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ニセモノを作らなければ、本物になれる。これはトートロジーではない。貨幣においても、創作においても。


経済学者・岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』を読んだ。


30年以上前によく売れた本。示唆に富んだエッセイ集で、小難しい経済学の理論を引きつつ、身近なトピックを扱っているのがおもしろい。僕のツボに入った。表題作『ヴェニスの商人の資本論』は、ヴェニスの商人のストーリーから驚きの主張を導く。「悪役であるユダヤ人は経済の論理から言って必要だから生み出された。キリスト教は経済を発展させるために敵を必要としたのだ」と。

それ以外の収録作品だと、『キャベツ人形の資本主義』も面白かった。大ヒットした「キャベツ人形」のヒット理由について、レヴィ・ストロースだのヘーゲルだのを引きながら考察している。正直なところ、「それは考え過ぎなのでは…?」と思いつつ、僕は理屈っぽいおもしろ説明オジサンが好きなので、たいへん面白く読んだ。


どのエッセイも面白かったのだが、考えさせられたという意味では『ホンモノのおカネの作り方』がグッと来た。

このエッセイの書き出しはこちら。

ホンモノのおカネの作り方を教えよう。その極意は至極簡単である。ニセガネを作らないようにすれば良いのである。

岩井克人.ヴェニスの商人の資本論(ちくま学芸文庫)(p.103).筑摩書房.Kindle版.

僕はこの時点で「出た出た。しょうもないトートロジー」と思った。

しかし、中身を読むとものすごく納得した。しょうもないトートロジーではなく、真理だった。そして、示唆に富んだ話でもあった。

それだけではない。これは抽象化のしがいがある話だ。貨幣だけでなく、創作にも活かせるだろう。


だから、今日はこの話について書きたい。


ホンモノに似せるとニセモノになる

著者が指摘するのは、「ホンモノに似せるとニセモノになるが、まったく似てないものを作るとホンモノになる」という貨幣の皮肉である。


著者が引用するのは江戸時代の豪商・天王寺屋と鴻池屋の事例だ。

両替商をやっていた彼らは、「客のお金を預かる」という仕事も担っており、事実上の銀行の役割を果たしていたようだ。

さて、彼らはお金を預かったとき、預り証を発行していた。「銀を10匁預かりましたよ。この預り証と引き換えますよ」みたいなヤツ。

すると何が起こったか。商人たちは実際の金貨や銀貨よりもこの預り証をお金として使うことを好むようになった。持ち運びが容易だからだ。

そして、幕末の大阪におけるお金の流通は99%がこの預かり手形を始めとする各種手形に取って代わられていた。

つまり、単なる預り証だったものが、最終的には「ホンモノのお金」として流通したのだ。

これは、いわゆる「紙幣の誕生」みたいな話である。経済史っぽい本を読んでいるとよく出てくる。


著者の慧眼はここからだ。彼はこう主張する。

なぜ単なる預り証がホンモノのお金になったのか。それは、ホンモノのお金に似ていなかったからである。

江戸時代にも、精巧なニセガネ作りはあちこちで行なわれていたが、これらはすべて大いなる綱渡りであった。発覚したら極刑になる、あまりにも危ない道だ。

つまり、ニセガネはどこまでいってもニセガネでしかなく、発覚すると死ぬリスクをはらんでいるのである。ホンモノにはなり得ない。

著者はこの現象から、こう主張している。「ホンモノに似せるとニセモノになってしまう。似ても似つかないからこそ、ホンモノになりうる」と。

これにたいして天王寺屋や鴻池屋は、ただホンモノのおカネの代わりとして預り手形を発行しただけである。だが、かれらの意図がどうであれ、この単なる紙きれが、ホンモノのおカネとは似ても似つかないにもかかわらず、いやそれとは似ても似つかないことゆえに、あのホンモノの「代わり」がホンモノに「代わって」それ自身ホンモノになってしまうという逆説の作用を受け、それ自身ホンモノのおカネになってしまったのである。

岩井克人.ヴェニスの商人の資本論(ちくま学芸文庫)(p.107).筑摩書房.Kindle版.


僕はこれを読んで、舌を巻いた。逆説的な主張はおもしろい。直観を裏切る話の展開のおもしろさに、テンションが上がる。

それから、主張の内容を噛み砕いてみて、貨幣にかぎらず、他の領域に抽象化できそうだな、とも思った。たとえば、創作においても。


劣化コピーを作ってもしょうがない

誰かの二番煎じを作らない。

創作に関わるものとして、とても大切なルールだ。劣化コピーを作ってはいけない。劣化コピーを作るのは、世界にとってまったく意味がないどころか、害悪ですらある。ホンモノが埋もれてしまうからだ。

クリエイターなら当たり前のルールのように感じられるけれど、実際にはこれを守るのは難しい。人はすぐに影響される生きものだから、すぐ誰かの影響下で二番煎じを作ってしまう。


大学生の頃の、自分の話をしよう。

僕は当時、ブロガーの坂爪圭吾さんに思想的影響を受けまくっていた。特にこの記事。

今読み返しても良い記事だと思う。内容を要約するとこんな感じ。

・マッチ売りの少女は「マッチを売らなければ」と思ったから死んだ。

・誰も必要としないマッチを売るのは諦めて、「寒くて死にそうだから誰か助けてくれ」と声を上げれば助かったんじゃないか

・マッチ売りの少女を殺したのは、呪縛に他ならない。「マッチを売らねばならない」という思い込み。教育による呪縛。

・多くの現代人はマッチ売りの少女同様、「マッチを売らねばならない。情けなく助けを求めてはいけない」という呪縛を持っている

・呪縛から解き放たれよう。マッチを売る必要はない。「助けてほしい」と堂々と言おう。自分をオープンにしている限り人は死なない。

「自分をオープンにしていれば人は死なない」という主張には救いがあり、気づきもある。ダサくてもいいから窮乏もオープンにしていこうぜ、というメッセージも素晴らしい。それをマッチ売りの少女に絡めるレトリックの能力も素晴らしいし、実例として挙げられる「小さな本屋さんの話」もハマっている。100点のブログ記事だ。


坂爪さんのブログは素晴らしい一方、これに影響を受けまくった僕のブログは悲惨である

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