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ケンゴリポーズ
誕生
平成元年12月30日、年末のとても忙しい時期に、田中家の次男として僕は誕生しました。
面影ありますか?
母ちゃんの顔が見えなくなると、すぐ泣いて大変だったみたいです。
幼少期
父が暁星中学校のサッカー部の監督をしていたこともあり、サッカーはとても身近な存在でした。
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2.3歳の頃はよくボール遊びをしていて、本格的にサッカーを始めたのは幼稚園だったそうです。
写真を見て分かる通り、とても控えめでした。
将来の夢を聞かれると、なんとなくサッカー選手と答えていました。
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小学生時代
父と4つ上の兄が暁星にいたこともあり、暁星小学校に入学しました。
暁星学園は東京都千代田区にある小中高一貫の学校です。かなりの進学校でした。
そんな都内有数の進学校に田中謙吾が入学したら、そうです、ぶっちぎりで置いていかれるのです。
小学校1年の時、同じ沿線でよく一緒に通学していた渡邊君。(東大を経てテレビ局の記者に)
彼は国語辞典片手に通学していました。
びっくりです。
小学校低学年の頃、フランス語の授業の時に先生に呼び出され
「タナカクンはフランス語ヨメナイネ?」
英単語すら読めないのに、田中謙吾にとったら暗号。
でも周りの友達はスラスラ読んでいました。
きっと相当な努力をしていたのでしょう。
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唯一のネタ、ケンゴリポーズ
サッカー
学力の関係で暁星小学校のサッカー部には入りませんでした。入れませんでした。
当時、暁星小学校サッカー部は試験の成績が悪いと練習停止などがあり、おそらく田中謙吾が所属していたら6年間練習停止で終わっていたと思います。父ナイス判断です。
その代わりに、あざみ野のクーバーコーチングや地元にある大谷戸小学校のチームに所属させてもらったりしていました。小学校4年くらいの時に、地区の選抜というものに初めて選ばれたのを覚えています。神奈川県川崎市中原区選抜です。右サイドバックです。嵯峨理久を越える逸材だ、それが選考理由だった気がします。
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小学生の頃はサッカー漬けというよりは、色々なスポーツをしていました。
父に連れられ野球、バドミントン、バレーボール、水泳、体操。
今思えば、いろいろなスポーツを経験することで、元々持っている運動能力をさらに向上する事ができたと思います。
幸運なことに、どれもゴールキーパーにとって必要な要素がたくさん含まれていました。
以上、小学生時代を振り返ってみました。
次回はボランチ兼水係、そして最後は休部というほぼサッカーをしていない中学生時代を振り返ろうと思います。
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