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「あの、貴史さん。お母様とはもうしばらく会っていないのです。私はお父様に育てられたようなものですし、身勝手で我が侭なお母様とはあってはいけないと、きつく申しつけられています。知っていますか? お母様は白い羽根大聖堂の地下に幽閉されているのです」
「俺は大した罪を犯していないんだ。『S.A.I.』は誰かを傷つけたり何かを失ったりしたものにとって居心地の良い場所だった。なぜならば、此処には全てが存在しているからだ。だけど、『カラ=ビ⇨ヤウ』は間違っているのかもしれないと気づいたんだ。俺には俺自身の言葉がある。誰かに与えられたり無理矢理受け入れさせられるものなんかじゃない。ただ『ホワイトディスティニー』については知っている」
 神原沙樹と密ノ木貴史はとても親密な恋人同士のような雰囲気で歩いているけれど、年の差があるせいかどこか滑稽でお互いに永遠に手に入れることの出来ない宝物のことでも話すみたいにして心を打ち明け合っている。
「先生。ここからはもう私たちの出番はありそうにありませんね。縫針孔雀様に頂いた非存在透明化現象通行容認服『天狗の隠れ蓑』を利用して見えざるものとなり、彼らのことを見守ることにしましょう」
「そうだね。ファティマに従って行動基準を決定する。十一人はいわば一騎当千の防衛装置として過去と未来と現在に同時に配備される。ぼくたちがギャグボールを必要としている理由が白い羽根によって阻害される密約のためだと知ったら、和人はすんなりぼくを受け入れるかどうかわからないのは確かだ。それでも──」
 今だけは透明でいるべきであることを理解すると黒猫とサメ型のリュックを背負う女は『天狗の隠れ蓑』のフードを頭からすっぽりかぶって存在を不確定状態へと移行させながらも知覚認識状態を透明へと移行させてしまうと沈黙を守ることで涙と悲しみの気配を払拭する。
「なぁ、凍子。俺様はマイナスファクタ―には選ばれなかった。『ルネッサンス』には限界があったし、何も変えられなかったって言っていたやつもいるし何もかも置き去りにしただけだって考えたやつだっている。だけどな、とうとう俺様の手に全てのマイナスファクターが揃う。親父には出来なかっただろ。クソみたいな連中と無駄で無益な時間を過ごしただけで『真紅の器』は与えられなかった。『聖杯』ってなんだか知っているか、凍子」
「馬鹿げたことを言われるのですね。『ホーリーブラッド』には愛を注がれるべき行為など存在しません。なぜならば私たちは自らの願望を経典の反復によってのみ実現させることを良しとしているからです。偶像ですら介入を許しません。イコンは争いを産む為の道具でしかなく、教義を犯す唯一の対象であるからです。陵辱されることを希望とすら考えているあなたたちとは決定的に違うのですよ。私はきっと『聖杯』など信じないでしょう」
 天堂煉華にも三ツ谷凍子にももはやマイナスファクターを利用した『ルネッサンス』がもたらした蛮行を意に介する必要性は何処にもないはずだが、両者を繋ぎ合わせているのは彼らが絶対不変のPEUPSによって特異性を補完されているという事実であり、故にこそ彼らは盤石であるという自負を覆すことはない。
 相反する属性を保持しながらもなお、彼らが目指すのは呪われた血によって決定づけられた運命を覆さなくてはならないという意志を持続させることであるけれど、本懐の成就によって掃き溜めと成り果てていく白い羽根大聖堂がもたらしたたった一夜の悲劇は地上から四階へと貫く螺旋階段を降りる勇者たちによってもはや引き返すことの出来ない終末を示唆させながらも一歩ずつ刻み込まれていく。
