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「アウストラロピテクス・アファレンシス以前かよ」という悪口の使用法。またはジェームズ・ボンド的な待ち合わせについて。

このマガジンを購読してくださっている方から、メッセージを頂いた。

メッセージはとても丁寧な挨拶とマガジンの感想から始まる素敵なものだったが、核心部分はこれであった。


(前略)
さて、そんな堀元さんに勝手ながらお願いがあるのですが、“口だけ上から出して、自分は何もしようとしない人“に対する悪口を表現するアカデミック知識を教えていただけたら嬉しいです。

今まさにそういう人が身近にいて、単純に「あいつ口だけで何にもしねぇ!マジウザっ!」と言うのもアレなので、堀元さんのインテリパワーで昇華したいと考えてのお願いです。


身近な人に使える悪口を教えて下さい」である。


僕は「いよいよNHKラジオの1コーナーみたいになってきたな」と思った。


しかしまあ、せっかく購読者からの相談なのでマジメに考えてみることにした。僕はお金を払ってくれている人には丁寧に対応するのである。三途の川を渡るには六文が必要であると言われているが、僕を丁寧に対応させるには500円が必要である。


ちなみに、1円も受け取っていない相手からのメッセージへの平均的な回答がこれである。(運営しているWebサービスを改良して欲しいという連絡だった)

コメント 2020-05-15 181113

1円も受け取っていない相手からのお願いには大体いつも「めんどくさいです」と答えている。文字通り、現金な人間である。


3000文字くらいの長文を返した

ということで、購読者に対してマジメに対応した結果どうなったかというと、3000文字くらいの解説と参考文献へのリンクつきで悪口を紹介する返信をした。そして返信を終えた後に「いやあ、僕、神対応だなぁ」と自画自賛しながら悦に浸っていた。

しかしよく考えてみると、サービスも度が過ぎると気持ち悪いのではないだろうか。


例えばこういうことだ。

あなたは週末のデートで使うディナーの店を決めかねている。予算はそこそこで、ワインが好きだという女性と行ける店がいい。食べログを見てみるが、よく分からない。

そこで、食通の上司に聞いてみることにした。「課長、ワインが楽しめるデートにオススメの店を教えてもらえませんか?予算は2人で1万5000円くらいで」。

課長は嬉しそうに答える。「本格的なコース料理をリーズナブルに出してくれる良いレストランもあるけれど、若い人だと緊張してしまうかもしれないなぁ。もっとバーみたいな店の方がいいかな。相手の女性はいくつくらいかな?……そうか26歳か…微妙な線だね。それなら横浜にある創作イタリアンの店がオススメ……あそこは雰囲気もすごくいいし…いや待って!君と相手の親密度はどのくらいかな?何回目のデート?そうか、2人で食事するのは初めてか。じゃああの創作イタリアンの店はちょっとムーディすぎて違うかな……。ちなみにその女性はどのくらいワインに詳しいのかな?ワインに詳しい人なら逆に新宿のこのアメリカンスタイルの店がオススメで、美味いカリフォルニアワインが飲めるんだよね。料理もこだわっていてワインに合うものが出てくるので、意外性という意味ではここが素晴らしいかもしれない……何?どれくらい相手が詳しいかは分からない?なんだい君、そのくらいのリサーチはしておかなきゃいかんぞ。それならしかたないね、もっと無難なチョイスの方が好ましいから……そうだ、君自身の知識はどうだい?さすがにボルドー5大シャトーくらいは言えるよね?……えっ!?言えないのか!?それはいかん!それは素手で戦場に挑むようなものだ!まずはワインの基本を理解しよう!いいか、そもそもワインというのは人類における最古の酒の1つであり、その歴史は東欧に端を発し……」


きっとあなたは課長に聞いたことを後悔するだろう。店を知りたいだけなのにワインの歴史を聞かされる羽目になってしまった。こういうことは往々にしてある。

あと僕の偏見なのだが、釣り好きの人に釣りの話を振ると一番長くなるような気がする。ワインよりゴルフより釣りがヤバい印象だ。釣り人は気が長いので、話も長いのかもしれない(怒られそうだ)。


