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近世・近代区分と虚妄?の明治維新

タイトル写真は日田の咸宜園跡

長過ぎのプロローグ:
NHKの大河ドラマを観たことがある人は「時代考証」の担当者が番組始めの配役紹介とともに出てくるのはご存じだろう。大石学という方(江戸時代を専門とする歴史学者、時代考証学会会長)の名前を知っている人も少なからずいると思う。大河では以下について担当されている(その他にもあるかもしれない)
①『篤姫』
②『新選組!』
③『西郷どん』
④『八重の桜』
⑤『龍馬伝』
⑥『花燃ゆ』
大石氏の社会人向け講座の中で受講者に「番組毎に観たことがある人は手をあげて下さい」という話があった。数えた訳ではないが、上記の番組一覧は手をあげた人数が多い順に記している。トップ『篤姫』最下位が『花燃ゆ』だったことは間違いない。

大石先生は「視聴率が高かった時代を除き、『篤姫』の視聴率トップは変わっていない一方、『花燃ゆ』の最下位も変わらずで、最上位と最下位の時代考証を担当した」と冗談めかして言われていた。「『八重の桜』『花燃ゆ』とも有名でない人物が主人公ながら、後者が不人気なのはアンチ長州の人が多いのでしょうかね。安倍さん(故元首相)が(長州か吉田松陰を?)表に出し過ぎたのも影響しているかも?知れません」とこれも冗談交じりにつけ加えられた。

補足:
2000年以降なら『篤姫』の視聴率トップは正しい模様。『花燃ゆ』が最下位かは怪しい。
図録▽NHK大河ドラマの平均視聴率の推移 (honkawa2.sakura.ne.jp)
不人気だったのは確かである。ネット記事によれば、低視聴率だったことについて主演女優の井上真央は「テーマが悪い」「脚本が悪い」のどちらかで同情されていたはず。
私が一応観たといえるのは①、②、③。④以下は全く観たことがない。尚、昔から幕末・維新物では視聴率が取れないと言われている。明るさがない、陰湿・陰惨なイメージがあるから、或いは太平洋戦争にまで繋がったからであろうか。

講座の中で『花燃ゆ』の映像と台詞の幾つかが紹介された(主人公は松陰の末妹で久坂玄瑞の妻となる杉文)。吉田松陰など松下村塾を巡る人々の会話を介し、自ら学びたいという意思、何の為に学ぶかを考えること、インタラクティヴな教育、の大切さの好例を示すという趣旨であった(講座の終わりに、後に松陰の行ったことは塾の分裂とテロを招き褒められたものではないという付言あり)。

さて、プロローグは終わり、ここからが本題である。
日本史では近世と近代という時代区分をするのが常套である。
○近世:主に江戸時代。織豊時代も含めるのが一般的
○近代:明治から。但し、近代と現代の境界は特にない
この区分に異論がある学者(歴史学者に限らない)も少なからずいる模様。しかし乍らどこかで分ける必要があるので致し方なしであろう。ともあれ、これにまつわる事柄をいくつか述べたい。

1.経済学では江戸は近代という考えが今や主流
江戸の初期からそうであった訳でないけれど、途中から江戸の経済は近代といっていいというのが現在の経済学者・経済史学者の主流(アーリーモダンという学者も居る)。高度な流通体制、為替取引、先物取引、株仲間、マニュファクチャリング体制等が整備されていたからである。但し、英国の産業革命を超狭義に捉えて「蒸気機関と機械化」が近代の要件とするなら、そこまでは到達していないことになる。
補足:
英国の第一産業革命(紡績機、力織機、蒸気機関発明の時代)時の国民生産の年成長率は高くなかった。例えば、1780年~1801年は1.3%/年と推計されている(山川の『詳説世界史』による)。大きく進展した鍵はその後に出てきた交通革命(蒸気機関車や蒸気船の発明)ではないかと思っている。
西洋史では近世という用語は普通使わないが偶に見かける。英語ではearly
modernとなる。

2.近代化の背景は平和実現による教育の賜
江戸時代は「徳川の平和/パックス・トクガワーナ」とも言われ、江戸末期~明治初期に日本を訪れた外国人は、約250年間も戦乱のない平和な時代続いたことを他国にはみられぬ奇跡的なことと評した。江戸時代の日本の識字率が他国比非常に高かったことは有名な話であり、これは平和な時代がなせることだと言ってよいと考える。即ち、寺子屋(主に大阪の用語)、手習い所(主に江戸の用語)だけでなく湯島聖堂、藩校・郷校・私塾が全国にあり、義務教育でなく自主的に学ぶ、地元だけでなく他藩にある学び舎に行くなどの社会共通体勢があった(全国から有意の人が集まった最も有名なもの私塾は日田で廣瀬淡窓が開いた「咸宜園」である)。以前『江戸の和算』で書いたよう「読み・書き・算盤」に限らず数学書がベストセラーとなり、蘭学を始め各種の西洋科学も学んでいたりで、これが「明治維新」で早期に西洋にキャッチアップできた要因と考えるのが妥当だろう(お雇い外国人サポートはあったにせよ)。
参考:「江戸の和算」
https://note.com/kengoken21go/n/n824ab3826daa
<オマケ>
嘗ての時代劇では、高札が掛かった際、字の読める人が代読する場面がよく出てきたものだ。いわばマンガの世界である(漢文でもあるまいし、大抵の人が読めるようなものしか高札に出さない)。尚、識字率は読む能力のような印象を与えるが書く能力を含む。

3.「維新」は幻想か?(明治維新は「維新」なのか)
明治維新は英語でMeiji Restorationという。王政復古を訳したようで明治の復古、明治の復元という趣旨なのだろう。維新とは明治政府が「全が新しくなる、改まる」という意味で使ったので、西洋的に言えば革命/Revolutionでおかしくはない。最も、日本の天皇家は上古より常に最上位の権威であるという考えに立てば、日本には革命はあり得ないとも言えよう。