「お母様はお父様に叛いたのです」
「そうか。俺も父親に逆らったことがある。殴られてすぐに目を醒ましたよ」
「私は小さかったので、今よりもっとずっと小さかったので何も言えずに黙っていました」
「無力であることを知るのは大人への第一歩だ。恥じることはない」
「優しいってことを履き違えてはいけないとお父様は頭を撫でながら私に伝えました」
「暴力っていうのは身近なところにある。例えば今俺と沙樹が手を繋いでいることもそうだ」
「けれど閉じ込められたり縛り付けられたり押さえつけられたりすると人は優しくなれなくなってしまいます。お母様の心は壊れているとお父様はおっしゃっていました」
「シグマは断ち切ったさ、何も心配することはない。お前がもし左半身を失ったとしても消えない傷跡に溺れて生きる必要はないだろう」
「え? それでは私は一体本物の私なのでしょうか。お父様もいなくなり、お母様も爛れていらっしゃるのであれば沙樹は答えを見失ってしまうかもしれません」
「それでもいいさ。人生は続くんだ。とにかく地下に急ごう。何もかも諦めてしまった強欲が目を醒ましてしまう前に」
 超次元構造体『カラ=ビ⇨ヤウ』が象徴する白い羽根大聖堂地上一階の礼拝施設『ホワイトテーブル』に辿り着いた黒猫とサメ型のリュックの女が夢の続きをなぞるようにして信徒と参拝客を数えあげている。
「いけませんね。おそらくカテナリー曲線内部に充満していた『真エーテル回路』によって集積されていたエネルギーが分散された影響で求心力が失われているせいか気もそぞろな連中がぞろぞろ虚に取り憑かれてしまったようですね。先生は既に燕が巣に帰り始めたとおっしゃっていました。偶像が消失したとなればお連れの方々も道に迷ってしまうかも知れませんよ」
「日中だというのに白い羽根を求めてざっとみても百名ほどの狂信者が居場所を求めてやってきている訳だね。彼らから言わせれば大罪司教やϽの字名もすげ替えたところで取り返しのつく代用品に過ぎないのかもしれない。ただ、そうだね、『マコト』が失われれば、大聖堂はおそらく崩壊する。『ヒカリエ』が取り戻されることになるはずだ」
「ふむ。では私たちが沙樹さんを親御様の元に送り届ける役目はこれで終わりになるのですね。先生からのご用命もしっかり果たしましたし、渋谷という街にはこれ以上為すべきことは亡くなってしまいそうですね。新宿へ戻り、猫村様たちのお手伝いでもするべきでしょうか」
「うーん。それは時期尚早というモノだよ。未だラプラスの眼は開かれていない。特異点を訪れているのだしこの街最大の人工的自然現象を見ない手はないだろうね。それにこのままだと彼女は螺旋階段を下ることになりそうじゃないか。まだ危険は残されているけれど、見守っているだけでは済まないかもしれないね」
「では、先生はファシズマの発生予告地点を改竄されるおつもりではないのですね。同志と呼ぶ方々の蜜月は概念によって既になされているのだから私などが遠慮をする必要はないとおっしゃっている。悪には未だ程遠い身ですが、なんとなく優しさを半分だけ取り除かれる気分です。心がいがいがしてしまいますね」
「彼らはぼくとは独立した意志に基づいているからね、既に投擲行為の重要性は十二分に行き届いている。クレーンゲームを和人が必要とするならば確かに不躾も無礼も無様ですら水泡に帰す可能性だってある。ただやはり問題は『真紅の器』が──」
 黒猫がファティマに記録されている自我境界線に関する覚え書きをまるで綿飴でも頬張るようにして抽出しようとすると、突然『『カラ=ビ⇨ヤウ』の目前に集まっていた信徒や参拝客の身体が燃え始めて悲鳴と怒号によって信仰の社が塗り潰されていく。
