は生きる意志があるのかな。進化を遂げてでも──

どこからか聞こえてくる声はぼくの頭の中に直接響いてくる。

劣悪な感情が沸き続けてくることから逃げだせずにいるとテレビの前に扉が現れてぼくと桃枝の姿が遮断される。

叫び声と悲鳴だけが聞こえてきてぼくはいても経ってもいられなくなり何度も扉を叩いて中に入る方法を探そうとする。

助けてと泣き喚く声が鼓膜に入り込んでぼくは発狂しそうなほど頭の中が掻き乱される。

心が壊れる寸前で爪先立ちで立ち止まり奥底に眠っていた怒りや悲しみが一気に吹き出してぼくを取り囲む。

黒い悪魔がケラケラと笑いぼくを見下してゲラゲラと声をあげて嘲笑して出口を塞いでいく。

扉を蹴り飛ばして殴り続けて悲鳴が止んでしまった頃にカチャリと鍵が開いて扉が開く。

急いで扉の向こう側へ走っていくと、ぼくと白河君が先に部屋の中にいてぼくは彼らの姿を後ろから見つめている。

「そう。君は思い出す!」

「憎しみを! 愛を! 喜びを! 怒りを!」

「全身を走り回る血液の中に!」

「沸騰して耐えきれない想いを!」

「決して逃れることの出来ない!」

「運命の輪の中に!」

「──そして君は呼び戻される! ──」

「行こう。『チケ』!」

「分かっているよ。『ポケ』」

ぼくの周りを翼の生えた人型がくるくると飛び回ると事件直後の現場から赤い光とともに飛び去っていく。

──そう。審判の日は近い。残されるべきは君か彼か人類は選び取らねばならない──

ぼくの目の前に殺される前の桃枝がネグリジェ姿のままやってきて手を差し伸べようとして淡い光になって消えてしまうと桃枝の部屋で見た『aemeth』という文字が立ち塞がり身体を硬直させると暗闇が何の前触れもなく突然終わる。

汗だくになり眼を覚ますと隣には白河君がいて鼾をかいて眠り続けている。

機械生命の『アースガルズ』と『トール』と『ロキ』はようやく訪れた眠りに包まれてすやすやと気持ちよさそうに眼を閉じている。

「そうだ。ぼくは決着をつけなくちゃいけない。これ以上誰かに寄りかかることを辞めなくちゃいけない」

逃れられない現実が認めることの出来ない事実と一緒に押し寄せてくる。

頭の中で鳴らされていた警笛はぼくに抽象的思考の結合を促してくる。

畏怖の概念が有耶無耶なまま形を為して絶対的な法則性と呼ばれる存在を認識させる。

右腕に巻かれた腕時計は赤いデジタル表記で二時二十七分を示している。

深夜誰もが寝静まった時間にぼくは白河君の自宅でぼっーとただ天井を見つめることしか出来ずにいる。

──ほう。まさか天から直接アクセスがあるとはナ。チルドレ☆ンたちの父、白明の審判『パン』だ。俺をここに閉じ込めた張本人だぞ──

「けれど、彼でも制御することが出来ない問題があると言っていた。ぼくらは彼が選んだのではないということか」

──そうだ。『パン』は自分たちが作り出した統合システム『ガイア』にかつて自分たちが住んでいた『地球』と同じ生命構造が産まれ始めたことに気付いている。免疫システムが起動したと知らせてきたのだろう──

『古代種』たちがぼくらを追いかけてきている理由はこの広大な宇宙に存在出来る人類という種がたった一つだけなのだということをチルドレ☆ンたちも思い知っている。

かつて『地球』上に産まれた突然変異体である人間は知性を手に入れることで神の頂に喰らいつこうとして排除されてしまった。

けれど、傲慢な地球そのものが今度は進化の極点に達しようとしている『ガイア』を呑み込み存在意義を見つけようとしている。

(ねぇ、頭が痛いの。弱い奴のくせに私を殺そうとするよ)

(世界は神と同義であり、神は世界である。故に私は神そのものだ)

(パドゥーはまたそうやって唯一絶対のものを信じようとするね)

(神は死んだのだ。構造に取り込まれ無限へと回帰した。叡智こそそれそのものだといえよう)

(先生には分からない答えを見つけだすこと。私のいうことをちゃんと聞いてね)

「そうだ。それがリエンの望みだ。ぼくたちこそが完全性だ。『アンドロギュヌス』の審判はやがて訪れる」

(私とは九十九・九九パーセント同一で〇・〇一だけ違うもの。あなたを喰らって私が生きるのよ)