前記の2で書いたよう近代化の基礎は江戸時代にできたもので、明治政府のトップは薩長土肥が多かったとはいえ、実務を回していたのは優秀な旧幕府官僚であったのはよく知られるところ。従って、維新と呼ぶほどの大画期であったに疑問を持つ人もいる。薩長を主とする倒幕がなければどういう体勢になっていたかをタラレバで推測しても仕方がないが、筆者は海外への門戸解放や欧米技術導入は遅かれ早かれ実現していたはずと考える。江戸時代にも西洋の技術は(全面的でないにせよ)入っていた。但し、倒幕がなければ進歩のスピードはもっと緩やかだったと想像する。そう意味で画期であったと言うことはできよう。反面、その弊害もあったと思う。

王政復古の意味は幕府・武家政権から天皇政権に戻すということであろう。本来天皇親政で然るべきと思うが、明治政府はそう考えたと凡そ思われず、実態は同じである。寧ろ、孝明天皇の意志を無視し禁門の変を起こし王宮に発砲したり(長州)、「倒幕の密勅」と俗によばれる正式ではない(或いは偽の)詔書を作り(薩長+岩倉具視らの倒幕派公家)王政復古のクーデタを実行するなど、寧ろ天皇をないがしろにしたと言えるのではないだろうか(今の高校の教科書に王政復古はクーデタと明記されている)。最終的に
尊皇(といい攘夷)は単に倒幕をいう形にすり替わったと言えるだろう。

4.維新政府による意図的?誤謬拡大、学者・作家による誤謬拡大
明治維新政府(薩長土肥政権)を今更どうこういうつもりはないので、嘗て言われていたことで今では正しくない、又は怪しいと学説に出ていることをニュートラルに列記する。
(1)士農工商などなかった
士(武士)とそれ以外=農工商に違いはあったのかもしれないが、農工商の順序などなく、今の学説では完全に身分制度は否定され教科書から士農工商は削除されている(実際、豪商、豪農は資本家として武士を圧倒することも多かった)。
士農工商は中国に紀元前からある用語で、世の全ての人々(或いは世の職業の4区分)という意味である。老若男女に近い。

(2)坂本龍馬の過大評価
よく司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書くまでは坂本龍馬は有名ではなかったと言われる(真偽のほどは筆者は分からない)。この小説の影響を受け坂本龍馬像を思い描く人が多いとも言われる。司馬さんは歴史小説として書いたのであり、創作が入っているのは言うまでもない。龍と竜を使い分けたのは創作という意味だったか?。これに限らず司馬史観はよく非難されることが
あるが、司馬さんはそもそも歴史学者ではない。

①薩長同盟は坂本龍馬の会談斡旋のお陰か?
これは疑問視されている(決着はついていない?)。最もグラバー邸で有名なトーマス・グラバーから武器を調達し薩長間の武器・兵糧交換の媒介役をしていた=薩長の和解→同盟締結を支えていたのは確からしい。

②船中八策は本当にあったのか?
これも龍馬が本当に書いたのかかなり疑問視されている(但し、龍馬が同じような考えを持っていたかを否定するものではない)。少なくとも船中/船上で書いたというのは眉唾だろう。

(3攘夷の曖昧さと吉田松陰美化の問題
尊皇攘夷の元祖と言えば水戸藩の水戸学、特に後期水戸学であろう。また、攘夷というか外国人嫌いの筆頭は孝明天皇であろう。ところが他藩の攘夷(藩内でも意見が割れていたと思う)とは、当初どうだったかはさておき、開国反対ということを必ずしも意味しない。従って、攘夷と言っても、外国と付き合うこと(通商条約を締結すること)に反対するという意味と開国をするかどうかに関係なく、外国の侵略を打ち破るという二つの意味がある。
最終的に欧米を打ち破るどころか裏で繋がることになった。
補足:
明治維新がなければ日本が植民地化されていたかは、否定的な考えが主流である。

ところで吉田松陰の松下村塾は明治維新の生みの親のように言われる(日本政府も認めているから世界遺産の構成要素に入れているのであろう)。松下村塾の自由闊達で人を育てる塾風は評価できるものがあると思う一方、松陰の思想は過激で長州のテロ活動を生み(又は容認し)、更に日本の対外進出(主にアジア進出)思想のバックボーンだと言われていること・・征韓論の元祖とも・・も知っておくべきだろう。
補足:
世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」
https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkF
における松下村塾の説明:
「日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つ。特に,海防の必要性と,西洋に学び,産業,技術の獲得を重視する考え方が,長州ファイブや塾生に引き継がれ,後に,明治政府の政策に活かされ,日本の急速な産業化に貢献した」

プロローグで故元安倍首相のことに少し触れた。世界遺産への申請は2014年(登録は翌年)で当時の首相は安倍さんである。安倍さんが萩城下町と松下村塾を世界遺産に入れるよう指示したか定かではないが、その可能性は十分ある。世界文化遺産構成物の内、思想・人物に関するものは長州だけである(穿った見方をすれば恰も明治維新は長州が成し遂げたようすら見える)。

オマケ:
明治維新には孝明天皇暗殺説や明治天皇すり替え説など胡散くさい話/俗説
がある。薩長嫌いが多いからだろう。アンチ長州に比しアンチ薩摩が少ないのは、西郷と大久保が早く死んだからかも知れない。
ついでに言えば、鹿児島の英雄である西郷隆盛に対し大久保利通と川路利良(初代警視総監)は長らく鹿児島では嫌われものだった。日本維新の会の「維新」は英語ではInnovationである。


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