「貴様が天堂煉華であるか。私にとって必要なものは全であり、不必要なものは一である。何もかもこの手中に掴むことが叶わぬならば、自らの手を汚さずに私の知覚から消滅させることも厭わない。それこそが私の認識であり『強欲』を司る大罪司教の使命である」
 何ヶ月も手入れのされていない長髪と無造作に延びたままの髭面で小太りの男が胡座を組みながら宙に浮いたまま燃え盛る火炎が彼自身の周りだけを避けるようにしているのを天堂煉華は自制心を失って『紅蓮のエーテル』が暴発した状態で睨みつける。
「悪いが俺様のエーテルは最強だ。貴様程度に遅れを取るつもりは一切ないが、何故天堂時獄をこけにする? 親父が無様だったのはペンギン供が地下鉄を占拠して空なんてないと思い知らされたあの時だけだ。いいか、『真紅の器』がリニア=レールを産み出す為の布石だったとしてもレベルゼロが帳消しにするさ。『マイナスファクター』を渡す気はない。モノアイをいつまでも苦しめる気にだけはなれないからな」
「またそうやって我を失い、エーテルに溺れるのですね、蓮華。彼の名はショウコウ。既にϽを失ってもなお、欲望を制御出来ない信仰の権化と何ら変わりがないではないですか。御身体をセンスオブシンによって強奪された今、『S.A.I.』は白い羽根の一角となりうる求心力を失ってしまうはずです。永遠を約束された予言者はやがて我々の手に大聖堂を呼び戻すだけの手伝いをしてくれる。私はその為にあなたと行動を供にしているのですよ」
冷たく透き通った心を誇示するようにして三ツ谷凍子は天堂煉華が烈火によって呑み込まれて制御の効かなくなってしまった情動によって燃やし尽くそうとした信徒たちを『絶対零度のエーテル』によって凍らせながら忠告する。
「我が字名をショウコウと呼ぶ。かつてアセンションによって導かれた愚民供を理想郷へと導くことを銘として酩酊と情操と安寧への希求によって再定義し尽くして多胞体内部構造を循環させようとしたものの分身である。罪深き迷える子羊を円環の中に留めようと秘技を用いた。我はそれを否定しようというのか。高次元受容体に存在している可能性などといった戯言をなぜ現実へと捨て去るのか分からんよ」
 密ノ木貴史と神原沙樹は騒ぎの大きくなり始めた礼拝施設のほぼ中央付近で対峙している強欲の大罪司教『ショウコウ』と劣化と停止の象徴であり消滅を司る双極として立ち尽くす天堂煉華と三ツ谷凍子を遠巻きから眺めて不可思議な疑念を浮かび上がらせる。
「いけません。まるでお人形さんのようにひげもじゃの御仁はお話をされているように思えます。誰かの言葉によって喉を震わせているように感じるのは私が未熟だからでしょうか。貴史さん、普通の人が何処にも見当たらないのはお父様の仕業なんでしょうか」
「あぁ、それはレベルゼロだと叩き込まれた俺だけにしか今のところは与えられていない。どうやったってお前の父親を脇腹にナイフを突き刺した罪悪感だけが思考を汚してしまうことから逃げられない。こういうのを普通のやつだっていうのならきっとそうなんだろうな」
 まだ十歳になったばかりの神原沙樹は父親を喪失した悲しみから逃避するようにしてゆっくりと背伸びをして手を繋いでいた密ノ木貴史に口づけをねだるようにして目を閉じるけれど、未だ真紅の呪いから逃れられない密ノ木貴史は左手の人差し指を小さな唇に添えて静寂だけを金とする術式の模倣を実行する。
「やはりですね。先生。この場所では異常の介入が隔離されている。今まで渋谷にあった違和感が現実の、いえ、過去の一部として埋没しようとしている。先生はファティマの実現をこのように眺めていらっしゃったのですか? ならば私はやはり時の扉をくぐり抜けるべきだったのでしょうか」
