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『カイジ-ファイナル・ゲーム』は夢であり、優しい世界であり、マーライオンである。

この有料マガジンの読者である友人から、依頼が舞い込んできた。

僕は快諾した。顧客の声を大事にするマガジン執筆者である。

あと、人のオファーに乗っかる形だと、探偵ナイトスクープっぽい爽やかな感じが出せるんじゃないかと思ったのだ。「僕がこいつの悪口を言いたいから言うぞ!」だとシンプルに性格が悪い人になってしまうが、「皆さんの要望にお応えして悪口を言います!」という形だとちょっと爽やかじゃない?殺伐とした有料マガジンにおける清涼剤になってくれるのではないか。

そういうことで、皆さんからのこういうオファーはなるべく乗っかっていこうと思う。そして、VTRの途中で号泣する西田敏行ばりに好感度を高めていこうと思う。皆さんお気軽にオファーをください。


「カイジ-ファイナル・ゲーム」のヤバい雰囲気

画像3

(画像引用:カイジ ファイナルゲーム公式サイト

今回オファーをもらった「カイジ-ファイナルゲーム」だが、それ以前から「ヤバいらしい」という噂は僕の耳に届いていた。

・ビックリするくらい面白くなかった
・あまりにも無理のある伏線回収
・まさに圧倒的虚無!

など、酷評されすぎて逆に見たくなるマーケティングなんじゃねえのという疑いを持つくらい、皆が口を揃えて酷評している。アナ雪はインフルエンサーにお金を払って絶賛してもらっていたワケだけど、カイジは逆にお金を払って酷評してもらってるんじゃねえの?


金を払って酷評してもらうという……!理外の一手……!
少しもバレてないわっ……!


そういう感じなんじゃないかと勘ぐってしまうほどの酷評っぷり。


僕は当日、「捨てきれないっ……!逆ステマの可能性もっ……!」と思いながら劇場に足を運んだ。


「夢のような」映画体験

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結論から言うと、全然面白くなかった

面白くなさすぎて夢でも見てるのかと思ったが、心の中のリトル一条が「現実です・・・・・・!これが現実・・!」と訴えるので、かろうじて現実だと自覚できた。


画像2

(「賭博破戒録カイジ」より引用)


「夢でも見ているよう」という表現は、普通良いものに対して使われる表現だ。だけど、僕はこの映画にも使えると思う。悪い意味で。

なんというか……こう……ずっとリアリティがないのである。

手に汗握る緊張感が「カイジ」という作品の魅力だったはずだが、本作はリアリティがなさすぎて、緊張感も全くない。「いやいやいやwwwそうはならんだろwww」とヘラヘラしながら見てしまう。

にも関わらず、演者だけは迫真の演技で「お前の負けなんだよぉおおお!!!」とか「そんなの絶対にウソだぁあああああ!!!」とかやるから、「何これ…?夢…?」ってなる。夢に似ている。何のリアリティもない薄っぺらいドラマを、テンションだけは迫真で見せられるという不思議。

僕は昔「うっかりモナリザの原画を燃やしてしまって焦る」という夢を見たことがあるが、アレにすごく似ている。一市民がモナリザの原画をうっかり燃やしてしまうことなどありえない。だから本気になるのがおかしいのだけれど、渦中にいる僕はものすごく焦っている。僕が夢の中で焦る様子をもし傍から見ることができたら、きっとすごく滑稽だろう。カイジ-ファイナルゲーム』を観ることは、他者の夢を傍から見ることに似ている


その辺の「しょぼいシナリオと大げさな演技の乖離」については、僕の大好きなレビューブログ『ジゴワットレポート』に詳しいので、解説は彼に譲ろう。


「それを取り巻く演者の仰々しい演技」が、ただひたすらに「浮いて」くるのである。まるで中身の詰まっていないエビフライ。着こなせていない派手な洋服。ギャンブルの精度が低い「中身」を「仰々しくクセの強い演技」でコーティングすると、そこに生まれるのは必然、「虚無」である。

感想『カイジ ファイナルゲーム』 まさに圧倒的虚無!カイジによるカイジパロは福本漫画の未来を占うか|ジゴワットレポート より引用


彼はいつもながら良いレビューを書く。この映画は虚無であり、中身の詰まってないエビフライであろう。

ジゴワットレポートの解説記事が全てだと思うので、この映画についての総評はもうやらない。映画の評価が気になる方は上記の記事を読んで欲しい。


僕は映画レビュアーではなく、しょうもないものの変な部分を見つけてきて小バカにする人なので、ここから先は気になった細かい部分を一つずつ挙げていく。お付き合いいただきたい。

あと、多分にネタバレを含むけど、ネタバレによって減点されるような映画ではないから気にしなくていいと思う。減点とは、点数があるときにだけ行われるものだ。0点のテストはそこからどうイジろうが0点なので、あまり気にしないでおこう。


景気が悪くなると、液晶がブラウン管になる

映画の舞台は2020年から少し経った未来。冒頭で「2020年に東京オリンピックが終わってから、日本の景気は急速に悪くなった」という状況説明がなされる。

「失業率は40%、インフレで缶ビールは1本1000円になった。必死に働いても派遣会社にピンハネされて給料は4000円に満たない」という設定だそうだ。何をどう間違ったら日本経済をそんなに失敗させられるのかという疑問を突きつけられ、開始3分で映画に入り込む困難さを感じたのだけれど、そこは「まあ、鬱屈した人々の映像を分かりやすく描きたかったんだよな」と大人の事情を勘案して、頑張って受け入れた。

実際、冒頭で出てくる「場末の飲み屋」っぽいところの映像はいい感じだった。昭和レトロを通り越してもはや「戦後ヤミ市の飲み屋」みたいなセットが使われていた。その映像は「汚い場末ながら皆がなんとか生きてる感」があってよかった。ジャッキー・チェンの映画を彷彿とさせる。

「ああ、こういう汚い飲み屋の映像を使いたかったんだなぁ」と思うと、冒頭の無理のある説明もあまり気にならずに楽しみ始めることができた。


だけど、どうしても気になったのは「テレビがブラウン管(チャンネルはつまみ)」だったことだ。

なんで……???景気がどんなに悪くなってもテクノロジーは後退しないよ…???

しかも「つまみ」を回してチャンネルを変えるテレビって……『三丁目の夕日』でしか見たことないぞ。平成にはもうなかったヤツだろ。


この映画を作った人、どういう脳の構造をしているんだろう?

繰り返すが、舞台は2020年の数年後だ。景気が悪かろうがなんだろうが、家にあるテレビをそのまま使い続けていればいいはずで、家のテレビは今流通してるヤツじゃないとおかしい。

それともあれかな?制作スタッフは「テレビは景気と連動して姿を変える」と思ってるのかな?景気が段々よくなってきたら、テレビも段々変形して高性能になると思ってるのかな。「おっ、今日は1インチ大きくなってるな~、好景気だな~」みたいな。不思議の国のアリス的な世界観

不思議の国のアリス的な世界観だから、景気が悪くなっていく内にテレビがブラウン管に戻ってしまうと思っているのかもしれない。

不思議の国のアリス的な世界観の人はファンタジー以外の映画作らないで欲しい。夢みたいな映画になっちゃうから。


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