とにかく、回答は質問のテンションに合わせなければいけない。「オススメの店あります?」に対してワインの歴史を語ってはいけないのである。

ずいぶん初歩的な人間関係のノウハウであるが、僕は守れていなかった。だから返信した後に「引かれてしまわないだろうか…?」とすごく不安になったのだが、幸い問題はなかった。質問者からの返信は、これまたすごく丁寧な「ありがとうございます!感激です!」みたいなものだった。よかった。引かれなかったようだ。ワイン歴史語りオジサンになっていなくて安心した。

というか、よく考えたらテキストメッセージで送っている時点でワイン歴史語りオジサンになるリスクはないのだ。「うわっ何か長いの返ってきたよキモっ」と思ったら適当に読み飛ばせばいい。相手の時間を強制的に奪ってしまうリスクはない。

これはすごいライフハックだ。自分の趣味について熱く語りたい人はテキストメッセージで語ればいいのだ。テキストメッセージならばあの時の釣り人の長い話で僕がストレスを感じることもなかったはずだ。ぜひ釣り人の皆さんはこのライフハックを活用して欲しい。「今の時期だとあの川がすごくよくて、色々な魚が釣れるんだけど……あっ、続きはテキストで送っておくね!」、釣り人にはそういう心構えが求められている。釣り人の皆さんホントによろしくお願いします。もう僕に5分以上の講釈を聞かせないでください


口だけエラそうで何もしない人への悪口

さて、頂いた質問への回答だが、我ながら割と上手いこと回答できた気がするので、このnoteに流用したい。有り体に言えば手抜きである

いや、手抜きをしてもいいだろう。楽なことは素晴らしいことだ。冷凍餃子が手抜きだとか手抜きじゃないとかの議論に僕は毛ほども興味がないが、美味いものが出てくるなら手抜きでもなんでもいいと思う。


さて、内容に入る前に、もう一度お題を確認しておこう。無関係なワイン歴史オジサンと釣り人へのディスりが長くなってしまったので皆忘れていそうだ。

お題は、

口だけエラそうに出して何もしない人

であった。


しばらく考えてみた結果、「アウストラロピテクス・アファレンシス以前かよ!」という悪口および、そこから派生した数パターンの悪口「初期の猿人未満かよ」「まだ四足歩行なのかよ」「石投げを憶える前かよ」「まだ森に住んでるのかよ」等を思いついた。以下、詳しく解説していく。


意外にも、動物界では”タダ乗り”は気にされない

口だけ出して何もしない人は、社会に腐るほどいる。あなたの身の周りにもいくらでもいるだろう。そしてそういう人は例外なく嫌われる。

こういう人が嫌われるのは自明のことだろうか?直観的には「そりゃそうだろ」と思われるかもしれない。だが、その直観は正しくない


何もしない人というのは、群れに対して貢献しない人のことだ。つまり”タダ乗り”をする人である。フリーライダーという言葉もよく使われる。

フリーライダーを嫌う生物はどのくらいたくさんいるのだろう…?狩りをサボって、仲間が捕まえた獲物の分け前を食べるライオンは仲間はずれにされるのだろうか?

その答えはNOだ。「あいつはサボっていてずるい」という感覚はヒト固有のものである。遊んでばかりいるキリギリスをしかめっ面で眺めるアリは絵本の中にしか存在しないのだ。


ヒトは、遺伝子によってフリーライダーを嫌うように規定されている。他の生物はそうなっていない。生物としての設計が違うのである。


ヒトはいつフリーライダーを嫌うようになったか

では、ヒトはいつからフリーライダーを嫌うようになったのだろうか。進化の過程で、「ここからフリーライダーは嫌われるようになった」という箇所が存在するはずだ。

その箇所こそ、アウストラロピテクス・アファレンシスである。


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(画像引用元:https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/30/lucy-died_n_11770410.html

これはいわゆる「猿人」の中で、最も早くヒトに近い二足歩行を成し遂げたグループとされている。そして、恐らくこのグループから「タダ乗りは悪だ」という遺伝子が発生し始めた。

なぜ二足歩行を始めるとタダ乗りが悪になるのか?その答えは「石の投擲」にある。


石の投擲こそが人類の進化を支えた

アウストラロピテクス・アファレンシスは二足歩行を獲得したことによって、「石の投擲」という集団戦術が可能になった。現代人である我々にはこのインパクトがよく分からない。二足歩行のサルが石を投げたからといって何だというのか、と思ってしまう。