「パラレルワールドに本当の自分が存在しているのだという狂言を誇大妄想と呼ぶんだ。超長距離高次元通信装置『ギャグボール』でヤミと通話出来たとしても結局のところ意識は現実と現在と現時点に存在することしか出来ない。それでも君は肉体だけは完成形を何処かで求めているとでもいうのかい。この宇宙にやってきた時のことを思い出すといい。初恋の味のように甘酸っぱいはずでもしかしたら『S.A.I.』の信徒たちは毛嫌いするかもしれない」
「え? それじゃあ彼女は虚無を呼び寄せているのですか?」
「蓮華には悪意はないだろう。彼女は血を否定していないだけだからね」
「複雑に絡み合うことを誰も求めていないのだと言われているような気がします」
「凍子は善意によって或いは善行によって快楽の実現を肯定したいのかもしれない」
「なるほど。それがいわゆるギャグボールと呼ばれるものの片鱗なのですね」
「いかにもその通りだよ。だけど、和人はもしかしたら憎悪を意図的に隠蔽する為に魔術回路を悪用しているのかもしれないんだ。鬼の名を心から追い出さない為だとしたら誰のせいでもないけれどね」
 サメ型のリュックを背負う女は黒猫との会話をダンスでもするようにして楽しんでいるけれど、彼らは礼拝施設の中央で繰り広げられている禅問答にはまるで興味がないのか欠伸をしながら笑い合っている。
 燃え上がる信徒たちがまるで元々存在していた風景のように『ショウコウ』と天堂煉華と三ツ谷凍子の三名を取り囲んでいる様子に浮かれるようにしてサメ型のリュックを背負う女は嬉しそうにはしゃぎ回り、リンボーダンスをしながら黒猫の退屈を持て囃している。
「貴史さん。やはり私は特別な女の子として『ヒダリメ』を愛そうと思います。だってこんな風に黒焦げになってしまった挙句に誰にも名前を覚えられることのなかった人生なんて嫌だから。私は決して彼らのようにはなりたくないです。貴史さんは私のことをどう思っているのですか?」
「────」
「恋に言葉なんていらないってことなのですね。後悔の連続によって私は貴史さんだけを愛し抜きます。それだけで今は十分ですよ」
 ぷいっと不貞腐れる真似をして神原沙樹は閉じていた目を開けて密ノ木貴史にそっぽを向いて口づけを交わそうとしてしまった自分自身を戒める。
「けれど、私には一つだけわからないことがあります。あのひげもじゃの男は一体何を求めているのでしょうか? 炎に灼かれて氷によって閉ざされてそれでも私たちに教えを説こうとする理由がわからないのです。もはや『カラ=ビ⇨ヤウ』は私のお腹の中にあるような気すらしてきてしまいます」
「君の気持ちが伝わってしまうからあまりそんな無体なことを考えるべきではないね。『カラ=ビ⇨ヤウ』は超次元構造体の一つだけれど、神そのものではない。君はもう自分の力で世界を書き換えることを知っている大人への階段を登ってしまっている。きっとそれは悲しいことではないはずだろう」
 やはりというべきか、黒猫とサメ型のリュックを背負う女は争いには興味がない。
 彼らは白い羽根大聖堂地上玄関である『ホワイトテーブル』を彷徨うように歩き回って渋谷駅地下へと通じる螺旋階段の扉を探している。
 透明な回転扉でできた入り口のちょうど反対側には第九階層まで一気に貫いている超巨大建造物『カラ=ビ⇨ヤウ』の両脚首が垣間見えている。
「さて、問おう。貴様は私に何を寄越す。これ以上の問答は無用だろう。私は私であるが故に貴様のものを奪う権利を持っている。『強欲』こそ原罪の権化であり、この私こそが欲望機械そのものでしかない。再度、問おう。炎と氷の使者よ。この私に何を手渡し、何を失うのだ。得るものなどないと心得よ」
