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『熈代勝覧』に寄せての江戸文化の一端

『熈代勝覧』に寄せての江戸文化の一端

文化2年(1805年)に描かれたという『熈代勝覧』は現在の中央通りの北は今川橋、南は日本橋間の江戸の街の賑わいを生き生きと描いたものである。幸い、紹介したWEBサイトがあるので、不思議な発見経緯などはそれを参照願いたい。尚、今川橋は現存しない。



小澤弘・小林忠(2006)『『熈代勝覧』の日本橋』小学館、というカラー版の大変楽しい解説本を読んだので、この本で知ったこと、この本を契機に調べたこと、及び以前から知っていたことなどを織り交ぜて江戸の文化、特に江戸の華と言われた文化文政期の内の文化の頃を主に書くこととする(江戸文化の総論を述べるには能わずで、興味のある処をアトランダムに記載)。

1.伊勢商人の江戸店の繁栄
「近江泥棒伊勢乞食」と江戸っ子が負け惜しみでいったよう伊勢商人と松阪商人は江戸の商売で大勢力を誇った(大阪商人を加えて三大商人という)。近江商人は遠く青森にまで出張っていたのを始め行動範囲は伊勢商人を凌駕していたが、江戸では伊勢商人の勢力が強かった。江戸に多いものとして「伊勢屋 稲荷 に 犬の糞」と言われ、屋号に伊勢屋を持つものが多々あり。伊勢松阪商人という言葉もあるよう松阪は豪商の街だった。松阪といえば、「現金掛値無し」の三井の越後屋の家祖の三井高利を思い起こす人が多いと思う。元々は松阪から京都に進出しその後、江戸に進出した。
https://photos.app.goo.gl/ZWFdb6zknXcSo6Nz9
(豪商の街松阪。写真は筆者撮影)
<三越>
三越は三井越後屋の略称なのは周知のとおり。松阪出身なのに何故、越後屋を屋号にしたのかは、祖父が越後守を拝した武士だったからである。三越は日本橋の北側の駿河町にあった(現中央区日本橋室町)。駿河町の名の由来は富士を眺望するのに最適な場所だったから、駿河国から取ったと言われている(江戸城方向に真正面に富士が見えた)。広重の『冨士三十六景』に「東都駿河町」があり、同じ広重の『名所江戸百景』の「駿河町」に富士が書いてある。越後屋は当初本町通りにあったが駿河町に移転。ついでに言えば、近くに金座があった。現在の日銀(本店)である。

江戸の三大呉服店は、越後屋と近江商人の白木屋(→日本橋東急→COREDO日本橋)及び京都商人の「下むら(下村)大丸」。
ついでに布団の西川は近江商人。

2.初上り(初のぼり)
「♪お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり・・」という有名な俗謡がある。七ツは午前4時頃。江戸に限らず東海道の宿場でも宿を出るのはこのようは時刻であった。初上りは「初めて京都に上る」という意味ながら、別の意味もあることを知った。関西(大阪、京都、近江、伊勢)から江戸に進出した商家は江戸店を作るが、原則、従業員は地元から江戸に連れてきていた。そういう人々が丁稚奉公などをして初めて関西に帰ることも「初登り」ということである。里帰りの際に関西の本店にも初お目見えしたようだ。

3.二八蕎麦とうどん
二八蕎麦の名称の由来は、そば粉8割、つなぎの小麦2割と認識していた。これ自体は間違いではないが、二×八=十六文の料金で出していたいう説も並立している。江戸の蕎麦屋は蕎麦しか出さないものと思っていた。しかし乍ら、『熈代勝覧』の絵に出てくる二八蕎麦屋の看板にうどんも出すように書いてある。東京では高級蕎麦店を除けば大抵蕎麦もうどんも出している。江戸からの継続ということになろう。私は子供頃福岡にいたので麺といえば(博多ラーメンでなく)博多うどんであった。当時のうどん屋はうどんしかなかった(多分、最近は蕎麦を出す店もあると思う)。

4.コンビニと宅急便
時代小説や時代劇によく番屋が出てくる(自身番屋と商番屋がある)。死体検分が終わるまで留め置く、木戸の開閉、周囲の見廻り・見守り等をする人がいるのが本来の機能である。商番屋は給金が安いので雑貨や駄菓子を並べて売ることも許された。現代版コンビニである。

江戸市中で荷物の運搬を依頼する際、軽ければ人手、重ければ人力の大八車もあったが、牛に挽かせることが多かった(馬は基本的に武士の乗り物)。小域の宅急便代ということになろう。何かの本で、江戸は元々関東ローム層で埃っぽいのに加え、馬糞が乾燥し宙を舞うことがあり黄害があったと書いてあった。恐らく牛糞も含めてであろう。欧州では嘗て窓から道路に排泄物を放り投げていて道路が汚く、そのためハイヒールができた、紳士は淑女が汚物から離れた道路の中側を歩くようエスコートする習慣ができたと言われている。それに比して江戸は排泄物を再利用していたので遥かにましだ。

5.江戸でのブランド?品
諸国の物品が集まる江戸では多くのブランド品があったと思う。その中から『熈代勝覧』で実際に確認できるものに以下のようなものがある。
〇薩摩(鹿児島)の国分のタバコ
〇金山寺味噌
・・中国の金山寺→紀州の径山寺に製法が伝わる
〇瀬戸物
・・陶磁器は現代でも瀬戸物という。瀬戸焼は有田焼に押されて一時衰退。
  有田から染付磁器の技術を移入して復活した模様
〇石見銀山鼠捕り
・・銀山から出る砒石(ひせき)から作った殺鼠剤。東海道四谷怪談で有名

最後に一言述べると、江戸の風俗、事物、文化といえば、江戸後期の三都(大阪・京都・江戸)のそれらを比較説明した『守貞謾稿』が必ずと言っていいほどリファーされる(文+白黒の図からなる)。『熈代勝覧』は日本橋界隈の図絵だけではあるが、カラー版で生き生きとした賑わいが感じられて違った意味で面白い。

蛇足1:近江商人
現在、伊勢商人、松阪商人はビジネスの世界では死後といっていい。一方、「三方良し」で知られる近江商人(日野商人が特に有名)は今でも折に触れ顔を出す。近江商人の流れをくむ主要企業はウキペディアを参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA

蛇足2:六郷の渡し、矢口の渡し
前出の俗謡「お江戸日本橋」の中に♪六郷(ろくご)渡れば川崎の・・♪という節がある。六郷に慶長5年/1600年に徳川家康が六郷大橋を架けさせたが、元禄元年(1688年)の洪水で流された後、再建されず船渡しとなる。結局、幕末まで多摩川には一本も橋がないことになった。

嘗て1年ほど、プロジェクトで大手ITベンダのオフィスを間借りしたことがある。最寄り駅は東急多摩線の武蔵新田であった。蒲田→矢口渡→武蔵新田という駅順だった。その時初めて、①矢口の渡しという多摩川の渡しがこの辺りにあったこと、②武蔵新田の新田は近くの新田神社から来ており、新田義貞の次男、新田義興を祭ってあること、を知った。
矢口の渡しは昭和24年(1949年)に多摩川大橋が完成するまで使われていたらしい。

尾張屋版江戸切絵図『神田浜町日本橋北之図』(1850)国会図書館デジタルコレクション
広重『江戸名所百景 する賀てふ』国会図書館デジタルコレクション


広重『冨士三十六景 東都駿河町』山梨県博物館かいじあむ

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