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[悪気のない日記]2020/9/20

 説明的な文章を書くことと、叙情的な文章を書くことの間で僕は揺れ動いている。この二者を行ったり来たりすることは、当初、僕が思っていたよりもずいぶんと難しいことのようだ。

 今日の朝、僕は七時に目覚めてまず洗い物を済ませた。その後、20分ほど走ってシャワーを浴び、パソコンの前に座って小説を書き始めた。気がついた時には2時を少し過ぎていた。それから卒論の実験計画を見直し、大学の研究室に行って装置の具合を確かめた。(まるで小学生の頃の僕のように扱いが難しい装置なのだ)
 帰ってきたのは18時。アパートの階段を登る途中でふと、僕はひどい立ちくらみに襲われた。

「あれ?何がいけないんだっけ?」と階段に座り込み、考えを巡らせた。そういえば朝ごはんも昼ごはんも食べ忘れていた。いや、ちょっと待て。昨日の晩飯も食べ忘れていないか?それ以前についてはもう思い出せない。きっとそれがよくなかったんだろう。

 部屋に戻り、冷蔵庫の中を開けると卵とブロッコリー、半分に割ったアボカド、小松菜、トマト・ソース、チーズが目に入った。僕は卵かけご飯とちょっとしたサラダを作って食べ、15分ほど眠った。

 それから久しぶりにnoteを書こうかと開いてみたのだが、どうも説明的文章を書く気分にはなれなかった。そのまま僕はレイモンド・チャンドラーの「フェアウェル・レディー(__さらば愛しき女よ__清水俊二訳)」を読み始めた。そして今、重い腰を上げてnoteを書いている。

 本当は、書きたいことはたくさんあるのだけれど、それらはまるで熱されたチーズのようにとろけてどこかへと(たぶん、僕の無意識の深淵だろう。もちろん、深淵と呼べるほどの深さがあったとして、だが)滴り落ちていく。おそらくはいつか、小説の中にひっそりと込められるのだろうと思う。そんな風に僕は小説を書いてきたし、これからも書いていくだろう。

 その試みを、僕はとても気に入っている。世の中に出すあてもなく、ただ、自分にとっての完璧を目指す。もちろん、”完璧な小説”なんてものは存在し得ない。その存在自体がメタ的なフィクション。虚構だろう。

 それでも、自分の作品を完璧に漸近させていく作業が好きだ。油断していると僕はその作業にすっかり埋没してしまう。そして、社会参加をすっかり忘れてしまいそうになる。(要するに小説を書いているときの僕が果たしている社会的な機能は、画面と向かい合っている壁と大差ない笑)

 noteよりも「文章」という形態で社会参加をするのに適した媒体を僕は知らない。僕はこの場所で、片手で数えられる数のフォロワーさんたちに向けて文章を書く。そして、「まぁ、ちょっとばかしは社会参加してるから、許してよ」と自分自身に対して主張する。今のところ、もう一人の僕はそのことを許してくれているように思う。

 放っておけば、僕は社会参加をやめてしまうだろう。だからこそ、僕はそうした傾向性に、なけなしの意志をはたいて抗わないといけない。幸いなことに、noteには興味深い人たちがいる。僕は僕のフォロワーさんたちのあり方が好きだ。関わることができて本当によかったと思う。

 続けられる限り、僕はこうして自分で紡ぎ出した言葉をそっと、世界に向けて放つつもりです。受け取ってくださる方がいらっしゃることを感謝しながら。

 ずいぶんと叙情的な文章になってしまったかもしれません。それは、僕が今、小説を書いているせいです。

 

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