見出し画像

「ドレス・コード?––着る人たちのゲーム」展を観て

 先日、東京オペラシティ アートギャラリーで開催中の「ドレス・コード?––着る人たちのゲーム」展に足を運んだ。本展は、京都国立近代美術館(2019年8月から10月)、熊本市現代美術館(同12月から2020年2月)と巡回し、この東京会場が最終の展示となる。当初の会期は4月から6月であったが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、7月4日から8月30日という期間が再設定された。

 すでにご覧になった方もおられるかと思うが、未見の方のために本展について簡単に述べておくと、「ファッションには、時代や地域、社会階層における文化や慣習と結びついたさまざまなルールや規範が存在します」「本展では、18世紀の宮廷服からストリート・カルチャーを吸収した現代服まで、京都服飾文化研究財団のコレクションから精選した約90点を中心に、アートや写真、さらにはマンガ、映画、演劇なども加えた300点を超える作品を通じて、現代における新たな〈ドレス・コード〉、私たちの装いの実践(ゲーム)を見つめ直します」(展覧会「ごあいさつ」より)。具体的には、「裸で外を歩いてはいけない?」「組織のルールを守らなければならない?」「他人の眼を気にしなければならない?」というように、ドレス・コードに関する13のキーワードを掲げ、それに沿って展示を展開している。ファッションの展覧会というと、ヒストリカルなものやデザイナーにフォーカスしたものが多いのだが、本展の中心にあるのは、あくまでも「着る人」。「着る人」とドレス・コードの関係性や相互の影響を考察してゆくことに主眼を置いている。

※写真はすべて「ドレス・コード?––着る人たちのゲーム」会場風景
撮影:忽那光一郎

着る人=我々に問いかけられる様々なコード

 
 事前予約制(チケット購入は行った際)ということもあって、会場は混み合うこともなくスムースに観てまわることができる。入ってすぐのところに、最初のコード「00. 裸で外を歩いてはいけない?」がミケランジェロ・ピストレット《ぼろきれのヴィーナス》とともに提示されている。古着の山の前に佇むヴィーナス像はもちろん裸体だ。ご存じのように、日本では全裸で外を歩くことは法律で禁じられているわけで、ここではまずドレス・コードは大前提として法に規定されることが明らかにされるとともに、では、「裸がダメなら何をどのように着ますか?」「その服はどういった基準で選ぶのですか?」と我々に問いかけてくる。

01高貴なふるまいをしなければならない s

「01. 高貴なふるまいをしなければならない?」

 続いて、18世紀のスーツとドレス、いわゆる宮廷服の展示(「01. 高貴なふるまいをしなければならない?」)や、さまざまな時代のスーツをマネキンに着せたセクション(「02. 組織のルールを守らなければならない?」)があり、ワークウエアとミリタリーウエアを出自とする服、ブランド・ロゴ、芸術作品をファッションに取り入れたものなどが並んで、最後はチェルフィッチュの映像作品《The Fiction Over the Curtains》(alternative version 1)で締めくくられている。取り立てて難しい内容の展示ではないが、それゆえ観終えてから色々と思いを巡らせるだけの余白がある展覧会といえるだろう。以下は、本展を鑑賞ののち考えたことの断片である。

05見極める目を持たねばならない_s

「05. 見極める眼を持たねばならない?」

他者の視線、逸脱、同調

 
 いうまでもなく、ドレス・コードというものが要求される場合、そこには必ず2名以上の人が存在する必要がある。無人島でただ一人、という状況であれば(選ぶだけのものがそこにあるかはさておき)何を着ようが着まいが関係はない。アダムとイヴがいちじくの葉で下半身を覆ったのは、裸を恥じる気持ちが芽生えたためであったが、この場合「裸は恥」という双方の共通認識、それから「他者の視線」を意識すること––––他者からどのように思われるか、またどう思われたいか––––がドレス・コードとして機能しているというわけである。

