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「毒舌」を名乗っていいのは、克己の後だけだ。キミは野生のクレイマーにすぎない。


昨晩、M-1グランプリがあった。

大学生ぐらいのころは一生懸命見ていたはずなのだが、最近はあまり乗れなくなった。

なぜだろうか。ひとつは「老化」かもしれない。リアルタイムのお祭り騒ぎで何時間もTwitterに貼り付く体力がなくなった。お笑いを見るならマイペースで見たい。

あるいは単に「多忙」かもしれない。M-1グランプリに限らず、他人が作ったコンテンツを消費する時間は激減した。

それから、「物知り顔の批評への嫌悪」かもしれない。「堀元は反知性主義の人間だ」というようなインターネットで見当違いの批評を毎日されるうちに、「批評家ぶる人キラーイ」とギャルみたいなイントネーションで独り言をつぶやくようになってしまった。昔は僕も大いに批評家ぶっていたのだけれど。


M-1の優勝者は、ウエストランドになったらしい。僕は特別好きでもないし嫌いでもない。優勝したのだと言われても「へえ~」という感想しか出てこない。老人のようだ。

そういうワケで、タイムラインを流れていく感想も批評もネタバレも、テレビを流れていくM-1関連コンテンツも、すべて無視して仕事をしていた。他人事よりは自分のことに集中したい。今はきっと、人生で一番忙しい時期だから。

だけど、どうやら必ずしも他人事ではないらしい。こんなツイートを見かけた。ウエストランドと僕の名前が並ぶツイート。


https://twitter.com/q_udo_/status/1604464735218733057


この人は多分、ウエストランド井口さんのことも僕のことも好きなのだろう。

それ自体はとても嬉しいことだ。こういう皆さんのお陰で僕はメシが食えているので、心から感謝するばかりである。

だけど、個人的に同意するかというと、まったくそうではない。ウエストランドの露出が増えることも僕の露出が増えることも大歓迎だが、「笑いに繋がる毒舌」が流行ることは好ましくないと思う。



形から入ると失敗する

いわゆる「コミュニケーション術」の本を一生懸命読み漁った人は、微妙に盛り上がらない会話を無限に引き伸ばす装置になりがちである。

「相手の話をたくさん聞けば好印象!」「とにかく質問をたくさんしよう!」「共通点があれば食いついて広げよう!」などといったコミュニケーション術が跋扈しているが、それを真に受けると「どこに住んでる?」「どんな食べ物が好き?」「へえ、どんなラーメンが好き?」と、アキネーターみたいな会話をすることになる。

昨今は誰しもがAIに代替されない人材になろうとコミュニケーション術を勉強しているが、コミュニケーション術を学んだ結果アキネーターになるというのは実に皮肉な話である。AIに代替されないように頑張るとAIに代替される人材になる。現代寓話だ。現代はこの寓話にハマっている人があまりにも多く散見される。後天的にコミュニケーション力を身に着けようとしてアキネーターになってしまった旅人の話なども過去に書いた。


ここから導ける結論はひとつ。極めて凡庸だけど、「形から入ると失敗する」だ。生兵法は大怪我のもと、と言い換えてもいい。

形だけマネして大失敗する事例はいくらでもある。僕は一時期、ブロガーとして成功している人のノリをマネしていた。その結果「人生で何より大事なのは挑戦だ!」と、死ぬこと以外かすり傷的な主張をしてしまっていた。僕もまた、コミュニケーション術を真に受けてアキネーターになってしまうタイプだった。

当たり前だが、スタイルというのは無理やり決め打ちするものではなく、長年の試行錯誤によってたどり着くものだ。スタイルには、人生が出る。僕は人生の重みが3グラムしかなかったので、死ぬこと以外かすり傷的なブロガーになってしまった。流行の波に流されないためには、そこそこ重い人生が必要になる。