自宅に置かれたグランドピアノを弾きながら『柵九郎』はパッヘルベルのカノンを流暢に弾いている。

練習曲が弾き終わる頃には彼の中に新しい旋律が浮かび上がるかもしれない。

平均律で整えられた鍵盤楽器は一切の歯車が狂うことなく正確に調整の取れた和音を響かせている。

「九郎。もう夜が遅いのよ。ご近所様に漏れ聞こえてしまうわ。神にも寝るための時間が必要だということを忘れてはいけないの」

大きな窓のついたリビングでピアノを弾く白髪の女性が『柵九郎』にパジャマ姿のまま苦言を呈している。

彼女の優しく甘くまとわりつくような言葉に反応するようにしてクラスタートーンが鳴らされると勢いよくグランドピアノの蓋が閉められる。

「お母さん。この時間に目を覚ましてはお身体に触ります。ピアノの音が泣き喚いているのが気に障りましたか」

「いいえ。そうではないの。ただあなたのGの旋律に迷いがあるのに気付いてしまったわ。それでは捕食されてしまいます。逃げ出す訳には行かないのかしら」

『柵九郎』はフローリングの上を裸足で歩きながら真夜中に足音を溶け込ませるようにして白髪のパジャマ姿の老婆に近づいて頬に口づけをする。

「それはもう問題ではないんです。ただ、そうですね。この先に起こることに喪失を伴うのであればお母さんの涙の意味も理解できるのかもしれません」

頬を伝わる水滴がまるで塩分濃度の高い死海のように感じてしまい浮遊する魂を支えきれなくなりそうで『柵九郎』はリビングルームを出て寝室へと向かう。

月の明かりが差し込んでいるステンドグラスには十字架が配置され、もし罪のようなものを抱えているものがいるのだとしたら断罪される為に罰と引き換えに彼の居場所を明け渡そうとするのかもしれない。

「そうね、嘆いてはいけないわ。すべては神の思し召しと呼ぶべきネ。私が出来ることなど何もないのだから」

そこは初めて泊まるホテルの一室であるはずなのに、芹沢美沙にとって仰向けで視界に入る天井は何もかも見知った風景のように感じてしまい、出口も入り口もない連続した紋様が彼女の中に存在する病のように繰り返されている。

毎日が慌ただしく過ぎて、取り返しのつくことと取り返しのつかないことがわだかまりを発生させて償いを与えるようにして彼女はシャッターボタンを押す。

眼帯を外して義眼をベットサイドのローテーブルの銀色のケースの中にしまう。

左眼はがらんどうで暗闇だけが彼女のすぐそばで寄り添っている。

右手の人差し指を芹沢美沙は左の眼孔の中にゆっくりと差し込んでいく。

決して剥き出しの皮膚に触れないように出来るだけ深く彼女のしなやかな指先を挿入する。

静かにかき混ぜて暗闇が空洞の中でバターみたいに溶けてしまったら少しずつ丁寧に人差し指指を抜いて唇に触れ舌先で舐めとる。

「私にはまだヴァギナが存在していない。現実はとうの昔に教えられたけれど、まるでカフェラテみたいな空間が私の中に入り込んでくる」

ぼくは夢の中で聞こえてきた声が遠い宇宙の向こうで泣いているのを知っている。

まるでぼくの心の中を覗き込んでいるみたいに悲しみと喜びの区別がつかないままで地上を眺めているのだと知っている。

けれど、ぼくはそのどうにもならない現実を書き換えることが出来ない。

だから、どうにかしてたった一つぼくに出来そうなことを見つけ出す為に今日を繰り返す。

明日がやってくる前に、昨日に追いつかれないように、ぼくはシャワーを浴びて、朝ご飯にバタートーストと目玉焼きとコーヒーを選んで摂取すると着替えを済ませて学校に行く。

早朝に何も告げずに白河君の家を出た後でぼくは乖次からのメールを確認したことを思い出す。

【乖次@『累文恵』と連絡が取れたので、今日の昼、学食で会うことになっている。気になることがあれば一緒にどうだ】

【和人@例の用務員の件だけじゃなく、学生棟の騒ぎも記事になっていたね。ぼくが話すことがあるかな】

【乖次@新しい刺激は必要だろう。例の女子学生に起きたのはアポトーシスというプログラム細胞死の異常な活性化だったらしい】

【和人@専門に近いから分かるけど、cd300a二キロ分なんてどうやっても経口摂取では無理だと思うけど】

【乖次@では科学以外のなんらかの介入の可能性が高いということか】

【和人@けど、今時魔術犯罪なんて頭のおかしい反社会的組織以外が手を出すかな。時間もお金もかかるはずだしさ】

【乖次@確かにその通りだな。ちなみにアポトーシスでの実例は一年前の学内ストーカー事件の際も起きていて『白ギャル様』って呼称はその時産まれたみたいだ。累がそれも記事にしている】

【和人@『白ギャル様』なんていう中傷を流行らせたのは彼女なのか。彼女が急速なアポトーシスまで引き起こしてるとは思えないけど、会ってみるのはいいかもしれない】

小さな綻びを見つけて決して崩れることのないシステムの中にバグを混入させる。

もしかしたら、それは『aemeth』と、全く同じやり方で彼の領土を奪う為に行う暴力なのかもしれない。

希望が失われるのを待っているだけならばぼくは彼を許すことなど出来ずに煉獄を彷徨い続けるだけなのだろう。

乖次の見つけ出した誤謬についてぼくは承諾して輪廻の渦から抜け出そうとする。

過剰な刺激によって解体されてしまいそうな記憶を救い出せるのならば、それはもしかしたら事件の外側から記録をし続けていた部外者の中にあるのかもしれないと推測してぼくは出口を見つけ出す。

「完全性を瓦解させることが出来るのだという希望をぼくは絶望と呼んでいた。光の欠片を掴み取ろう。偶発性から抜け出すんだ」

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