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日帰り箱根温泉記

 12月初旬、マンションのエレベーター横にある掲示板に「断水」の2文字が書かれた紙が掲出されていることに気づいた。読んでみると、12月15日の午前9時から午後5時頃まで全戸断水するという。断水の日の一週間ほど前に揚水ポンプの交換工事が予定されていたので、断水自体に驚きはなかったが、問題は時間帯とその長さである。朝の9時から8時間にわたる断水となれば、家にいてはいろいろと不都合が生じるのは明らかだ。平日ということでお勤めの方は会社にいる可能性が高い。しかしこちらはフリーランスの物書きである。取材や打合せ、映画の試写会などを除くと基本的に自宅で仕事をしている。参ったな、どうするか……。

 こういうときのわたしのひとまずの結論はだいたいこうだ。「まぁ日にちが近づいたら考えるか」。先送りしがちな人生なのである。いうまでもなくこの日も当然そのように判断した。そうして一日、また一日と迫ってくるXデー。いよいよ二日後に断水するという日、どう過ごすのが最適かを考えてみた。まずはその日の仕事内容から。幸いなことに15日に納品しなければならない原稿はなかったが、数日前にご依頼いただいた書評の仕事に向けて、取り上げる書籍を読み込んでおきたい。そんなわけで15日は読書に充てるべきという結論に達した。ではどこで読むか。あれこれ考え、断水に合わせて早起きするのが大変なので前日からどこかに宿泊するのはどうか、と思いついた。そうして考えを巡らせているうちにたどり着いたのが「冬だしどうせなら箱根でも行くか」というものだった。

 趣ある温泉宿に泊まって読書。我ながらいいアイデアだ。そう思って調べてみると、ひとり客がそれなりに風情のある温泉宿に泊まるのは割高だということがわかってきた。かといって手頃なプライスのホテルというのも気が進まない。どうしたものかと悩んでみたが、最終的には断水当日に頑張って早起きして箱根まで行き、読書をして日帰り温泉に入ってくるプランと相なった。予約不要の気ままな日帰り旅行、いいじゃないか。きちんと早起きできればの話だが。

 断水の前の晩、どの温泉に行くかだけ目星をつけておこうと軽く調べてみた。今回の箱根行きの一番の目的は課題図書をゆっくり読み込むことであり、あちこちに足を延ばすのは難しいので、エリアは自ずと箱根湯本とそこから少し上った塔ノ沢に絞られる。いくつかの候補のなかから、塔ノ沢の「一の湯本館」を訪れようと決めた。

 さて、いよいよ当日。どうにか起きて水を使うあれこれを9時までに終わらせた。この日の都内の最高気温は11度。おそらく箱根も同じくらいだろうと踏んで、目下のお気に入りの〈CARUSO〉のスーツに〈JOHN SMEDLEY〉のタートルネック、その上に〈soe〉の肉厚のガンクラブ・チェックのコートを羽織って、9時半過ぎに家を出た。これなら箱根湯本から塔ノ沢までの道のりも寒くないだろう。箱根行きというとロマンスカーを思い浮かべる方も多いだろうが、わたしの住まいからだと新宿に出るのはやや遠回りになってしまうのと車内混雑を避けたかったのもあって、横浜まで行って東海道線で小田原駅、そしてそこから箱根登山鉄道に乗って箱根湯本駅というルートを採用した。

 列車の乗り継ぎの時間を調べもせずに向かったので横浜駅で少し待つことになったが、無事東海道線に乗車。わたしの通っていた大学は1、2年生が戸塚、3、4年生が白金だったので東海道線は乗り慣れた––––といっても戸塚までだが––––路線である。2年生の前期のドイツ語の試験の日、東海道線の車内で最後の悪あがきとばかりに勉強していたらいつの間にか眠ってしまい、目が覚めたら車窓に見たことのない風景が広がっていた。平塚駅だった。たまたま少しだけ時間に余裕があったので、平塚から戸塚に戻り戸塚駅からタクシー待ちの列の先頭まで行って試験が始まっている旨を告げて順番を譲ってもらい、本来なら入ってはいけない学内までタクシーで乗り入れてどうにか15分ほどの遅れでテストを受けることができたのだった。東海道線車内で本を読みながら、そんなことを思い出していた。小田原駅の少し手前で富士山が見えた。