しかし実は、石投げは人類が進化する上で最も強力な変化の内の1つである可能性が高い。人類学者のバーバラ・アイザックはその点をこの論文で指摘している。

類人猿は二足歩行を獲得するまで、ライオンやサーベルタイガーなどの凶悪な動物と戦う力を持たなかった。だから彼らは森に住み、強敵が現れたらすぐに木の上に逃げ出していたのだ。

ところが、石の投擲が可能になってからは、「10人で囲んで石を投げて倒す」といった作業が可能になった。これは革命である。類人猿は徒党を組むことで、恐ろしい強敵にも立ち向かえるようになったのだ。彼らが森から広大な地上に進出したのもこの頃だとされている。

無力なサルだった類人猿は、石投げによって森を出て、サバンナに進出することができたのだ。


こう考えると、「石投げ」は人類の基幹スキルであることが分かり、「砲丸投げ」などの地味めの陸上競技を見る目が変わる。

「我々はこれができたから地上に進出して進化できたのだなぁ」と思うと、砲丸投げ選手がとても尊く見えてくるものだ。「なぜ砲丸投げを本気でやろうと思ったのかマジで意味不明」などとバカにしていた諸君はぜひ反省した方がいいと思う。


聖書における石投げ

ところで、旧約聖書と新約聖書にはやたらめったら人に石を投げるくだりが出てくる。これも実は「石投げは人類の基幹スキルであり、心の奥底に刻まれている」ということの証左なのかもしれない。

石投げが出てくる一番有名なくだりは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネの福音書第8章7節)あたりだと思うが、僕が一番好きなのはこれだ。


もし、わがままで手に負えない子があって……父母がこれを懲らしてもきかない時は……彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない
(申命記第21章18~21節)


言うことを聞かない息子は石で撃ち殺せ」という教えである。いや過激すぎん???


言うことを聞かないお子さんに手を焼いている人はぜひこの教えを活用してみて欲しい。

「たけし!ゴロゴロしてないで洗い物手伝いなさい!」
「いやだよ。今ゲームやるのに忙しい!」
「つべこべ言わずに早く!石で撃ち殺すよ!

お母さんのいつもと違う聖書由来の語彙にビビってしまい、たけしはすぐにゲームをやめると思う。旧約聖書は子どものしつけにも使えてすごい。皆旧約聖書をもっと勉強するといい


フリーライダーの利益が激増した

話が逸れてしまった。子どもを石で撃ち殺す話はさておき、人類は石投げと共に進化してきたということはお分かりいただけたと思う。

さて、石投げによる集団戦術が完成してくると、問題が発生する。フリーライダーの利益が非常に大きくなるのだ。

10人で囲んでライオンに石を投げている間も、参加している10人は割と危険に晒されている。ダメージを受けたライオンが1人を狙って飛びかかってきた時、襲われた1人は死んでしまうだろう。

このリスクを減らすズルい方法がある。フリーライドである。

つまり、ライオンと戦うのは9人の仲間に任せて、自分だけは逃げて避難しておく。そして敵が死んだ後で素知らぬ顔で戻ってくる、というフリーライド戦略だ。個体として生き残るにはこれがベストだ。

恐らく最初はかなりの数の個体がこのフリーライド戦略をやったと思われる(働きアリの内でよく働くのは2割にすぎないという有名な話もある。フリーライドが罰されない自然界ではかなりの生物がフリーライドをするのだ)。


だが残念ながら、フリーライダーが多かった群れは群れごと絶滅してしまっただろう。10人で石を投げていたのに8人がフリーライドのために逃げ出してしまったら、残った2人はただただ食い殺されてライオンを撃退することはできない。

結果として、生き残ったのは「フリーライドを出さない優秀な群れ」である。つまり「他人のフリーライドを許せない感覚」はここで遺伝子に組み込まれたのである。


「フリーライダーは追放」という鉄の掟

他人のフリーライドを許さなくなったアウストラロピテクス・アファレンシスは何をしたか。

それは、集団からの追放である。「ライオンにビビって逃げ出したヤツは追放」みたいなシステムで群れが運営されたはずだ。

この時代における追放とは、事実上の死刑宣告である。一人になったちっぽけな類人猿は外敵と戦う術を持たないので、高い確率で死んでしまう。


更にこの掟によって、もう1つ大きな進化が発生する。類人猿が集団内で嫌われることに対して異様な嫌悪感を覚えるようになったのもこの頃からだ。

チンパンジーの頃は気楽だった。ちょっと嫌われたりケンカしたりしても、集団から追放されることはなかった。だからそれほど周囲の自分を見る目は重要ではなかった。「周りからどう見られるか?」は生存に直結しなかった。

