[悪気のない日記]2020/10/6
最近、僕はトルーマン・カポーティの『冷血』にハマっている。
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使用にあたって、指導教授の許可が必要な毒物を受け取るために久しぶりに人の多い時間帯に(つまり、昼間に)研究室に行った。そこで博士課程の先輩に久しぶりにお会いした。
「最近何読んでるの?」といつも尋ねてくださる。そこで僕は「トルーマン・カポーティの『冷血』です」と答えた。
僕は今、本当に『冷血』にハマっている。今、手元においているのも『冷血』だ。読むのは三回目。
「お前、付箋なんか貼ってんのかよ」と先輩は僕の本を受け取っておっしゃった。
「貼らずにはいられないんですよ」と僕は言う。
「トルーマン・カポーティは、『ティファニーで朝食を』を読んで、つまらんなって思って読まなくなった」と先輩はおっしゃった。「読んだことある?」と。
「もちろん、読んだことはありますよ。一度目は関口直太郎訳で、二回目は村上春樹訳が出てから」
「なんかごめんね」と先輩はおっしゃる。だが、僕はそうした先輩のあり方がけっこう好きだ。なぜなら、僕の好きな20世紀半ばのアメリカ小説に対する最も一般的な反応は「無関心」だからだ。
「なんかね、1950年代くらいのアメリカ小説はどうしても好きになれんのよ。カポーティとか、サリンジャーとか、あのあたり」
「そこには同族嫌悪があるように思えます」
そこで先輩は「あちゃー」といった様子で額に手をあて、地面を見つめる。
「俺のこと、冷笑的な人間だと思ってるだろ?」
「違うんですか?」
「違うよ。俺は、熱い男だ。じゃなきゃ、博士課程になんか来るかよ」
言われて見ればその通りである気もしたけれど、いくらでも反論を思いつけそうだとも思った。とりあえず僕は「帰ります?」と尋ねることにした。
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カポーティの「冷血」は、厳密な意味では小説ではないし、ノンフィクションでもない。カポーティ自身は、その作品に「ノンフィクション・ノヴェル」というラベルを貼り付けようとした。(しかし、世間一般ではノンフィクションとして知られるようになった。そして、その執筆手法は『ニュージャーナリズム』の源流とされた。やがてそのニュージャーナリズムとやらは廃れてしまって今となっては絶滅危惧にある、らしい。)
素晴らしい作品だと僕は思う。カポーティはこの作品を書き上げたところで新しい作品を書けなくなり、酒浸りになって最後を迎えたとされるが、これほどのものが書けたのならそうなってもいいかなと(ちょっとばかし)思ってしまう。僕にもいつかこういうものが書けたら、、、この世界に生まれてきたことを心の底から肯定することができる気がする。
それくらいに崇め奉ってしまう作品だ。
さて、作品自体も素晴らしいのだが、訳者の佐々田雅子さんの訳も好きだ。ものすごく丁寧で読みやすい。一つの単語も、疎かには訳していない感じがある。僕が読んだものは大体15年前に書かれた訳だけれども、まだ古くはなっていない。
そして、訳者あとがきも好きだ。(要するに僕はこの作品の最初から最後まで、全てが好きだ笑)
いつか、この訳が「古い」と言われるようになってしまって、この作品が日本から忘れ去られそうになってしまっていたとしたなら、僕が翻訳してみたいと思う。(その頃まで僕が生き残ることができるのかどうかはさておき笑)村上春樹の言うように、「不朽の名作というものは存在するが、不朽の名訳というものは原理的に存在しない」のだ。いつか、僕が長生きすれば、そうした幸運の機会が巡ってくるのかもしれない。(巡ってきたらいいなぁ)
三回目を読み終えたら、四回目は原著を読もうかと思う。
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