 紫色の法衣に身を包んだ修験者の体裁を整えた『ショウコウ』が訝しげに無造作に延びて蓄えた顎髭をさすりながらいやらしく半分だけ開けた両眼を垂らして口元を緩ませながら天堂家の長女と三ツ谷家の生き残りに問い掛ける。
「なぁ、凍子。俺は『マイナスファクター』を全て揃えたんだろうか。どうやら数を数え忘れている。全部で十一個あるはずだが、奪い取ってやった『餅巾着』の中に幾つ入っているのか分からないんだ。もしもだ、『マイナスファクター』が選ばれなかったはずの俺自身だったらどうするべきだろうか。やっぱり親父の二の舞か? 『真紅の器』の宿命すら押し付けて俺は逃げ切れるって思っているんだよ。許しを乞うのは一体誰だったんだろうな」
「ねえ、『ショウコウ』。あなたは私が『カラ=ビ⇨ヤウ』を消滅させたいだけなのを知っていますか? 『ホワイトディスティニー』はあなたたちの為に犠牲になりました。私達が偶像を嫌っているのを知っているからです。もし物質化した欲求が誘惑を始めたならばはしたない劣情に呑まれるだけなのを知っているからです。それでも求めるのを辞めようとしないのは何故ですか? 私は『S.A.I.』ではない。『ホーリーブラッド』指導者代理補佐なのですよ。エーテルを穢すものを許しはしないし、愛の非存在の証明にとって私の言葉を未だたくさんの信徒が必要としているのです。いかに強欲といえど、『無』を欲する意味が如何に愚かなのか理解出来ない頭ではないでしょう」
 暴力の介在を許さないのは神原沙樹であるのか密ノ木貴史であるのかを理解しているものがもし『ホワイトテーブル』にたった一人でもいたのならば、救いは確かに与えられていたのかもしれないと感情と知性の交換装置となりうる『ギャグボール』に収束されていく。
「なぁ、稔。ぼくはキャンプファイヤーの火で頬を照らされながら渡されたくしゃくしゃになった設計図を元にこいつを完成させた。『大嘘憑き』から手渡された無限の縮図だって気付いたのは未亜葉がぼくの目の前からいなくなった時だ。もしかしたらぼくは失う為にルナ☆ハイムを作り上げたのかもしれないって」
「ふん。鬼が鉄鎖で運命を捕獲していたでござるか。小生達が『eSシリーズ』の着手に取り組むことが出来たのは『 Attack Node Virus』の効果的運用を実現出来たからでござる。最初から出口がないのは知っているが、それでも『リニア=レール』は必ず手に入れるでござる。しかしこのままでは『Swifts』の稼働が遅れることになるでござるか」
「異次元摂理開発機構ルナ☆ハイムコーポレーションが誇る超長距離高次元通信装置『ギャグボール』はとある恋人同士の為だけに開発したものだ。もし、思考が世界の全てを変えるために本当に必要なのは『Angel』だったとしても、ぼくにはまだ答えが見つけられないんだ。とはいえ、『eSシリーズ』は必ずぼくらの現実を書き換える。戦争装置すらもう必要ないんだってことを思い知らなければいけないのかもしれない」
「あの夜からいつだってみている場所は一緒だったでござるな。だが、しかし未だ手渡された設計図には足りないパーツが存在しているはずでござる。『類』殿からの言伝通り『ホワイトディスティニー』を見届けるでござる。いくでござるよ、小生たちは夢を手に入れるでござる」
 濃紺の袴の右脇に挿した真っ赤な鞘から日本刀を引き抜いて左眼に眼帯をした小太りの男が宙に向かって切っ先を斬りつけると、狐姿の獣人が不敵に笑いながら『ホワイトテーブル』を見渡して現状を理解しようとする。