アウストラロピテクス・アファレンシスに進化した今、「周りからどう見られるか?」はダイレクトに生存に関わってくる。「あいつはフリーライダーなんじゃないか」という嫌疑をかけられれば、明日にでも群れから追放されることになる。群れから追放されれば、死ぬしかない。

だから、我々はこの時代に「周りからどう見られるか」をやたらと気にするように進化した。フリーライダーだと思われないように頑張るようになった、と言ってもいい。


2つの変化の影響は現生人類にも残っている

ここまでの議論をまとめよう。我々はアウストラロピテクス・アファレンシスの時代に、2つの変化を経験した。

①フリーライダーを追放するようになった
②フリーライダーだと思われないように努力するようになった


この①②の影響は現生人類である我々にもはっきり残っている。

あなたはフリーライダーを見るとイライラするし、仲間はずれにしたいと感じるだろう。逆に、自分がコミュニティに貢献できていないと居心地が悪いと感じ、貢献したいと感じるだろう。いずれもアウストラロピテクス・アファレンシス時代に獲得した遺伝子の形質だ。

結局、我々は遺伝子レベルで「自分もフリーライドしたくないし、他人にもフリーライドさせたくない」という生物なのである。それはアウストラロピテクス・アファレンシスが生存していたおよそ300万年前から変わっていない。


堂々とフリーライドするやつに使える悪口

ここまで議論が進めばあとは簡単である。結論に行こう。

お題は

口だけエラそうに出して何もしない人

だった。


この人はすごい。口出しだけで群れに貢献していないので文句なしにフリーライダーである。しかもエラそうに口出しをしているということは「申し訳ないと思っていない、周りからフリーライダーだと思われるのを気にしていない」ワケである。

つまり、この人はアウストラロピテクス・アファレンシス時代に獲得したはずの遺伝子形質を持っていない。

これは、この人がヒトよりもチンパンジーにずっと近いことを意味している。この人は、追放リスクがまだなかった頃の行動を取っているのだ。まだ人類が森からサバンナに進出していなかった頃と同じ行動原理だ。


したがって、ここまでの議論を応用すれば、使える悪口がたくさん出てくる。

・アウストラロピテクス・アファレンシス以前かよ
・かなりチンパンジー寄りの行動原理だ
・まだ森にいるの?サバンナ進出できてないの?
・石投げを憶える前かよ
・初期の猿人未満の能力だ
・あいつまだ4足歩行じゃん


好みに応じて使って欲しい。基本的には「アウストラロピテクス・アファレンシス以前かよ」がオススメだが、名前が長くてパッと出にくいので「まだ森にいるの?」あたりを普段遣いとして持っておくと使い勝手がいいかもしれない。着回ししやすいワンピース的な一品である。


ここまでの参考文献

主なネタ本は『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』である。本当に良い本なので度々使っている。

アウストラロピテクス・アファレンシスとフリーライダーの追放についての関係については丸ごとこの本から拝借している。


また、特に石の投擲が人類の進化がいかに大きな貢献を果たしたかについては、バーバラ・アイザックの論文『Throwing and human evolution』を参考にした。


ここから実例

以上、悪口紹介終わり。ホントは適当なところで分割して「ここから有料」ってやりたかったのだけれど、分割チャンスがなかったので結局全部無料になってしまった。

ということで、今回はここから有料部分とし、僕の身の周りの「まだ森にいるの?サバンナ進出してないの?」というケースについて書いていこうと思う。昔ちょっとだけ関わりがあったとある大学のとある団体の話を実名付きで書いていく。タイトルにある「ジェームズ・ボンド的な待ち合わせ」も、有料部分を読めば意味が分かる。

気になる方はぜひ課金して読んで欲しい。単品購入(300円)もできるが、定期購読(500円/月)がオススメだ。いつ入っても今月書かれた記事は全部読めるよ。8月は5回更新なので3倍オトク。


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