ホンモノとニセモノについて
世の中には多くのホンモノとニセモノが存在している。
ホンモノとは何か。
それは、ほんとうであり、いい加減ではないもの。
一方でニセモノとは何か。
それはホンモノらしく似せているものであり、まがいものであり、みせかけであるもの。
その間には相容れないものがある。
何をホンモノとするのか、その定義はモノや人、各ジャンルでそれぞれ異なる。
ホンモノと定義されるものにそぐわない状態が1点でもあれば、それはニセモノになる。
わずかでも定義とは違う状態であることを許さない、そこにホンモノであることの価値やプライドが秘められているように感じる。
もしニセモノが存在しない世の中であったら。
全てがホンモノであり、すべてが嘘偽りない状態であるもの。
それが当たり前であることはそれはそれで素晴らしいかもしれない。
しかしながら、その世界においてはホンモノということすら概念として存在しない状態。
ホンモノという価値そのものが認識されないものかもしれない。
一方で、ニセモノしか存在しない世の中であったら。
ホンモノの状態には究極的に届かない、架空のものを追いかけ続けることになる。
それはまるでホンモノというものが「概念」として別の次元に存在するように感じる。
もしくは、ニセモノのみの世界では、ニセモノであることによる不利益や問題は認識できないかもしれない。
ホンモノがあるおかげで、ニセモノも栄えることが出来る。
一方で、ニセモノがあるためにホンモノであることの価値が高まる。
対立概念としてお互いに排斥し合う一面はあるかもしれないが、別の角度から見るとお互いに支え合っている面があるのかもしれない。
ある意味お互いがお互いを成立させるための条件として機能するもの、一方が生きなければ他方も生き残れない不思議な関係。
この不思議な関係性こそが、ホンモノをさらに際立たせるものであるようにも感じる。
何を持ってホンモノとするか。
その考えは常識や社会、各個人がそれぞれどう思うかによって変わってくる。
それは他のものと比べて洗練されていることかもしれない。
定義や条件に沿った、認証されていることかもしれない。
ロゴ一つで判別が分かれるものかもしれない。
オリジナルの物であることが重要かもしれない。
嘘偽りのない、正真正銘の混じりけがない純粋品。
何一つ欠けることを許さない存在。
究極の状態や性質を求めることこそが、ホンモノかもしれない。
あなたは何をもってホンモノとするのか。
ホンモノと胸を張って言える何かをどれだけ持っているのか。
そして、今生きていて目の前にひろがるその人生はホンモノか。
それともニセモノなのか。
ホンモノとして生ききる選択をし続けること、それは容易なことではないかもしれない。
でもそれが出来る人は、とてもかっこいいに違いない。
ありがとうございました。