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綿矢りさ『かわいそうだね?』ー「かわいそうな人」になる人とのかかわり方、「かわいそうな人」にならないための倫理

 みなさんのまわりに、自分から不幸になっている人っていませんか?もしかして、あなたもそうなっているかもしれません…
 本文は、自ら「かわいそうな人」になる人との付き合い方自分が「かわいそうな人」にならないための方法を、本作の読解を通して、千葉雅也『現代思想入門』をイメージしながら考えていきます。

 本作は、樹里恵と交際している隆大が元カノのアキヨを「かわいそう」だからという理由で同居させることから始まります(!)。

 これに対して、樹里恵は始め断固拒否しますが、隆大は別れを切り出します。樹里恵は戸惑い返事を先延ばしにします。樹里恵は隆大に惹かれておりキッパリと別れることができません。
 アキヨは隆大に好意を抱いていますが、隆大は樹里恵のことを愛しています。こんな不思議な三角関係に樹里恵が振り回されることで物語は進んでいきます。

 本作は三角関係があります。三角関係の原因はアキヨが作り出していると言ってよいでしょう。アキヨは、(半ば自覚的に)自分から「かわいそうな人」になっていることがその原因です。

 自ら「かわいそうな人」になるとは、どういうことでしょうか。

 三角関係の中でアキヨは隆大の心が離れていることを知っています。それでもアキヨは隆大のことが好きなままです。アキヨはこう言います。

 「でも、幸せ。心はいくら痛んでもしょせん心、目には見えない、形もない、気分次第の、不確かなものなの。形の無いものをいくら痛めつけたって、少なくとも死ぬことはない。私は生きにくいから、無理は心に背負わせるの」

 アキヨのこのような姿勢は、現実を生きにくい人からすれば、現実を生き抜いていくための一つの方法ではあります。現実に起きていることから目を逸らし、自分に嘘をついて生きる。そんな方法です。しかし、このような生き方を外から見ると「かわいそうな人」でしかありません。

 こういった「かわいそうな人」は、周りの人たちにも影響を与えます。他人の「かわいそう」という気持ちが生じるのを促すのです。
 言ってしまえば、自分から「かわいそうな人」でいることで、相手から憐れみを引き出してしまうのです。自ら「かわいそうな人」になるアキヨに誘発されて、一貫して「かわいそう」な気持ちになって、アキヨ助けたいと思ったのは、本作では隆大に他なりません。

 自ら「かわいそうな人」になる人に対するかかわりか方としては、そんな相手を理解しようとする、ということも選択肢に挙がるでしょう。
 相手の考えを理解して、一緒に悩んだり解決策を考えたりするのです。本作では、相手の文化を学んだり、アキヨ本人から話を聞いたりした樹里恵がその例です。

 しかし、これでは自ら「かわいそうな人」になる人に対してうまく付き合うことができません。
 なぜでしょうか。
 自ら「かわいそうな人」になる人は、「かわいそう」と思った人を引きつけます。引き付けられた人とかかわり合い、特に隆大のように恋愛感情がある場合は、「かわいそうな人」に嫉妬してしまうでしょう。
 「かわいそうな人」を妬んでいる気持ちがあるのにもかかわらず、「かわいそうな人」のために理解してあげなくてはならないと思っていては、いつの間にか、自分を騙して耐えようとしている人、すなわち「かわいそうな人」になってしまうのです。

 樹里恵が、後輩で恋愛経験豊富な綾羽から、「先輩。かわいそう」「彼氏さんがよっぽど好きなんですね。自分をだまして耐えようとしてる」と、樹里恵が「かわいそうな人」になっていることを指摘したのは、
 樹里恵が、アキヨを助けようとする隆大とかわいそうな人であるアキヨを理解しようとして自分自身に嘘をついていることを見抜いていたからなのです。

 最終的に樹里恵は、強い方法でアキヨ(と隆大)から距離を取ることを選びとります。

 アキヨと隆大に対して本音をぶちまけるという方法です。樹里恵は、アキヨには自分自身で「かわいそうな人」になっていることを、隆大には「かわいそうな人」とのかかわり方を考え直すことをぶつけます。

 アキヨと隆大と離れ、本音をぶちまけ、スッキリした樹里恵は「困っている人はいても、かわいそうな人なんて一人もいない。」と考えます。

 今までの話を踏まえてみると、どのような意味でしょうか。

 生きていれば絶望するような、解決困難な問題に人は直面します。でも、自分を騙して耐えようとすることは自分の勝手です。
 困難を真正面から受け止めて、問いを分割し、行為をひとつひとつこなしていけば「かわいそうな人」にはなりません、こんな意味です。樹里恵の言葉を借りるなら「生存能力の高い」生き方でも言いましょうか。

 こうした生き方、取り組み方は、絶望的な問題に直面することを求めます。大変辛いことです。耐え難いことかもしれません。本作で樹里恵は一つ、煙草を吸います。

 「(…)身体に有害なツケがたまっていくのは知っている。でも、最終的にどれだけ莫大なツケを払わされるとしても、一服のその瞬間には、煙草は絶対に裏切らない。」

 将来の問題を忘れるわけではありません。頭に思い浮かべます。それくらいはします。でも、いつかくる「ツケ」よりもいま・ここの「一服の瞬間」の価値を重くみています。
 あくまで世俗的に「まぁ、いいか」と自らを許すのです。そんな方法を取っても構わないのです。

 樹里恵のさいごの言葉にはいま・ここの辛さに対処するための知恵が端的に表れています。

 「この気持ちをうまく言い表している故郷の言葉があった。なんだっけ。残念だけど、うまくあきらめられる、いいあんばいに現実逃避できる言葉。あ、思い出した。」

 「しゃーない。」

 私たちは自ら「かわいそうな人」になる人に対しては、距離を置く他ありません。そして、私が絶望したときは、その絶望と向き合わなくてはなりません。絶望と向き合って、一つ一つ問題を切り出して解決して、積み上げていくことで「かわいそうな人」にならないようにしなければなりません。
 しかし、絶望に向き合うときの耐え難い辛さは、うまくあきらめ、いいあんばいに現実逃避してもよいのです。そこまで自分に厳しくする必要はないのです。それは、「しゃーない」ことですから。


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