紫だちたる雲

 明日春がきたら君に会いに行こうという書き出しで文章を始めることが、3月のお茶代サークル(毎月発表される課題に沿って文章を書くとお茶代がもらえるらしい、快いサークル)のジッケン課題であるが、私は具体的に何を確認すれば春が来たと言えるのか分からず、どうも書き出せずにいた。
 春と聞いて私が真っ先に思い浮かべるのは4月。
 つまり春が来るとは4月1日になることかと思ったが、4月1日はエイプリルフールという役をすでに負っており、そこに春の訪れを被せることは駆け出しの春には些か重荷に感じるし、何より、4月1日に春がくると決まっているなら「明日春が来たら」という不確定な言い方はおかしい。
 桜の花が開いたらと言うなら、桜の木が生えていない地域に住む私には、永遠に春が訪れない。
 今年の立春は2月4日とされているがその日はあまりの寒さに震えていたし、立春に合わせて春が来たと考える人など最早いないだろう。
 その他、春の訪れと言い得る出来事は多々あるが、そもそもそれが統一できていない時点で、「春の訪れ」を条件に約束を交わすことは「行けたら行くわ」の言い換えでしかなく、せっかくのロマンチックな宣言も忽ち軽薄で無責任な文章に感じ、書き出しとしての魅力には欠ける。
 こういった具合に考えているうちに、私はだんだんと私が鈍感なだけではないかという気がしてきた。
 例えば、私は「金木犀の香り」を20年以上生きてきて一回も感じたことがない。
 私の鼻はいつでも頗る快調であり、多くの人が訴えるような匂いを嗅ぎ逃すことはないだろうし、金木犀の香りだけが演出されたトゥルーマン・ショーに出演しているとも考えにくいので、一時は感受性が豊かであることを過剰にアピールしたい人々の痛々しい同調であると考えていたが、1/2成人式を迎える頃にはどうやら金木犀が存在するらしいことは納得していた。
 もしくは、金木犀の香りを受容する嗅覚受容体のみが死滅しているのではないかとか、実は重度の金木犀アレルギーであるが故に強力な守護霊によってその香りから守られているのではないかとか、あらゆる可能性を考えた。
 しかし他にも、季節や気温に対して鈍感であることの証左が考えれば考えるほどに出てくるので、どうやら受容体の死滅も守護霊の線もなさそうだ。
 そういう点から私がただ鈍感であるだけという線が濃厚になり、そうなると今回の課題の条件を達成するのはいよいよ困難になってきて、私は「今月は辞めておこうかな」などと考えていた。
 そうしてしばらくこのことを放念していたある日、私は春が刺殺されている場面に遭遇した。
 それは最寄駅の仁比岬神宮から五駅の、小美濃宮駅繁華街裏通を当てもなく漂っていた明け方の出来事で、私が発見した時には春はもう駆動しない肉塊になっていた。
 だというのに、その胸に幾度となく真っ赤なナイフを突き立てる馬乗りになった男は、私に気づくと後ろ向きに全力疾走していった。
 突き立てられたままのナイフの先から、血が優しく溢れている。
 私は彼女の死体の傍に立ち尽くして、考え事をしていた。
 私の幼馴染、山塚春(22)、そうか、春が来たらというのは、別に季節じゃなくてもよかったのだ。
 いいアイデアを貰った。春よ、ありがとう!





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