小田原駅の箱根登山鉄道乗り場。小田原城が見える。

 小田原駅で箱根登山鉄道に乗り換え、10数分で箱根湯本駅に到着。昼食にはまだ早い時間だったため、ひとまず近場を散策することにした。散策といっても駅前の国道1号線(東海道)沿いと国道の横を流れる早川の方くらいといったところで大した距離ではない。平日の午前中だし、人出は多くないだろうと踏んでいたが、思いのほか観光客がいて驚いた。比較的年配の方が多かった印象だが、若いカップルやファミリー、それから外国の方もそれなりにいた。やはり寒くなってくるとひとは温泉を欲するのだろうか。このように観光客でそれなりに賑わっていた箱根湯本駅周辺だが、定休日なのかコロナの影響で閉店してしまったのかは定かでないがシャッターを下ろしたままの店も少なくなかった。何度か立ち寄ったことのある蕎麦屋も閉まっており、この日の昼食の選択肢がひとつ消えた。

箱根湯本駅の歩道橋から。こちらは温泉街とは逆側にあたる。

 昼食をどこでいただくかを考えていると、箱根湯本観光協会のサイトに「湯葉丼」のお店が載っていたことを思い出した。「直吉」という店である。どれどれ、と店のそばまで行ってみると、店外で順番を待っているひとがそこそこな数だったので今回は見送り、「画廊喫茶ユトリロ」でカレーライスを食べることにした。

「画廊喫茶ユトリロ」の外観。趣のある店構えだ。

「ユトリロ」は以前に一度訪れたことがある。店に入ってすぐの広めのスペースの壁伝いにはソファが配置され、その向いにテーブルと椅子という具合で複数名のグループでも対応できる座席レイアウトだ。そこに絵画、彫刻、オブジェが雑然と並べられ、置かれている。彫刻やオブジェは結構インパクトのある作品も多いのだが、不思議と店内にしっくり馴染んでいるので作品だと気づかないひとも少なくないのではないだろうか。四谷シモンの球体関節人形や秋山祐徳太子の作品もこのなかにある。店内奥にはテーブル席がいくつかあって、こちらの壁面3方では平賀敬の大型ペインティングが存在感を放っている。

 平賀敬は1936年東京生まれで立教大学を卒業後、1965年から1977年まではパリにアトリエを構えていた。ユーモアとエロティシズムが交錯する独特の画風で世界的に評価された前衛画家である。晩年は箱根湯本に暮らし、2000年に亡くなったあと、その邸宅を奥様が「平賀敬美術館」として一般開放していた。美術館と謳っているからには作品が展示してあるのだが、実はここは立ち寄り湯でもあった。この建物はもともとは1625年(寛永2年)から続く老舗温泉旅館「萬翠楼福住」が明治時代に別荘として建てたもので、美術館の源泉は「萬翠楼福住」の温泉と同じ「湯本3号」。作品を鑑賞できて温泉にも浸かれて、というなんともユニークなこの美術館はしかし、2018年に閉館してしまった。開館中、訪れる機会がなかったのは実に残念である。