形から入ってしまう人の方が多い

悲しいことに、人生にそれなりの重さがある人は少ない。多くの人が今日も流行の波に押し流され、溺れていく。

何かが流行ると、その波の中で輝く本物が数人現れるかもしれない。ただし、その100倍は軽薄な追随者が現れる。流行とはそういうものだ。本来そのスタイルが似合わない人まで参加してしまうからこそ、流行と呼ばれるのだ。

そして、そういう人は既に出現している。安易に僕のやっていることをマネして大変痛々しいことになっている大学生とか。


更に悪いことに、ウエストランドのネタは安易にマネできそう感が強い。実際にはプロの芸なのだけれど、「飲み会でオレもできる」と錯覚させてしまうタイプのネタだ。


ウエストランド井口さんの表層だけをマネした自称毒舌大学生」、文字列を見ただけでクラクラする。なんというかこう、かなり厳しい。

今この瞬間にも「田舎のヤツは都会のヤツに引け目を感じてるだろう~!」と地方出身者をバカにする東京の大学生が出現している気がする。なんというかこう、かなり厳しい。


本当に「笑いに繋がる毒舌」だけが流行するならいいが、そんなことは不可能だ。流行は不可避的に、安易な追随者を生む。


自分に忠実に生きてはいけない

「毒」というと、この本を思い出す。『自分の中に毒を持て』。

正直、内容はそれほど大したことは書いておらず、「岡本太郎が書いた自己啓発本」という感じなのだが、やたらエネルギッシュな文体で暑苦しい主張が踊るので、「すごい!オレも苛烈な生き方をしよう!」という気持ちになる。自己啓発本としては非常に良くできた本だ。

あと、「自己啓発本だな~」と思って油断して読んでいたら「ジョルジュ・バタイユと一緒に革命を志す秘密結社を作った」みたいなとんでもないエピソードが出てきて、「いやそれをもっと聞かせてくれよ。人生訓どうでもええわ」となる。自己啓発本なのに自己啓発と関係ない部分の方がおもしろい。不思議な読書体験の本だった。見城徹さんの『たった一人の熱狂』の類書。見城徹さんも「当時大人気だった女優を丸坊主にしてヌードにし、文庫本で乳首を隠すプロモーションをした」と意味不明なエピソード出てきてそっちに気を取られてしまう。エピソードが強すぎて自己啓発の邪魔になる本というジャンル。


さて、『自分の中に毒を持て』の中に、僕の念頭を去らないくだりがある。

自分に忠実に生きたいなんて考えるのは、むしろいけない。そんな生き方は安易で、甘えがある。ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければ駄目だ

岡本太郎.自分の中に毒を持て(青春文庫)(Kindleの位置No.39-40)


岡本太郎の主張は、「安易に生きてはいけない。自分が本当に素晴らしいと思える生き方をせよ」というものだ。自己啓発本としてこの上なく月並みな主張だが、文章のパワーが素晴らしい。僕はこのくだりにグッと来た。

世の中には「自分に忠実に生きよう」という優しい教えが溢れているが、それは偽物にすぎない。「ほんとうに生きていくためには自分自身と闘わなければ駄目」なのだ。

安易な方に流されてはいけない。むしろ、自分と闘って厳しい選択肢を選ぶことこそが正しい生き方なのだ。


すべての毒舌芸人がたどる道

これは推測だけど、恐らくすべての毒舌芸人は岡本太郎の言う「自分自身と闘」うことをしている。

当たり前だが、毒舌芸人なんてできればやりたくない。毒舌でなく売れるならばそれに越したことはない。敵を作るよりは作らない方がいいし、好感度が低いよりは高い方がいいに決まっている。

だけど、それでも、自分が提供できる最大の面白さを死にものぐるいで探した結果、「毒舌」に行き着くことはある。だから、最も良いものを提供しようとした結果として、彼らは毒舌芸人なのだ。

そして大体において、僕もそうだ。自「今自分が作れる一番おもしろいもの」を探した結果として、何かをふざけて茶化す芸にたどり着いている。


いわば、毒舌は克己の後にあるのだ。

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