「やっぱりか。お前はいつだって自分で答えを決めろって突き放すんだ。どんなに俺様が答えを求めても与えようなんてしてくれない。親父とはやっぱり違う。いや、当たり前か。だったら『紅蓮のエーテル』が俺様そのものだって認めてやる。最強の証がどれだけ俺様を苦しめていたか分からないのはやっぱり『S.A.I.』の連中だったんだ。『マイナスファクター』は渡してやらねーよ。レベルゼロなんてまっぴらごめんだからな」
 天堂煉華は右腕につけた真っ赤なリストバンドを左手で握り締めると、超高温発火状態まで移行して全身を『紅蓮のエーテル』が産み出した火炎によって覆い尽くしてしまうと、誰にも止められない勢いだけを纏って『ショウコウ』の顔面を右手で掴み取り余分な口を開く前に黒焦げにしてしまう。
「何故彼は何もかもを諦めてしまおうと思わなかったと思いますか、蓮華。所詮、進軍一体を胸とする『S.A.I.』の信徒には欲望の充足など有り得ません。帝国の内部に国家を築いたところで模倣の連鎖を引き起こすしかなく神性は紛い物であると唾棄されるだけなのですよ。何もかもを欲しがろうとするのであれば、何もかもを諦めるべきなのです。たった一つ足りともその手には掴み取ることが出来ない一握の砂だと知るものを賢者と言うのであれば、蓮華あなたを必ず『ホワイトディステニー』に邂逅させるつもりです。まだわかりませんか? あなたにエーテルは絶対に必要がないのです」
 サメ型のリュックを背負った女が『カラ=ビ⇨ヤウ』の足元に取手を発見して指を挿しあまりの驚きに目を逸らして逡巡する。
「そんなに恥ずかしがることはないだろう。時の扉は叩いてみても開かない。ただどの扉もそうであるように鍵が必要なんだ。ねえ、どちらのコンビが『最後の鍵』を手に入れられると思う? 四次元殺法コンビかそれともどこにでもいそうな蜜月の夫婦みたいなおままごとに夢中の二人か。君にはどちらが『マコト』に見えるかな」
 サメ型のリュックを背負う女は黒猫の問いかけに顔を真っ赤にしてついうっかりズルをして未来まで見てしまったことを反省している。
「いえ、私の相棒はいつだってハリソンです。ずっと傍にいて私のことを守ってくれていたけれど、凶暴な頬白鮫の歯が何もかもを喰らい尽くしてしまう様子が少しだけ怖かったようにも思えます。人殺しが好きなのがニンゲンだとその昔宇宙の端っこにお住まいになっていた神様に聞いたことがあります。だから私にはこの扉を開けることは出来ません。答えを知るものをきっと誰もお許しになさろうとはしないのだから」
 では『カラ=ビ⇨ヤウ』の足元に存在している扉の向こう側を開く鍵は何処にあるのだろうと『ホワイトテーブル』のほぼ中央付近で黒焦げに成り果てた『強欲』の大罪司教の姿をみて困り果てる。
 故に黒猫は記号と配列を利用してパラドックスを見つけ出し短いラブソングの在処を両前脚をパンと叩いて世界にたった一つしかないであろう『オスターハーゲンの鍵』を具現化する。
「此処に小さな鍵がある。あの子の為にこの鍵が必要になるはずだけれど、ぼくたちがただ手渡す訳には行かなかった。彼女が自分の意志で選び取り、欲しいと痛切に願い、決して誰にも奪われない力が必要だったんだ。たった一晩だけの旅が終わりを迎えるよ。燕はもう巣には戻ってこない。ここが母なる地球ではなくガイアだってことを知ってしまったからね」
 欲望が解消されて消し炭になった残骸だけが物悲しそうに訴えかけているけれど、手にしたかったはずの全てが現前していることを誰も咎めようとしない。
 けれど、代償として失われたものに目を向けるものもなく豪炎に巻き込まれ損なった一部の信徒が大仰に大袈裟に泣き叫びながら『カラ=ビ⇨ヤウ』から解き放たれた無常さを泣き叫ぶようにして虚無に飲み込まれんとして祈りを捧げる。

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