Et In Arcadia Ego(再録)

 うんと昔、僕がまだ歯の抜けた口を大きくあけてひゃらひゃらとなんのことやら判らない歌を歌っていた時代のことだ。東京の実家からうんと離れたどこかに本牧という場所があって、そこに母方の祖父母が住んでいた。板チョコレートのような木のドアを開くと、靴棚のうえの磁器の花瓶に南国の花々が生けられていて、玄関先には埃を吸ったペルシャ絨毯が過去の輝かしい交易とむせるような熱気を忘れたまま横たわっていた。僕は年に四度ほど祖父母を訪ねるたびにその悩ましい匂いを胸いっぱいに吸い込み、異国の富をくすねる小悪党のような冒険的な気分に浸ったものだった。坂の上の洋館、それがそのこじんまりとした家が僕に与える印象だった。祖母がクリスチャンで、クリスマスのたびに神様の話を僕に聞かせたことも関係していたかもしれない。坂の上を散策すれば、風見鶏を頂いたパステル色の家並みとアメリカンスクールの校庭の芝生の緑が眼に映えて、僕に東京のみすぼらしさを思わせるのだった。

 エリアと呼ばれる小さな丘陵があった。もともとは名もない丘だったのだが、その一帯が米軍居住地としてフェンスに囲まれていた時分、「エリア2」と数字を便宜的に付記して呼ばれていたのだとのちに祖父は教えてくれた。とにかく、かつての使用者たちは撤退し、エリアというそれ自体なんの固有性ももたない呼称と、有刺鉄線だけが残った。僕は従姉のKちゃんとバッタを捕まえたり、タンポポの綿毛を蹴散らかしたり、戦争ごっこに興じる男たちがバラまいた白やオレンジのプラスチック弾を地面から拾い集めては投げ合ったりしていた。僕たちは丘を走り回ることに付随するすべての愉楽とその発明とに近視眼になって、服が汚れることも熊蜂の羽をむしることの残忍さも、親たちに諭されたことのすべてを忘れていた。その丘は僕とKちゃんのエリアだった。

 丘のはずれからは横浜の工業地帯が見えた。鉄のパイプで結ばれたセメント工場と紅白模様のクレーンが海に面して並んでいた。僕は当時、鉄骨のクレーンはでかい馬の化け物だと信じ込んでいた。背びれを光らせたゴジラが海面からのそりと頭をだせば、彼らはその鉄の蹄を鳴らして抗戦するだろうと。そこは空想と現実が渾然一体となった場所で、そのなかを歩く僕に歴史や文明といった観念はまだ存在すらしなかった。赤い靴をはいた女の子を連れ去ったイジンさんが何者かも知らなかった。父の運転する車は年に四回東京と本牧とをつなぐ揺りかごで、僕は自分が十二歳のときに赤いスポーツカーに轢かれて命を落としかけることになろうとは思いもしなかった。ひとつのメルヘン、そんな言葉がよく似合う。本牧はそんな場所だった。

(2011/1/14)

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