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縦書きか横書きか

 僕はずいぶんと長い間、小説を書き続けている。自己紹介にも書いた通り、ほとんど文字記号を知ると同時にその習慣は始まった。たぶん、文字記号を忘れるまで続くのではないかと思う。

 これまで書いてきたものを全て集めるとそれなりの量になる。その中に、一編の奇妙な小説がある。

 その小説を、僕はもう十年ほども書き続けている。中学生の頃に書き始めたので、その物語の主人公は中学生だ。その小説の世界を僕はずっと頭の片隅に抱き続けている。舞台がどのような街なのかを僕はよく知っている。あの角を曲がった先に何が見えるのかも。空が春夏秋冬を経てどのように変化するのかも。そんな街の中を僕は今でも現実の街と同じように歩き回ることができる。その時、僕は中学生の頃に戻っていることもあれば、そうでないこともある。

 さて、その小説は僕の頭の中ではすでに完結している。その物語は僕の頭のどこかに一つのまとまった像を纏って存在する。そうした形なき像を、僕は様々な形で切り出してきた。一人称で書いたり、二人称で書いたり、三人称で書いたりした。英語で書こうと試みたこともある。現在進行形で書いたこともあれば、回想という形をとったこともあった。今、僕はもう何度目か分からないが、同じ物語を回想という形で書き直している。縦書きで。

 そのように同じ物語を様々な形で文章に開いている。文章以外の形にしてみたことはほとんどない。せいぜい、頭の中にある街の様相をスケッチしてみたことがあるくらいだ。

 様々な方法で同じ物語を書き綴っていると、物語の側を基準として文章の側を逆算することができるような気がしてくる。表題の「縦書きか横書きか」に繋がっていく。

 ある時、僕は同じ物語を横書きに開きながら、ふと、自分が分析的になっていることに気づいた。そこで重視されているものは科学的客観性に近い何かだった。再現性や反証可能性を担保するように気をつけて書き綴っていた。別の言い方をすれば、そこで僕が重点的に描いていたものは「ある一人の人間」というよりも、「ある一人の人間の中にある普遍的人間性」だった。それは小説というよりも心理アセスメントに近い何かになっていた。

 そうするうちに僕はふと、自然科学は「繰り返す事象」を対象とし、人文科学は「一回きりの事象」を重視するものだということを思い出す。その違いが大まかに理系と文系を隔てている。

 横書きはどうも自然科学の文章に向いているように思えた。自然科学の書籍は必ずと言っていいほど数式を含む。数式は当然横書きだ。
 一方で人文科学に関しては縦書きが多いことに気づく。人文科学の領域にある書籍の中にも横書きは存在するが、それらは自然科学寄りの分析的な内容になっていることが多いのではないだろうか?

 もしかしたら僕は至極当然のことを並べ立てているのかもしれない。僕がここで強調しておきたいのは、横書きか縦書きかによって僕の中の何かが切り替わるということだ。ガス栓のつまみのように、僕はそれを縦にしたり横にしたりする。そのことで何かが膨らんだり、萎んだりする。

 さて、英語の小説についてはどうだろう?という意見がありそうに思う。英語は人文科学的な内容だろうが、自然科学的な内容だろうが、どちらも横書きだ。その結果なのかどうか知らないが、(違うかも^^;)横書きのみの世界においては、文理の区別がそれほどきっちりとしていないように思う。それが良いことなのか悪いことなのかはさておき。(斜め書きならどうだろう?と言ってくる人がもしいたら、僕は黙って睨み付けることにする)

 僕は「縦書きと横書きの切り替え」をとても便利なものだと見なすようになった。さっきも書いたけれど、それはつまみのようなものなのだ。その二つを切り替えることで、僕はどちらの文章も書くことができている(気がする)
 そんな時、縦書きと横書きが混在する日本に生まれてラッキーだったな、としみじみ思う。もしそうでなければ生きていくのが今よりも少し困難になっていたのではないか、とすら思う。

 

 

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