「ユトリロ」でカレーとコーヒーを注文して、運ばれてくるまでの時間は読書に費やした。カレーは辛さ控えめだが奥行きのある味わい。添えられたサラダに入っているオニオンスライスがよく水にさらされており好感が持てた。喫茶店ということで基本的には通し営業だから、食後のコーヒーをいただいたあとにもう一杯コーヒーを注文して本を読み進めようと思っていたのだが、この日はなんらかの事情で早じまいで、気づけば客は自分ひとり。コーヒーを飲み干してそそくさと店を出た。さて、どうするか。「ユトリロ」の数軒先にある「喫茶浅乃」に行くという選択肢もあったが、ひとまず塔ノ沢まで歩くことにした。箱根湯本駅から箱根登山電車に乗れば一駅だが余裕で歩ける距離なのだ(ずっと上り坂ではあるが)。早川の流れとところどころ紅葉が見られる山々を眺めつつ進み、とうとう「一の湯本館」の前まで来てしまった。こうなれば予定よりは早いがいざ温泉だ。

箱根湯本から塔ノ沢に向かう途中。早川の流れは見ていて飽きない。

「一の湯本館」は2009年に国の有形文化財に登録されている木造数寄屋造4階建ての老舗温泉旅館。創業は1630年(寛永7年)である。入ってすぐ左手に旅館の受付、正面に広間、右手に下足箱がある。広間にはわたしより少し上と思しき男女が椅子に腰掛けていた。チェックアウトには遅すぎるし、荷物があるようだったからすでに宿泊している客でもなさそうだ。そうなるとひとっ風呂浴びてきたところかな、などと考えながら、こちらも入浴の受付を済ませ、浴場へ。ここには「金泉の湯」と「恵の湯」、ふたつの浴場があって、時間帯により男湯と女湯が変わる。わたしが訪れた時間は「恵の湯」が男湯であった。脱衣場に入るとどうやら先客はいない。脱衣籠に荷物とコートを入れたところでふと鏡を見ると、スーツと脱衣場の違和感がすごいことに思わず笑ってしまった。ガラガラと引き戸を開けると、床や手桶に誰かが入浴した形跡がなく、どうやらわたしはこの日の最初の入浴客だったようだ。「ユトリロ」を思いがけず早く出ることになったのが幸いしたわけである。こちらのお湯は無色。熱々ではなく程よい温度で長く浸かっていられる。窓の外には早川の流れがあって、内湯ではあるものの借景で屋外気分も味わえるのがいい。独占状態で何度か出たり入ったりを繰り返した。

 湯から上がって身支度を整え、広間に向かうと、先の男女がカウンターでチェックインの手続きをしていた。そうか、立ち寄り温泉客ではなくチェックインまでの時間を広間でつぶしていたのか。そんなことを思いながら、ひとまず箱根湯本駅の方まで戻ることに。さて、このあとどうするか。実をいうと、当初は17時頃に箱根湯本を出発して横浜から中華街に出て夕食というのもいいなぁとなんとなく考えていたのだが、思いがけず温泉の時間が早まってしまったため、見直しを余儀なくされたのだ。箱根湯本駅あたりに戻ると15時過ぎだった。どこか店に入って読書の続きをしてもよかったが、久しぶりの温泉体験にすっかり満足してしまったわたしは、横浜中華街行きのプランを放棄して帰路につくことにした。家に着く頃には断水も終了しているので問題ない。箱根湯本駅のそばにある富士屋ホテルのベーカリー「PICOT」の出店で好物のレーズンパンを買い求めてから箱根登山鉄道に乗り込んだ。

「まっ昼間に大手を振ってハダカになれるのは温泉の特権だ。人がせっせと働いているさなかにハダカになり、かつ湯に浮かんでいる。人の世の営為に反することをしているようで、ちょっぴりやましさがある。そこのところが、またいいのである」と池内紀は書いているが(中公新書刊『ひとり旅は楽し』所収「湯のつかり方」)、今回のわたしの箱根日帰りの旅でも––––課題図書を読むという一応の目的はあったにせよ––––同じような気分を味わうことができた。ド平日の昼間に箱根で温泉に浸かるなど、勤め人時代にはなかなか難しかったし、またやろうとも思わなかった。気がつけばフリーランスになり1年ちょっと経っていたんだな。

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