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ベドジフ・フォイエルシュタインの足跡

 多彩な芸術家フォイエルシュタイン  大正時代が終わりを告げ、昭和が始まる1926年、ひとりのチェコの建築家が日本に上陸を果たしている。それは、前衛芸術集団デヴィエトスィルの一員としてチェコでピュリスムを広め、カレル・チャペックの戯曲『ロボット RUR』のプラハ初演(1921年)で舞台美術を担当するなど、1920年代のプラハ美術の最先端を走っていた人物であった。彼は、建築家として聖路加国際病院のプロジェクトにも関わり、建築家土浦亀城、信子らとの交流を通して、その痕跡を日本の地に刻んだ。その人物の名前は、舞台美術家、建築家ベドジフ・フォイエルシュタイン(Bedřich Feuerstein, 1892-1936)である。

 その経歴はじつに輝かしいものである。プラハではウィーンのオットー・ヴァーグナーの弟子ヨジェ・プレチニクの授業に通い、パリでは「コンクリートの父」と呼ばれるオーギュスト・ペレの許で働き、さらに東京ではアントニン・レーモンドと共同作業を手がける。当時、これほど各地で活動の拠点を広げた中東欧の建築家もそうはいないだろう。だが複雑な人間関係、そして何よりも不運が重なり、彼の名前は、その後、多くの人に知られることはなかった。

 以下では、フォイエルシュタインの足跡を駆け足で辿ってみることにしたい。

 チェコのピュリスム建築、ヌィンブルクの火葬場 チェコ国内におけるフォイエルシュタインの代表的建築の一つが、ボフミル・スラーマとの共作のヌィンブルク市の火葬場(1922-1924)である。ヌィンブルクは、プラハから五十キロほど東に位置し、作家ボフミル・フラバルが幼少期を過ごしたことでも知られる。その町の西部に位置する、白のシンプルなデザインが印象的なこの建造物は、「チェコにおける初めてのピュリスム建築」とも称されている。

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 興味深いのが、モダニズム建築を表現する建造物として火葬場が選ばれたことだろう。これは若干説明を要する。オーストリア=ハンガリー二重帝国はカトリックの影響が強かったため、主たる埋葬方法はもっぱら土葬だった。だが同国が崩壊し、チェコスロヴァキアが新しく誕生すると、1919年にようやく同国での火葬が認められるようになったのである。

 例えば、ラジスラフ・フクスの小説『火葬人』(1967)では、火葬場に勤務するコップフルキングル氏が主役として登場するが、火葬場勤務のかたわら、火葬の勧誘を知り合いに勧める次の一節がある。

お菓子をお薦めになる際、鞄からさっと火葬場の申込書を取り出していただくだけですむのです。火葬の申込みを事前に済まされた方の報酬手数料は五コルナです。
(ラジスラフ・フクス『火葬人』阿部賢一訳、松籟社、2012年、13頁)

 これは、逆に言えば、舞台となっている1930年代中葉ではまだ火葬が新しい風習で、一般の人々に浸透していなかったことを示している。つまり、このように、「火葬」という新しい生活様式を推奨すべく、ピュリスム建築というモダンの様式が選ばれたのである。

 聖路加国際病院 パリで活躍していたフォイエルシュタインを、1926年、東京に呼び寄せたのは、アントニン・レーモンド(Antonin Raymond, 1888-1976)である。チェコのクラドノ出身のレーモンドはフランク・ロイド・ライトの許で学び、彼と共に東京の帝国ホテルの設計に携わる。同ホテルが関東大震災の被害を免れたことで、レーモンドの名声が高まり、大使館、別荘など、関東近辺を中心に数多くの建築を手がけたことで知られている。

 多忙をきわめていたレーモンドが右腕として招聘したのがフォイエルシュタインであった。また同じくチェコ出身のヤン・ヨゼフ・シュヴァグル(スワガー、Jan Josef Švagr, 1885-1969)とともに、彼らは東京を中心に数多くの建築物を設計する。なかでも、代表的なもののひとつが、聖路加国際病院である。東京のランドマークとなる建造物が1933年に完成するまでには様々な紆余曲折があったが、実現に至ったのは他ならぬトイスラー医師の獅子奮迅の尽力があったことからであろう。聖公会、ロックフェラー財団との交渉、東京府との折衝、そして建築家たちとのやりとりをすべてこなしていたのである。当初、設計の中心的な役割を担ったのがレーモンド事務所であり、なかでもフォイエルシュタインは病院建築を学びにアメリカ合衆国に研修滞在を行なっている。しかしながら、レーモンドによる一方的な解雇により、フォイエルシュタインは同病院の完成を見ることなく、東京を去ることになった。その後、バーガミニら、複数の建築家が最終的なフォルムを仕上げたため、レーモンドとの不仲もあり、フォイエルシュタインの名前は忘却されてしまったのである。

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 中東欧の建築家ネットワーク じつは、レーモンド、フォイエルシュタイン以外にも、日本で建築を手がけたチェコ、中東欧の建築家は数多くいる。なかでも、よく知られているのが、広島の原爆ドーム(広島県産業奨励館、1915年)の設計を手がけたヤン・レツル(Jan Letzel, 1880−1925)だろう。レツルが来日する契機をつくったのも、プロイセン出身の建築家ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872−1914)であった。そこに、レーモンド、フォイエルシュタインらの活動を重ね合わせてみると、中東欧の建築家のネットワークというものがうっすらと浮かび上がってくる。
 中東欧出身のかれらは基本的に複数言語話者であったため、民族的な帰属がことさら強調されることもなかった。だが複数言語話者であったがゆえに、多層的な人間関係を築いていったとも言える。

 フォイエルシュタインの足跡をたどることは、中東欧の建築家、美術家のネットワークをたどることであり、それはまた土浦亀城ら日本のモダニズム建築家との交流をたどることでもあった。その探求の道のりは、これからも続くことになるだろう。

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* フォイエルシュタインの生涯と作品については、ヘレナ・チャプコヴァー『ベドジフ・フォイエルシュタインと日本』(阿部賢一訳、成文社、2021年)を参照。

http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-053-9.htm


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