GK田中謙吾、始動
写真に一緒に写っているのは小学校から高校までどんなときでも支えてくれた友人達です。
左から、
遠入、はふざけるときはいつも一緒の親友。
神ちゃん、は小学校からずっとそばにいてくれた、今はロンドンで働く敏腕銀行マン。
1番右は賀来、隣の席になることが多くていつもいい顔してるなーって思いながら眺めてました。(顔交換してくれっ)
そうです。スーパースターです。
小中高、教習所まで一緒だった彼は大学を出て俳優の道へ。
とてもつもない苦労を重ねたであろう20代を経て、今は誰もが知る「賀来賢人」です。
教習所のあとはいつも一緒にケンタッキーしてました。
みんなで文化祭で作った映画「最後の晩餐館」は不屈の名作です。
そこで生まれたリトル甲子園。
いつかいわきでも披露したいです。
ゴールキーパーとの出会い
サッカー部は休部をしていたので、変わらず帰宅部としてひとり帰路につく毎日でした。
運動をまったくしていなかったのでお腹に乗った肉を友達に自慢してふざけていたのを覚えています。
そんな中、転機が訪れます。
体育の授業中、サッカー部の顧問の先生からゴールキーパーでもいいからサッカー続けてみないか?と言われました。
ゴールキーパーをしていた190センチの同級生が受験のためサッカーを引退し、キーパーが不足したのです。
そのことを母に話すと、
実は父親が謙吾にゴールキーパーをさせようと迷っていたということを告げられました。
そのことを聞いた時に、心の中でキーパーをする覚悟を決めました。
数日後にはゴールキーパーとしてサッカー部に復帰することなりました。
高1の夏前ころでした。
高1
ゴールキーパーはサッカーとは違う、まったくの別競技のような感じでした。
謙吾がキーパーやってるということで周りの友人らも相当ざわついていましたね。
とんでもない珍プレーばかりしてました。
たまたまこの時期にジュビロやJFAアカデミーで活躍されていたOBの白川GKコーチがいたおがげでゴールキーパーの基礎というものを学ぶことができました。
あとは必死に先輩のマネをしてました。
高2
高校2年になりやっと少しずつゴールキーパーとしての感覚を掴めてきました。
成長期に休んでいたせいか、身長もぐんぐん伸び180㎝を超えていました。
そしてこの年は暁星高校が13年ぶりの全国高校サッカー選手権大会に出場することになります。
僕の一つ上の代の先輩方は父親が3年間見た最後の代ということで、僕自身のことも本当に可愛がってくれました。
12月30日の開幕戦で1回戦敗退となりますが、その後の受験でも素晴らしい結果を出しました。
勉強もサッカーも一流であれという暁星の伝統を体現してくれた先輩たちでした。
愚直に頑張っているといつか報われる。
先輩達の姿を見て感じたことです。
高3
高3になり自分のゴールキーパーとしての武器がだんだんとはっきりしてきました。
母が体操選手だったこともあり身体がとても柔らかく至近距離のシュートなど開脚して止めることがとても得意でした。
そして夏、インターハイの都大会でレギュラーキーパーが怪我をし、始めて公式戦に出場しました。
パントキックで前に出すぎてハンドを取られ、失点したり。
PK戦なかなか止められなく混乱して、10本目のキックまでずっと右側に飛んでいたり。
なかなか面白い試合をしてました。
そしてせっかく掴んだチャンスなのに、学校の運動会で調子に乗りすぎて怪我をし、あっさり田中謙吾のインターハイは終了しました。
調子乗ったらすぐバチが当たる。誰かさんが真後ろで見張っている。絶対そうです。この時くらいから思い始めました。
そして最後の全国高校サッカー選手権予選はレギュラーとして戦いましたが、早稲田実業に負け高校サッカーを引退しました。
受験
同級生たちは、早慶上智や医学部受験に向けて勉強に励む中、自分らしい道はなにかというのを考えていました。
まだまだ発展途上のゴールキーパーを続けられ、保健体育の教員免許を取得したい。
その想いで両親の母校である日本体育大学に進学したいと思いました。
サッカーでのセレクションがあり、その後小論文と面接で無事に合格することができました。
暁星→日体大というのは20年ぶりという話を聞きました。笑
以上、高校時代を振り返ってみました。
暗黒時代の中学の反動で、高校時代はとても盛んでふざけ倒していました。
これも友人、先輩達の支えなくしてはあり得ませんでした。
本当に感謝しています。
次回は、人生初の共学(小中高と男子校だった為)、田中謙吾大学デビューなるか?をお届けします。
今回も読んで頂きありがとうございました。
※賀来賢人、寺川俊平につきましては写真掲載の承諾を得ています。
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