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"患者が死んでも悲しまない医者"の是非-「悲しそうにせよ」要求について

前回の内容はこちら


結城さん

本日はあの村にネット回線(光回線)が通りました。「管轄が違う」と言われてたらい回しにされる等の障壁を越えてネット回線が通った感動はひとしおです。

そんな通りたてのネット回線からこの文章を投稿しています。


さて、人権についての手紙、ありがとうございました。僕の視点の抜けている部分の多くを結城さんが補足して下さった感があり、非常に面白く読みました。

人権についての議論は、結城さんの結論で一段落した感がありますね。以下、結城さんの書簡から抜粋。

人権は、現代においては共通理解の通りにあるのです。それが、その理想通りに社会に適用されていなくても。真理としての、現行と異なる人権はない、というのがひとまず私の結論です。

僕が探求しようとした、共通理解を元にしたものでない、普遍的な妥当性を帯びた”奴隷貿易を禁止すべき理由”いわば”真理たる人権”は、絵に描いた餅のようです。そんなものはない、という結論には大いに納得がいきますね。

そして、真理っぽいけど実は真理ではないものを発見した興奮から、「よく考えたら奴隷貿易してもよくね!?僕の人権売ります!」みたいな企画をやりたくなってしまいます。

近々、人権の切り売りに挑戦したいと思います。「居住移転の自由」の売買とか面白いですね。


さて、人権については一段落した感じがするので、最近気になってる別のテーマに行きます。


「悲しそうにせよ要求」について

マンガ「ブラックジャック」にこういうシーンがありました。

患者の死を悲しまない医者を描くシーンです。


描かれ方としては完全に、「人でなしの医者」という感じで、読者は自然に反感を持つようになっているのですが、僕は医者の方に肩入れしてしまいます。


もちろん、こちらのブラックジャックの医者に関しては、言い方の問題が大きいんですけどね。

じゃなにか?牧師を呼んで一日喪に服せというのか?君は不愉快だ。仕事が終わったんだ。ゴルフへ行ってなぜ悪い!」という言い方は、アスペルガーというか空気読まなすぎるというか、豪速球投げすぎ感があるんですが、言っている内容としては医者の方に共感します。

(そんなことばかり言ってるから、しょっちゅう僕はサイコパス扱いされるのですが…)


看護師は「悲しいことがあったんだからお前も悲しそうにしろよ」という要求を出していて、医者は「悲しそうになんかしないよ。ゴルフ行くわ」という回答をしています。

この医者の気持ち、僕は大変よく分かります。

僕は「悲しそうにする」ことを要求されるのが嫌です。この「悲しそうにせよ」要求は、人類全体の幸福度を小さくするからです。

悲しいことがあったなら、反省は当然必要です。そして、それに対する対処や再発防止策を考える必要がある。しかし、「悲しそうにする」ことは何のメリットももたらさないし必要ない


思うに、悲しいことがあった時のアクションの優先順位って

①悲しいことへの対処(対処の余地が残っている場合)

②再発防止策を考える

③切り替えて、新しい行動を取る

であって、「悲しそうにする」は、合理的には全く必要ではないんですよね。

※ただし、「悲しんでますよ」というアピールをすることで批判をかわし、周囲の人との関係性を円滑にするというメタ的な視点で言えば「合理的に必要」と言えるかもしれません。


メタ的な視点における必要性は認めたとしても、それでも僕はやっぱりこの「悲しそうにせよ要求」は嫌いだなあと思っていまして、

・(メタ的な視点を除けば)合理的に必要性が全くない

・「悲しそうにする」ことは全然楽しくない

という2点を備えたもの、やらなくて良くなる方がよくないですか?


「悲しそうにせよ要求」がなくなり、不要に「悲しそうにする」ことが撤廃される方が健全な社会じゃないかなと思うワケです。

で、もう一点言うと、この健全な社会を実現するためには、先の「メタ的な視点における合理性」が失われればよく、社会から「悲しそうにせよ」という要求や批判がなくなればいいんだよなあ、と思うのです。


以上、ここまでの議論を踏まえて、僕個人が今「悲しそうにせよ要求」に対してやっていくスタンスは、【2つの側面の両立】になっていきそうです。

・メタ的必要性に合わせて最低限の対応をする(「一日喪に服せというのか?君は不愉快だ」ではなく「ホントに残念だったね……キャサリンと君は親しかったもんな。心中お察しします。でもこのゴルフも、半年ぶりの友人との大事な約束だからさ…」と言う)

という、いわば社会に合わせた行為をしつつ、

・「悲しそうにせよ要求」は得しないからやめようぜと声を上げていく。メタ的合理性を減らしていく(このnoteがそうですね)

という、自分にとって気持ちいい(そして、健全であろうと思われる)社会を作る行為をする。


そんな感じの2つを同時並行するかな、と思っています。現実的な今後の、「世の中攻略法」の1つとして。


さて、そんな長々とした話なのですが、いかんせんこれは「悲しそうにせよ要求」反対派の僕の立場からしか見られてないので、意見にバイアスがかかっているのかもしれません。

「悲しそうにせよ要求」の是非について、結城さんにもご意見を伺えれば幸いです。


※補足①

ちなみに、「悲しそうにせよ要求」に関する他の事例を考えてみたのですが、恐らく「東日本大震災の時のCMが全部自粛でACになった」とかもそれに近い気がします。あれも社会の悲しそうにせよ要求(メタ的合理性)に対する、各企業の非合理的行動じゃないでしょうか。


※補足②

本文中で「悲しそうにせよ要求」としましたが、こちらは最初は「悲しめよ要求」と書いていました。

要求の内容としてより忠実なのは「悲しめよ」の方なのかもしれませんが、これは現実的に不可能かつ保護されるべきでない要求(思想・良心の自由に踏み込んでいる)だなと思い、「悲しそうにせよ要求」という言葉に修正しました。


2018年4月27日 堀元

鴨川市のあの村で、ヒヨコ小屋を眺めながら。

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