03働かざる者、着るべからず 04生き残りをかけて闘わなければならない s

「03. 働かざるもの、着るべからず?」
「04. 生き残りをかけて闘わねばならない?」

 先に述べたように、この展覧会は「着る人」が主人公なのだが、「着る人」とドレス・コードの関係を考えるとき、「逸脱」と「同調」というワードが思い浮かぶ。逸脱は、規範や慣習からの解放であり、またドレス・コードの拡張ということにもなる。一方の同調は、そのドレス・コード内に留まろうとすることである。面白いのは、一見真逆に思える両ケースのいずれの場合にも、我々が自らの意思でそれを決定している点だろう。しかし、ここで重要となるのは、ドレス・コードが確固たるものであるということ。基準がなければ、逸脱も同調もあまり意味をなさないからだ。

02組織のルールを守らねばならない(1)s

「02. 組織のルールを守らなければならない?」

社会や組織の中で変わってゆくドレス・コード

 本展の「組織のルールを守らなければならない?」のセクションでは、スーツ、学生服が展示されているが、そこに添えられているキャプションを引用すると「現在、学生服は教育を受ける子どもたちにとってのユニフォームであり、一方(ビジネス)スーツは責任ある社会人であることを示す、働く大人たちのユニフォームであるといえます」とある。まさしくこの通りで、だからこそ着崩しやディテールへの執着などで「ユニフォームをファッションとして楽しむ」ことが可能となるわけだ。しかし、ビジネスウエアにおいては近年の脱スーツ傾向(男性の場合は脱タイドアップ傾向ともいえる)、いわゆるオフィス・カジュアルやビジネス・カジュアルの浸透によって、従来型のドレス・コードが無効化され、ボーダーラインが曖昧になった。こうなってくると、人は新たなドレス・コードを欲するようになり、「オフィス・カジュアル」「ビジネス・カジュアル」というジャンルを定義しはじめる。「これを着ていれば間違いなし」「こういうアイテムはNG」といったように。

02組織のルールを守らねばならない(2) s

「02. 組織のルールを守らなければならない?」(手前のスーツ:ヴィクター&ロルフ/2003年秋冬)


 スーツをタイドアップして着る習慣から解放されたなら、自由に装えばよさそうなものだが、なかなかそうもいかないのが現実だろう。取引先などはもちろんのこと、同じ組織に属している人の視線––––遊びに行くんじゃないとか、失礼だとかいう意見––––が作用して新たな規範は作られ、次第に没個性化してゆくのである。いまや(業種にもよるが)タイをしめて端正にスーツを着こなすことが、オルタナティブでファッショナブルな態度といえるかもしれない。このような昨今のオフィス・カジュアル、ビジネス・カジュアルの紋切型化を見るにつけ、「ドブネズミ」などと揶揄されたかつてのビジネス・スーツに対する扱いが思い出されるが、社会や組織、集団の中での服選びには、完全な自由はトゥー・マッチなのかもしれない。ともあれ、現在のオフィス・カジュアルに息苦しさやつまらなさを感じる人が出てきたとき、ドレス・コードがどのように変化してゆくのかは興味深いところである。

02組織のルールを守らねばならない(3) s

「02. 組織のルールを守らなければならない?」(左から:ポール・スミス/2000年秋冬、同/2000年春夏、ワトソン ファガーストローム&ヒューズ/1970年、コム デ ギャルソン オム プリュス/2009年秋冬、クロード・モンタナ/1980年秋冬、トム・ブラウン/2016年)


 最後に展覧会の話に戻ると、本展の図録には会場には掲出されていない対談や論考が掲載されており、読みごたえがある内容だ。紙を何種類か使い分け、和綴でまとめた造本も美しい。これから展覧会に行かれる方は、図録も手にとってみてはいかがだろうか。なお、本稿の初出はメディアの方向けのメールマガジン「BEAMS NEWS」Vol. 531(8月7日配信)だが、加筆修正してnoteに掲載するにあたり、写真の手配などで本展の主催である公益財団法人 京都服飾文化研究財団のキュレーター・新居理絵さんのお手を煩わせた。この場を借りてお礼申し上げます。


ドレス・コード?―着る人たちのゲーム
会場:東京オペラシティ アートギャラリー
会期:〜2020年8月30日(日)
※入場には事前予約が必要です。ご予約はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?